61,承久の乱                         高橋俊隆

 承久の乱については、日蓮聖人の出家の動機のところでふれましたが、『本尊問答抄』(1583頁)に承久の乱について、

「抑(そもそも)人王八十二代隠岐法王と申す王有(おはしまし)き、去る承久三年太歳辛巳五月十五日、伊賀太郎判官光末を打捕まします。鎌倉の義時をうち給はむとての門出也。やがて五畿七道の兵を召て、相州鎌倉の権太夫義時を打給はんとし給ところに、還て義時にまけ給ぬ。結句我身は隠岐国にながされ、太子二人は佐渡国・阿波国にながされ給。公卿七人は忽に頚をはねられてき」

と、のべているように、北条政権の混乱とみた後鳥羽上皇は北条氏を倒すべく承久3年(1221年)5月14日、北条義時追討の院宣を下します。そして、遺文にあるように京都守護の伊賀太郎判官光末(光季)を殺害して気勢をあげます。伊賀光季の妹は北条義時の後妻でした。この、上皇挙兵の知らせは5月19日に鎌倉に伝わります。後鳥羽上皇は治天の君ですから御家人とすれば従うのが正道であり、反すれば朝的となります。そこで、政子は頼朝のご恩を説き御家人の忠義心を動かし幕府の味方につけたのです。このことは、幕府の将軍鎌倉殿と御家人との結びつきの深さがあらわれたことであり、それを説得した尼将軍の存在は大きかったのです。

そして、義時の長男泰時を大将にして泰時・時房の東海道軍10万騎、武田信光の東山軍5万騎、北条朝時の北陸軍4万騎の総勢19万の軍が三方より京へ出撃しました。上皇方の2万1千騎はこれを迎え撃ちますが、6月15日に入京し幕府軍は京方の公家・武家の屋敷に放火し略奪暴行を働いたといいます。ついに院宣の効がなく後鳥羽上皇は御所に逃げ隠れます。これにより、倒幕に参戦した公卿の一条信能・葉室光親・源有雅らは鎌倉に送られる途中の洛外で処刑され、三浦胤義は自害、藤原秀康・山田重忠は敗走し、後藤基晴・佐々木経高・河野通信・大江親広ら御家人を含む武士は粛清され、また、追放されました。日蓮聖人はこの戦況を次のように述べています。

「五月十五日伊賀太郎判官光季京にして被討同十九日鎌倉に聞え、同二十一日大勢軍兵上ると聞えしかば所残法六月八日被始行之。尊星王法[覚朝僧正]  太元法[蔵有僧都]  五壇法[大政僧正。永信法印。全尊僧都。猷円僧都。行遍僧都]  守護経法[御室被行之。我朝二度行之]五月二十一日武蔵守殿海道より上洛 甲斐源氏山道を上る、式部殿北陸道を上り給。六月五日大津をかたむる手、甲斐源氏に被破畢。同六月十三日十四日宇治橋合戦、同十四日京方被破畢。同十五日武蔵守殿六条へ入給。諸人入り畢。七月十一日本院隠岐国へ被流給、中院阿波国へ被流給ひ、第三院佐渡国へ被流給ふ。殿上人七人被誅殺畢」(『祈祷鈔』683頁)

 この承久の乱により幕府は京都を支配するために六波羅探題を設置し、新補地頭の大量補任をしました。つまり、西国に領地を得たことにより東国の武士団は西国に移り住むようになったのです。これまでの院政と貴族の荘園領主権は引き続き維持されてはいましたが、この後、公家の権力は著しく失墜し皇位の決定さえも幕府が介入し主導権を掌握していくのです。

このように第二代の執権は北条政子の弟である義時が継ぎました。義時は貞応3年(元仁元年1224)6月13日に62歳で急死します。この義時の法名を「得宗」ということから、「得宗」を北条氏の嫡流として第五代目の執権になる時頼は絶対的な権力を誇示していくことになります。

北条一門は時代が下るに従い、この「得宗」家のほかに名越・赤橋・甘縄・伊具・佐介・塩田・金沢(かねざわ)・大仏(おさらぎ)・常葉などの庶流ができ、これらの名称は住んでいる地名に因んでいます。

 日蓮聖人は義時を不妄語・正直の者として、百王のうちの一人とみている一面を指摘します。

(北条氏系図)■(追記あり)

                            (母讃岐局・能本の姉)

(4)  |―時輔 

    |―宗時         松下禅尼 |経時  |(8)

 (1)| (2)   (3)   ||―ー 時頼――――時宗―貞時(9)

 時政―――義時――――泰時――――時氏  |(5) |―宗政―師時(10)

    |     |           |時定  |―宗頼―兼時

    |     |           |檜皮姫(ひわだひめ)

    |     |―朝時(名越)    

    |     |        (6)(赤橋)      

    |     |―重時―――長時―義宗――――久時―守時(16)

    |     |(極楽寺 ) |―時茂―時範――――範貞(常葉)

    |     |       |―義政(塩田)―――時冶       

    |     |       |―業時―時兼――――基時―仲時(13)

    |     |―有時(金沢)

    |     |―政村――――――時村―為時――――熙時

    |     |(7)    | 政長―時敦

    |     |

    |     |―実泰――実時――実村―

    |     |―尚村

    |     |―時尚

    |

    |         |―政氏――盛房

|――時房―――時盛――時員――時国

|――政範 |―時村  

|――政子 |(大仏)

         |―朝直――宣時――宗宣(11)

         |―時定

(将軍)

初代 源氏将軍    頼朝(在位1192〜99)

   尼将軍     政子(1157〜1225)

2代 源氏将軍    頼家(在位1202〜03)

3代 源氏将軍    実朝(在位1203〜19)

             (空位 年)

4代 摂家将軍    藤原頼経(在位1226〜44)

5代 摂家将軍    藤原頼継(在位1244〜51)

6代 宮将軍     宗尊親王(在位1252〜66)

7代 宮将軍     惟康親王(在位1266〜89)

8代 宮将軍     久明親王(在位1289〜1308)

(執権・連署)

 (執権)            (在職)             (連署)

 時政 1138〜1215年  1203〜1205年 北条氏

 義時 1163〜1224年      〜1224年 得宗家

 泰時 1183〜1242年      〜1242年  〃      時房

 経時 1224〜1246年      〜1246年  〃

 時頼 1227〜1263年      〜1256年  〃      重時

 長時 1229〜1264年      〜1264年 極楽寺流               

 政村 1205〜1273年      〜1268年 正村流     時宗

 時宗 1251〜1284年      〜1284年 得宗家     政村・義政

 貞時 1271〜1311年      〜1301年  〃

○泰時

義時の没後に義時の後妻の伊賀氏と兄光宗は政村を執権にし、娘婿の公家一条実雅を将軍にしようとしました。しかし、この陰謀も政子により封じられ、元仁元年(1224)6月28日、義時のあとに第三代の執権を後継したのが義時の子である泰時で、それまでは六波羅探題として京都にいました。

泰時が執権となった翌嘉禄元年(1225)6月に有力幕臣の大江広元が没し、つづいて七月十一日に伯母の政子が六十九歳にて没しますと、泰時は幕府内の地位を確保するために

執権を補佐する連署を設け、頼朝の奥州攻めなどに参加し承久の乱では泰時とともに幕府軍の大将として京都方を攻めた叔父の時房を任命しました。時頼は承久の乱後、六波羅探題南方となっており、さらに、泰時は評定衆を十一名置き三浦義村などの有力御家人や中原師員(もろかず)などの文官を多く起用して政策・人事・訴訟などの評議をさせ合議制を確立します。鎌倉を都市として整備したのは泰時といいます。10月に、頼朝が本拠として大蔵に置かれた幕府御所(1185〜1225)が狭くなったので、これを若宮の宇都宮辻子の大路に移し(1226〜1333年)都をまねた造りとし、切通しを整備し和賀江の津を造りました。由比ガ浜は遠浅で西風が強く港としては適していませんでした。由比ガ浜の東端に防波堤を築き大きな船が寄港できるようにしました。これにより鎌倉は商業が盛んになります。由比ガ浜付近には商人が住むようになり、材木座という地名は材木を扱う商人が居住した所で、米座・絹座などもあり鎌倉七座がありました。この歳の12月29日に頼朝の妹の曾孫である八歳になった三寅が元服し、翌嘉禄2年(1226)1月に頼経と名のらせ第4代の将軍としました。

泰時は貞永元年(1232年)8月に『貞永式目』(御成敗式目)五十一ヵ条を制定し裁判や法律による武家の規律を糺そうとしました。最初の武家の法典として有名な『貞永式目』は御家人の裁判の法律で、所領争いや相続・犯罪などの取り決めや処分、朝廷と荘園領主との関係などを規定しています。これは評定衆の力によるもので、ほかに執権・連署が署名して遵守を誓っています。室町幕府も『貞永式目』を参考にしたといい、戦国大名が作った分国法や江戸幕府の武家諸法度にも及んだといいます

京都では九条道家(四代将軍藤原頼経の父)と西園寺公経が実権をもっており、後鳥羽上皇と順徳上皇の還京を願いましたが、泰時は拒否するほどの執権政治が整っていました。鎌倉の都市整備や大仏殿の建立などを行い仁治3年(1242)6月15日に60歳で没しています。

○経時

泰時の後継は、子息の時氏が寛喜2年(1244)6月18日、28歳で早世していたので、時氏の嫡男で孫の経時が19歳で第四代執権になりました。経時はこのとき二十七歳になっていた頼経の将軍職を強行に解任させ六歳の子息、頼嗣(よりつぐ)に五代の将軍職をゆずらせます。これを不満に思う頼経は大殿と呼ばれて勢力を持続しますが、経時は自分の妹を頼嗣に嫁がせることで、この反勢力を鎮めようとしました。

経時は執権を四年ほど行いますが病気のため退きます。寛元4年(1246)3月子息が幼少のため、19歳の弟、時頼に5代執権を任せて4月1日に24歳で没しています。

○時頼(1227〜63)

時頼が執権職を継いでまもなくに兄の経時が病死したため、このときにも反北条勢力との権力争いがありました。同年5月、前将軍の藤原頼経と頼経の側近で時頼の叔父にあたる名越光時、それに評定衆のなかの三善康持・後藤基綱・千葉秀胤・藤原為佐などが時頼に反抗しようとしました。この謀反の計画が発覚し、時頼は先制攻撃で名越光時を流罪にし、ほかの者は罷免にして制圧しています。7月には頼経を京都に追放し、また、評定衆を粛清し公式の秘事を預かる関東申次を、九条家から西園寺へと替えました。これら一連の騒動を宮騒動といい、これにより反時頼勢力の多くが掃蕩されました。

翌、宝治元年(1247)4月には宮騒動に関与していた三浦光村(泰村の弟)が再び頼経を将軍に就ける計画を立てますが、外祖父の安達景盛の進言により6月5日、頼朝以来の最有力御家人である三浦泰村を討滅します。7日には泰村の娘婿で有力御家人の千葉秀胤も上総一宮の館にて滅ぼしています。この宝治合戦により三浦氏を滅ぼしたことは北条氏による専制政治に大きく前進したことになります。初代の連署であった時房が嘉禎4年(1238)に60歳で死去しており、この後、連署は空席でしたが、時頼は7月27日に叔父であり妻の父である極楽寺入道重時を連署としました。重時は兄の泰時を補佐して幕府の要職を歴任し、寛喜2年(1230)に六波羅探題についていました。

 極楽寺入道重時は藤原定家と親交がありました。藤沢にあった極楽寺を鎌倉に移し、律宗の忍性を開山にむかえています。『北条重時家訓』という最古の武家家訓を残し、(六波羅殿御家訓・極楽寺殿御消息とよばれる二種の家訓があり、前者は壮年時、後者は晩年で仏教的色彩が濃く出ています。それは、日蓮聖人の『浄土九品之事』(2309頁)で西山派の小坂の善慧(証空)を極楽寺殿の御師としていることからも、浄土宗西山派の影響があるといわれています。

重時は康元元年(1256)連署を辞任し後任に北条政村をつかせ、浄土宗の修観について出家し観覚と名のります。隠居後に深沢の極楽寺に住んでいたので極楽寺入道とよばれています。重時が帰依いたのは律宗ではなく浄土宗といいます。

 日蓮聖人は東条景信と領家の問注の背後にいた(同1562頁)のは重時であると述べています。同書によると、このおり藤次左衛門入道が東条景信を教唆していることから重時の有力な被官と考えられています。また、重時が伊豆流罪(『妙法比丘尼御返事』1561頁)、の首謀者であると述べています。そして、日蓮聖人は重時が日蓮聖人を迫害したので、その罪により重時一門が滅び(建治3年1277)業時だけしか残っていないとのべていますが、これは家督を継ぐ長時(1246年没34歳)、時茂(1270年30歳)のことをいったといわれ業時のほかに義政・為時がいました。

また、時頼は京都大番役の勤めが6ヶ月であったのを3ヶ月にして、御家人の負担を軽くしたりしましたが、その後も北条一門や御家人らを悉く制圧して得宗専制の政治を行なっていきます。

さて、時頼は建長元年(1249)6月に相模守になり、12月には評定衆の下に二階堂行方などの4名の引付衆を置いて、激増する御家人の訴訟問題を迅速に対処していきます。これは、地頭が荘園を私領化することから荘園領主や領民との紛争が増えたためです。このため幕府は地頭請や下地中分の仲裁をしたといいます。これより先に悪党退治の厳命や炭・薪・糠などの生活必需品の物価を調整するなどの対策を行なっています。また、宝治元年(1247年)11月27日に撫民法を出し、有力地頭の悪業を抑え領民のための撫民政策をとっています。質素倹約を奨励し治安維持や弱者を保護したことから、庶民からは能の「鉢の木」の主人公に擬えられ、廻国伝説が生まれるような善政を行なったといいます。
建長4年(1252)、将軍頼嗣を謀反に加わったとして強制的に京都へ退位させ、京都から後嵯峨天皇の皇子で13歳の宗尊(むねたか)親王を第六代将軍として迎えます。頼家・頼嗣と二代つづいた摂家将軍を廃絶し新たに皇族の将軍を立てたのです。しかし、象徴としての将軍であることには変わりなく、これを宮将軍と呼び鎌倉幕府が滅亡するまで惟康親王・久明親王・守那親王と4代続きます。

(天皇・将軍)
  (81)

|―安徳

 |        (86) (87)

|―守貞親王―――後堀河――四条

 |

 |        (83) (88)   (六代)   (七代)

| (82) |―土御門――後嵯峨――――宗尊親王――惟康親王

 |―後鳥羽――|           |

|           |(89)  (92)          

|           |―後深草―――伏見

       |―順徳―――仲恭   |―亀山――――後宇多

         (84) (85)   (90)  

康元元年(1256)11月22日、時頼は30歳のときに赤痢に羅病して病床に伏します。執権職を一族の長時にゆずり、22日に出家し最明寺入道覚了房道崇と名のります。時頼の仏教信仰は母松下禅尼にあるといい、戒師は蘭渓道隆でした。出家後も長時の後見人として幕府内の実権を握っており得宗による専制政治を推し進めていきました。いわゆる執権政治を確立し得宗専制化を作っていきました。

そして、日蓮聖人が『立正安国論』を時頼に上呈したのが文応元年(1260)7月16日でした。『立正安国論』のなかで法然の浄土宗を無間地獄に堕ちる教えと述べたため、8月27日に松葉ヶ谷の草庵を襲われます。そして、弘長元年(1261)5月12日に伊豆に流罪され、同3年(1263)2月22日に赦免され鎌倉に帰ります。伊豆流罪を決めたのは重時といわれ、重時は流罪に処した年の11月23日に死去していました。流罪を赦免したのは時頼の指示であったといいます。そして、日蓮聖人に好意的であった時頼は同年11月22日に37歳で没します。つぎに第六代の執権となったのは28歳の長時でした.

○長時(1229〜64)
 長時は重時の嫡男で、父重時が連署となったときに後任として六波羅探題につき、宗尊親王の擁立に貢献しました。長時の役目は時頼の子時宗までの中継ぎとしてであり、実権はいぜんとして時頼がもっていました。しかし、時頼は弘長元年(1261)に死去し、長時も文永元年(1264)7月に病のため連署をしていた政村に執権職をゆずり8月に死去しました。

 政村(1205〜73)
8月11日に連署をしていた政村は第7代執権となり時宗を連署にしました。文永5年(1268)1月に蒙古より国書が到来したことにより、3月5日に執権職を時宗にゆずり、政村はふたたび連署となります。政村はその後、文永10年(1273)5月に出家し同月69歳にて死去し、連署は兄の嫡男、北条義政にゆずっています。この義政は『新後撰和歌集』などに歌を残す教養人でした。○時宗
 第8代執権の時宗は別名相模太郎といい、北条実時・安達泰成・平頼綱に補佐されて主に蒙古襲来に対処することになります。時宗は国難である蒙古の攻撃を防いだことにより名君として称えられる反面、蒙古の使者を殺害し蒙古との政治交渉を決裂させたことにより、韓国や中国などの国際情勢に無知であったともいわれています。

日蓮聖人は文永5年3月に執権となった時宗に『立正安国論』を上呈しますが、蒙古政策における考えが相違することにより被官の平頼綱から佐渡流罪などの排斥を受けます。連署であった義政は蒙古政策で時宗や平頼綱と対立があったという説があり、建治3年(1277)4月に連署を辞退して信濃の塩田荘に遁世しています。日蓮聖人は弘安5年に入寂し、時宗は弘安7年4月4日34歳にて死去します。