60.北条氏政権の幕府                         高橋俊隆

○源頼家と北条時政

 源氏が三代で滅びた原因は三代の実朝に継子がいなかったからです。初代の頼朝には弟が二人いました。範頼は頼朝の怒りにふれて伊豆に配流され死亡しています。義経はそれよりも前に頼朝軍に追討され死亡しています。

さて、正治元年(1199)1月、頼朝と北条政子との子である頼家が18歳で2代目を継ぎ将軍(鎌倉殿)になりました。頼家は妻(若狭局)の父であり乳母の夫である比企能員(ひきよしかず)や、頼朝の側近として君臨した梶原景時を宿老として重用します。ここで、頼家の外祖父になったことでさらに権力を握ったのが頼朝の妻の父、北条時政でした。時政は頼朝の没後、わずか3ヶ月後の4月に頼家の失政を理由に頼家から訴訟の裁判権(直裁の権限)を奪いとり、時政・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・梶原景時・大江広元・三善康信など有力者による13人の合議制とします。

正治2年(1200)梶原景時は甲斐源氏の武田有義を将軍に擁立しようと謀ったため、頼家の幕府軍に討たれます。この後、頼家は建仁2年(1202)7月22日に征夷大将軍となり独裁政治をするようになります。これが有力御家人の反感となります。これに対し時政は頼家の権能を制限するのみではなく、建仁3年(1203)8月、頼家が病気になると、これを理由に9月7日に弟の実朝に家督をゆずらせ、実朝は征夷大将軍の宣下をうけ西国の統治権をもちます。そして、頼家の嫡男である一幡には東国の統治権を与えて将軍の権力を二分にしようとしました。これを不満とした頼家は9月22日に比企能員と反乱をおこしましたが、時政により比企一族は滅ばされてしまいます。頼家は和田義盛などに時政の追討を命じますが応じませんでした。ついに、伊豆修善寺に幽閉されます。北条氏がつぎに擁立したのが実朝で12歳で征夷大将軍になります。そして、23歳の頼家は翌元久元年(1204年)7月18日に謀殺されてしまいます。頼家の長男一幡も比企能員の反乱のときに討たれます。比企能員の邸跡に妙本寺が建ち、ここに比企一族の墓と一幡の振袖塚と若狭局の蛇苦止堂があります。

○実朝と北条義時

 3代将軍になった実朝はまだ12歳でした。政子が後見し時政が政所別当として初代執権政治を行ない幕府の中心となりました。時政は政所別当となって将軍にかわって権力を掌握していきました。そして、時政の野望は実朝の将軍職をも狙おうとします。それは、時政の後妻である牧の方の娘婿で源氏の一族である平賀朝雅(ともまさ)を将軍にしようとしたためです。そのため政子の妹の夫である畠山重忠の子重保も平賀朝雅(ともまさ)と対立し、元久2年(1205)6月に牧の方の告げ口により謀反の疑いをかけられ三浦義村により由比ガ浜の自邸で謀殺されます。畠山重忠も二俣川で義時に討ち殺され、有力御家人であった畠山一族も謀反の罪で滅びました。これに対し、母の政子と政子の弟義時は三浦氏の協力を受けて父の時政を伊豆へ追放し、義時が2代執権となり実朝排除は阻止されました。時政は故郷の伊豆に軟禁され10年の余生を送ったといいます。実朝は幕府の実権が北条一族にあったため公家のような生活を送っていたといいます。和歌に親しみ藤原定家や鴨長明との交流があり『金槐和歌集』をのこしています。

時政のあとを継いだのは義時で、第2代執権として政子と政権を執行していきます。義時は建保元年(1213年)、信濃の泉親衡が前将軍頼家の遺児千寿を奉じて北条氏を打倒するという情報に端を発し、それに一族が連座するとして和田義直が捕らえられます。これにより義直の父義盛は挙兵しますが、逆に義時により、政所別当として御家人を統率していた和田義盛を滅ぼし(和田合戦)ます。そして、自身が侍所別当も兼務するようになります。義盛を敬愛していた実朝が22歳のときでした。

和田合戦のときに大町大路付近で戦闘がありましたが、大路の両側には土手が築かれ、溝も掘られていました。大路の東側は西側より高く造られて、西の切通しを越えて侵入した敵軍から幕府の中枢部を防護するように防備体制がしっかり造られていたことがわかります。

和田一族が滅したあと義時は政所と侍所の長官を兼ねるようになり、その地位を執権というようになり、ここに執権政治が始まります。そして、これより北条氏の権力が強まり独占していくことになります。これより北条氏の嫡流を得宗と呼ぶようになりますが、これは義時が徳宗と号したことによるといいます。

 承久元年(1219年)1月27日、実朝は鶴ヶ丘八幡宮で右大臣叙任の拝賀式を挙げます。この式後、境内で頼家の次男で鶴岡八幡宮の別当である公暁が、父の仇として実朝を暗殺します。その公暁も頼った三浦義村に返り討ちにあい源氏の正統は途切れてしまいます。これにより、政子が尼将軍となり義時が補佐していきます。

 政子は頼朝の死後に出家して妙観上人と名乗っています。頼朝の死の翌年(1200年)閏2月に、頼朝の父義朝の邸址に臨済宗の開祖である栄西を開山として寿福寺を建立しています。栄西は二代将軍頼家の申請により京都に建仁寺を建立し、博多の聖福寺を加えて三大禅院を基にして禅宗興隆の礎となりました。栄西は禅をもとにして天台宗を再建するのが目的であったといいますが、門下の長楽寺栄朝・退耕行勇・明全らの高弟により禅宗は鎌倉に発展していきます。道元は明全の門下になります。政子は先にのべたように清澄山にも寄進をしています。

実朝が暗殺されたあとの政権を受けたのが北条氏でした。北条氏は桓武平氏の分派といわれており、静岡県の韮山町を本拠とする伊豆北条という中程度の豪族でした。時政の娘が政子で、政子の夫である源頼朝が治承4年に挙兵したときに従軍し、平家の追討など鎌倉幕府の重鎮となっていきました。一番の問題は実朝のあとの四代将軍職の後継でした。政子は天皇家から次期将軍をむかえるべく後鳥羽上皇に懇願しましたが拒否されてしまいます。

実朝の後継として候補にあげたのが九条道家の子で2歳の藤原(九条)三寅(頼経)でした。頼朝の遠縁として若宮大路の宇津宮辻子に新たに住居を造り、名前だけの飾りとして摂家将軍(公家将軍)が起用されたのでした。三寅が幼少のため元服するまで政子が後見し義時が政治を執ることになりました。このため政子は尼将軍と呼ばれるようになったのです。

 ところが、後鳥羽上皇としては政子が尼将軍として立ち、ますます自分の意に沿わない状況になり、また、実朝が横死して幕府が不安定な状況であったので、一挙に倒幕の行動に出たのです。それが承久の乱です。