59.鎌倉幕府と源頼朝

当時の鎌倉は源頼朝が幕府を開いてから五十年ほど経過したときでした。日蓮聖人がこののちに鎌倉にて布教を始めるのは国家を左右する北条氏の幕府があったからです。日蓮聖人の布教はこの権力者に向けて真実の仏教による政治理念を説くことでした。日蓮聖人の生涯は幕府内における権力支配のなかに左右されることになります。日蓮聖人を知るためにはこの幕府がいかような権力支配を経てきたかを知り、また、その幕府から見た日蓮聖人の思想は政策と合致できたことなのかを歴史的にみていくことが必要です。そこに、日蓮聖人が置かれた立場や幕臣である信徒との絡み合いがみえてくるのです。そこで、鎌倉幕府について概観してみたいと思います。

まず、この鎌倉幕府が誕生するきっかけになったのは後白河法皇の次男である以仁王の乱・源頼政の挙兵でした。仁安3年(1168)以仁王の兄、二条天皇が若くして没したため次の皇位をめぐり、平清盛は自分の妻の妹、平滋子の子で8歳の高倉天皇を即位させました。つまり、以仁王の弟が皇位に就いたのです。そして、承安2年(1172)2月、平清盛は自分の娘の徳子を高倉天皇の中宮としました。さらに、治承4年(1180)2月に高倉天皇の嫡男言仁(ゆきひと)を即位させ安徳天皇となります。これにより以仁王の皇位継承は完全に断たれたことになります。

ここで、歌人として著名であり武勇にも勝れていた77歳の源頼政は平氏打倒を以仁王に進言します。興福寺や園城寺の僧兵も平家政権に反発していましたので、治承四年(1180年)4月9日に以仁王は最勝親王と称して平氏追討の令旨を全国の武士に発しました。しかし、以仁王は平氏方に追われ園城寺に敗走します。清盛は園城寺にいる以仁王に大軍を差し向け宇治川橋の戦い・宇治平等院の戦いで首謀した頼政は自害し、以仁王も討ち死にします。しかし、この以仁王の令旨は源氏の平氏に対する反撃となり、治承4年(1180)から寿永の乱(1185年)まで6年間の内乱へと発展し、ついには、同文治元年(1185)3月に壇ノ浦で平氏が滅亡したのです。

さて、頼朝も流刑先の伊豆の蛭ヶ小島でこの令旨をうけ、舅の北条時政の援助をうけて8月17日に平家打倒のために挙兵します。そして、伊豆国目代(もくだい)の山木兼隆を攻め落とし、そのまま東進して三浦氏と合流するはずでしたが、その途中の8月23日に平氏方の大場景親・伊東祐親(すけちか)の大軍に遭遇し、石橋山の合戦に破れてしまいます。敗走した頼共は8月28日、真鶴半島から海上を経て29日に安房に逃れたのです。

安房には源氏と縁の深い三浦氏が勢力を強めていました。その後、頼朝が平氏追討の大儀名分としたように、以仁王の令旨は平氏政権に反発していた全国の源氏を刺激し源平の争乱へと発展していきます。頼朝は三浦氏や上総の千葉氏、武蔵・相模などの武士を集めて十月七日、石橋山の敗戦からわずか四十日後の10月6日に鎌倉に入り南関東を制圧しました。鎌倉を拠点として選んだのは、千葉常胤の要害の地として適していること、源氏にゆかりのある鎌倉で源家中絶の跡を復興すべきという進言によるといわれています。鎌倉はもともと頼朝の先祖である頼信が賜った地で、次の頼義が源氏の氏神である八幡神を分祀したゆかりの処であったのです。

鎌倉に入った頼朝は地の利を生かして敵からの攻撃を防ぐ要塞を徹底的に築城します。鎌倉は源氏とは縁が深く、源頼朝の祖である源頼義が康平6年(1063)8月に、朝廷の命により奥州蝦夷の族長である安部貞任を鎮圧しに遠征したおりに、源氏の氏神である京都の岩清水八幡宮に戦勝祈願をしています。この前九年の役の勝利によりひそかに石清水八幡を由比ヶ浜に勧請していました。これが元八幡といわれる由比若宮で現在の材木座1丁目です。永保元年(1081)2月には源頼義の子である義家(1039〜1106年)が修復していた八幡宮がありました。義家は岩清水八幡宮で元服したことから八幡太郎の呼称で有名です。武家の英雄として称賛されていますが、『梁塵秘抄』には八幡太郎は怖ろしいと詠われており、実際には戦乱とはいえ残虐非道な人物であったのです。

治承4年(1180年)10月6日、鎌倉入りした頼朝はこの氏神としての八幡宮を北山の大臣山の麓に移して、鶴岡八幡宮を再建し幕府・武士の守護社・守護神としました。八幡宮は京都の大内裡になぞらえたといいます。由比ガ浜の海岸に向かう若宮大路は平安京の朱雀大路に倣ったといいます。初期の段階では京都の貴族文化を模したといいます。その後、義経から平泉文化を聞き奥州征伐のあとには、中尊寺を中心とした平泉の統治理念を模したようです、勝長寿院や永福寺の創建は平泉の影響といわれ、永福寺は本堂が二階にあることで知られますが、これは中尊寺の大長寿院の二階本堂を模したといいます。これらのことから、鎌倉幕府の文化的な面が都を模した平泉をさらに模倣しなければならないほど貧困だったと指摘されています。

この年の12月12日に邸宅が完成し広常邸を出て移り住みます。同日、和田義盛ら三百十一人の武士たちは頼朝を「鎌倉の主」に推戴します。これに従って多くの御家人も鎌倉に入りました。大蔵郷の幕府内に、侍所・問注所がおかれ、小町大路には公文所(政務をする役所)が建てられました。御家人の屋敷も建てられ、商人なども定住すようになります。それまで半農半漁の村であったのが政治と軍事都市となっていくのです。

これに対して、平清盛は嫡孫の平維盛(これもり)を総大将として東海道を下り関東に行軍させます。しかし、坂東武者の勢いを聞いた平氏方の7万いた兵が4千に減少したというほど戦意を失ったものだったので、10月18日、頼朝は富士川で戦いこれを打ち破りました。さらに、常陸の佐竹氏を討ち関東を制圧していきました。そして、下野の小山氏を招き御家人を統制するために11月17日に侍所を設置し和田義盛を別当起用しました。

また、養和元年(1181)1月1日に、元旦を鶴岡八幡宮に奉幣を行なう日と定めます。これは有力御家人をこの儀式に集め、あわせて頼朝を武家の棟梁と認めさせる意図をもっていました。

1月19日、頼朝は奥州から馳せてきた弟の義経と黄瀬川の陣で対面します。閏2月清盛が63歳で急死します。そして、寿永元年(1182年)に若宮大路の造作に着手します。当時の大路は幅約33b、両側に幅約3b深さ1.5bの溝が掘られていました。この付近は湿地帯で、道の中央に参詣者のために置石が敷き詰められていたといい、現在の段葛(だんかずら)がそのなごりといいます。この大路の造作は政子の安産祈願のために行われたといわれ、そして、鶴岡八幡宮は鎌倉武士の精神的支柱として頂点に据え、平家追討の祈祷や幕府の儀式や年中行事などを行っていきます。この年の9月に京都から後三条院の御後輔仁親王の孫という、中納言法眼円曉が下向して別当になります。

また、大庭景義が奉行人をつとめて大蔵郷に新邸を造りはじめるなど鎌倉幕府が政治の拠点として整備されていきました。頼朝がここを拠点にした理由は、自然の防御の地形、交通の要路、海路が発展したことといわれています。港から八幡宮につながる小町大路、大町大路、若宮大路。若宮大路と鶴か岡八幡宮はその中心となり、道は切り通しが次々に造られて四通八達して、貞応二年の海道記によれば千万宇の家が軒を並べていたそうです。関東第一の過密大都市となっていきました。

大蔵幕府を四方から守るために西に鶴岡宮の神宮寺、東に永福寺、南に勝長寿院、そして、北に法華堂が配置され、それぞれの門には有力武士が居宅を構え警備の役目をしていました。

日宋貿易は平清盛の積極的な役割をみるように、勝長寿院・永福寺は失われましたが、建長寺・大仏の造営のために、中国に船を派遣して銅銭を求めている時代でした。

寿永2年(1183年)5月、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が10万の平氏軍を破り、そのまま京都に入り比叡山に陣を構えました。平氏方は安徳天皇と西国に逃避します。安徳天皇の後に誰を皇位につけるかで後白河法皇と義仲は対立しますが、後白河法皇は後鳥羽上皇を皇位につけます。義仲を政敵とみた後白河法皇は9月に平氏討伐を命じますが、義仲は備中国水島で平氏軍に大敗します。このような時に頼朝は10月に、後白河法皇から宣旨をうけて東国の支配を認められます。これに憤慨した義仲は後白河法皇を幽閉し征夷大将軍になります。しかし、翌年の元暦元年(1184)1月に頼朝は範頼と義経に木曽義仲を攻めらせ、琵琶湖畔の粟津ヶ原で討ち取ります。ところで、頼朝が後白河法皇の要請を受けて義仲を討ったのは、東国の支配権を得ることを条件としたもので、これにより鎌倉に武士の政権を確立することになりました。

東国の支配権を得たことにより頼朝の所領が増え、京都から招かれた大江広元などの下級貴族が、幕府の機構をつくりあげていく手助けをしています。政治の実務的な知識は最高水準のものでしたので、同年(1184)頼朝の側近として大江広元は政務を行う公文所(のちの政所)を担当し別当となります。三善康信は御家人の訴訟を担当する問注所の長官となりました。

 将軍と御家人との関係は、将軍の家来となった武士を御家人といい、将軍は御家人の土地を保障し功績のある者に土地を与え守護・地頭の任命をしました。御家人は将軍に忠誠をつくし、戦争に出陣し大判役などの奉仕をしました。御恩と奉公の主従関係をつくりました。また、このような主従関係で武士が農民を支配する社会のしくみを封建制度といいました。

 (鎌倉幕府初期の職制)

        |― 侍所――御家人の統率・軍事・警察

     中央 |― 公文所―一般の政務・財務

        |― 問注所―訴訟・裁判処理

将軍――執権――

        |― 京都守護―京都の警備

        |― 奥州総奉行―奥州の御家人統率と幕府の訴訟取次ぎ

     地方 |― 鎮西奉行―九州の御家人統率と治安維持

        |― 守護――国ごとの軍事・警察と御家人の統率

        |― 地頭――荘園や公領の管理・年貢の徴収

 (承久の乱後の職制)

侍所

政所――――公文所のこと

           問注所

    連署     引付衆―――所領関係の裁判処理

将軍――執権―――  六波羅探題

    評定衆    奥州総奉行

           鎮西奉行

           守護

           地頭

つづいて2月、一の谷(神戸市須磨区)の戦いで源範頼・源義経は平敦盛・通盛・忠度(ただのり)・経俊などの有力な平氏軍を討ち取り四国の屋島へ敗退させます。そして、翌年の文治元年(1185年)2月、屋島(高松)の戦いで平氏軍の残党を破り、3月に長門壇ノ浦(下関)で源平最後の戦いをし安徳天皇は入水し平氏一門を滅亡させています。

 4月、頼朝は従二位となり公文所を政所と改称して本格的に幕府を始動させます。同月、頼朝のもとにに壇ノ浦で大勝した義経が専横しているという報告が範頼や梶原景時から入ります、義経は以前にも頼朝の許可を得ないで後白河法皇から官職を賜ったことがありました。それは、義経が一の谷の合戦で勝利した功績により、後白河法皇は義経に検非違使左衛門少尉の任命をしました。ところが、頼朝からしますと武家政権に対する反目と写ったのです。それで頼朝は義経を謹慎に処したことがあったのです。そこで、これに危惧をもった頼朝は西国の御家人に対し義経を排除する命令を出します。義経は5月7日、反意がないという起請文を書きますが鎌倉入りを拒否され、しかも、京都に戻った義経に刺客を送られてしまいます。これに憤慨した義経は後白河法皇に頼朝征伐の院宣を得ます。ところが、文治元年(1185)10月、後白河法皇は入京した北条時政に攻められ、こんどは義経討伐の院宣を出したのです。これにより義経は兵力を集めることができず、翌11月には吉野山に逃避します。

ところで、頼朝の権力が全国的になったのは義経討伐の院宣であったといいます。また、頼朝は義経を捕らえる名目で朝廷の許しを得て守護と地頭を置くことを認めさせ、御家人をこの地位に就けます。守護は国ごとに東国出身の有力御家人を一名設置し、御家人を統率し大犯三か条という大番催促、謀反人の逮捕、殺害人の逮捕という警察権の役目をもちました。地頭は荘園と公領である国衙領(郡・郷・保)や平家の没官領・謀反人跡地に置かれ、年貢の徴収を請け負う役目をしました。このことにより、地方における鎌倉幕府の組織を確立していくことができ、頼朝は全国の軍事支配権を得ていくことになったのです。さらに後白河法皇を藤原基通に代え摂政も九条兼実に代えるように断行させています。このことは頼朝の権力が朝廷を屈服させるほどに拡大したことを示すことであったので、この文治元年(1185)を鎌倉幕府の創設とみる視点となっています。

(守護と地頭)

          |―国司―――国

朝廷――貴族・寺社―       

          |―荘官―――荘園

          |―守護―――国

幕府――御家人―――        

          |―地頭―――荘園

義経は文治3年(1187)秋、縁がある奥州の藤原秀衡のもとに庇護をうけます。文治5年(1189)2月、頼朝は朝廷の許可を得ないで奥州に出兵しますが、出兵の知らせを聞いた朝廷はあわてて征討の勅許を出したといいます。同年4月、衣川の館にいた義経(31歳)は藤原泰衡に不意に討たれ妻子と自害します。6月に頸が鎌倉に届けられると、7月19日、追討のため奥州征伐の軍を挙げ鎌倉を出立します。頼朝の本隊を別働隊に千葉常胤・八田知家は東海道から、比企能員・宇佐美実政は北陸道から進軍します。そして、9月6日泰衡は家来の裏切りに会い殺害されて、ここに奥州藤原氏の百年の黄金時代が終わります。この、頼朝の奥州征討の動員令は御家人との主従関係を明確にすることとなり、頼朝による源氏政権の確立を決定的にしたといいます。

翌建久元年(1190)10月に東大寺の再建により大仏殿の棟上式があり、このとき頼朝は京に入り後白河法皇と始めて対面します。そして、権大納言・右近衛(うこのね)大将の職を賜り全国の軍事と警察権を委嘱されます。建久3年(1192)3月に後白河法皇が没し7月に頼朝は征夷大将軍になります。幕府という呼称は征夷大将軍の陣所であり、征夷大将軍は朝廷の委任を受けて全国を支配し軍事力を掌握することができる役職です。すなわち、ここに頼朝による鎌倉幕府が確立したのです。このように、鎌倉幕府は西国の朝廷に反乱した東国人の政権であり、この後の百四十年間を鎌倉時代といいます。

つづいて、頼朝は京都を警護する京都大番役、鎌倉を警備する鎌倉番役、内裏や幕府・寺社の修繕を行なう関東御公事(おんくじ)を奉公として義務化しました。それに対し御家人に新恩給与として所領を与え、もともとの所領を本領安堵として保証し、朝廷の官職に就かせたりして御恩と奉公の関係を維持しました。このような鎌倉殿といわれる独裁政治を行っていましたが、正治元年(1199)正月13日、『吾妻鏡』によると相模川の橋の落成式のおりに落馬し、それが原因で53歳にて急逝しました。その後、源氏は頼家・実朝と三代の三十年ほどで滅び、鎌倉幕府の実権は頼朝の妻北条政子が掌握していきます。

 ところで、日蓮聖人は頼朝が比叡山の恩義に答えなければならないということをのべています。『安国論御勘由来』(422頁)に、

「殊清和天皇依叡山恵亮和尚法威即位。皇帝外祖父九條右丞相誓状捧叡山。源右将軍清和末葉也。鎌倉御成敗不論是非。違背叡山天命有恐者歟」

 ここに清和天皇の故事を引いて、清和天皇は比叡山の慧亮座主(812〜860年)の計らいで即位することができたのであり、天皇の外祖父の藤原良房は誓状を捧げて護持することを誓っていることをあげます。してみれば頼朝はその清和天皇の末葉にあたるのであるから、政道においては何事を差し置いても比叡山に忠実に尽くすべきであり、これに違背するならば天命の恐れがあることになるとのべています。

 この当時、比叡山は山門と寺門派に分かれて争っており、鶴岡宮の別当職をみますと幕府は寺門派から採用していました。また、仏教界においても寺門派の進出が著しかったといいます。(川添昭二『日蓮と鎌倉文化』47頁)。山門派に属する立場から山門派を叡山の正当と見たのか、派閥を超えた最澄の正当天台宗の立場からのべているのかという課題はありますが、正法である『法華経』を護持しているのは叡山のほかには日蓮聖人のみであるといい視点上にあるといえましょう。

(源氏系図)

                  (叔母比企局は頼朝の乳母)

比企能員――若狭局

        北条時政―――義時         ||   |――一幡

             |     政子     ||―――|――公暁

            |―義平  ||――――頼家(二代)|――実学

             |―朝長  ||  |―実朝(三代)  |――竹御所

  為義――――義朝――――――――頼朝(初代)|―大姫      ||

      |      |―範頼                ||

      |      |―全成(阿野)            ||

      |      |―義経                ||

      |      |――― 女     藤原公経     ||

      |            ||    ||―――綸子 ||

      |ー義賢―――木曽義仲  ||――――女    ||―頼経頼嗣

      |―為朝        一条能保  |女    ||(四代)(五代)

      |―行家               ||―――道家

                        |良経

   (摂関家)     藤原忠通――――――――九条兼美