62.遊学ころの鎌倉について

 このように、承久の乱(1221年)後の政権は朝廷から東国の源氏へ移り、さらに、源氏から北条氏に実権が移り、日本の中心は鎌倉幕府にありました。日蓮聖人の眼に入った鎌倉も、

「太政入道が国ををさ(押え、)承久に王位つきはてて、世東にうつりしかども」『報恩抄』(55歳・1223頁)

「既に世間東に移りし事なにとか思食しけん」『祈祷鈔』(51歳・681頁)

「方今、世悉く関東に帰し人皆、土風を貴ぶ」(『一昨日御書』50歳・原漢文501頁)

と天皇の徳は尽き果て王位も人心も関東鎌倉に移ったと述べています。日蓮聖人が後日、京都ではなく鎌倉にて布教を始められたのは、国を動かすことができる為政者の存在にありました。

 日蓮聖人は歴任元年(1238年)に鎌倉に入り仁治3年(1242)まで遊学しています。このときの執権は3代目の泰時の晩年にあたります。日蓮聖人が鎌倉にでた翌年の延応元年(1239)の2月22日に後鳥羽上皇が60歳にて隠岐で崩御されました。この報道は3月17日に鎌倉に届き、この訃報を聞いた泰時は4月25日に心中錯乱の病気になり苦しみます。12月5日には承久の乱のときに朝廷の勧告に逆らい、義時に加勢して東海道軍に従軍した三浦義村が脳溢血で頓死しました。それから40日ほど過ぎた翌年1月24日に、同じく東海道軍の大将であった連著北条時房は早朝に発病して夜半に急死しています。そして、泰時の病気は回復しないまま仁治三年(1242年)6月15日、60歳にて没しました。同年9月12日に佐渡に配流となっていた順徳上皇が崩御します。日蓮聖人は承久の乱の上皇方の惨敗を清澄入山の動機、出家の動機として抱いていました、奇しくも日蓮聖人が鎌倉に遊学した4年の間は、このように承久の乱の正面軍の大将3人が次々に死んだときと重なっていたのでした。また、この鎌倉遊学期に首謀者達が変死したことは大きな影響をうけたことと思われます。日蓮聖人は学問を目的に鎌倉にきましたが、もとより安穏な国家を志向していましたので、政治を司る鎌倉幕府の内部に注目することになっていきました。

18歳から21歳までの4年の鎌倉在住は、仏教のみではなく政治・経済などを見聞し、庶民の生活など様々な知識を充分に得たことでしょう。日蓮聖人の御遺文に庶民文化に触れた教訓が多いのも、この青年時代に豊富に経験したことが生かされたといえましょう。また、向学心が強く仏道に精進したことが、後に鎌倉に拠点を求め協力者を得て弘通を始めることに繋がっていくのです。

日蓮聖人が鎌倉に入ったころは、比叡山と園城寺の内部抗争がつづき、南都僧徒の強訴もおさまりかけたときでした。幕府は寺院の師資相承の法規を定め(歴任元年12月)、僧徒の武装や博奕、代官などの官位を競望することを禁止(延応元年4月)していますので、これら、比叡山・園城寺・興福寺・東大寺などとの対応に苦慮していたことがわかります。

また、翌延応元年(1239)5月に幕府は人身売買を禁止していますので庶民の生活が困窮していた世情をうかがえます。仁治元年(1240)2月に幕府は保奉行人をおき市中の禁制を定めています。10月に巨福呂坂、11月に朝比奈の切り通しを開削しています。また、辻に篝屋を設置し市中の治安に苦慮していました。仁治2年(1241年)日蓮聖人20歳のときの2鎌倉大地震がおきています。3月には大仏殿が上棟します。また、同月に鎌倉市中における僧徒の妻剣を禁止しています。没収した刀剣類は大仏に施入させたといいます。8月藤原定家が80で没しています。

 幕府は頼朝が定めた年中行事を行なっていました。朔旦の鶴岡宮奉幣・正月八日営中の心経会・箱根の二所詣・8月15日鶴岡八幡宮の放生会などです。幕府は新たに寺院を建立していましたが、頼朝いらい鶴岡八幡宮を中心とした年中行事を執り行うことにより、御家人の統一を図っていたといえます。

鎌倉遊学時の執権は泰時で、建長5年(1253)の立教開宗の時は5代目の時頼が執権となっていました。その後、長時が4年ほど執権となり政村が1264年から1268年まで、時宗がその後を引き継ぎました。日蓮聖人が直接、関わりあったのは第五代の時頼から政村・時宗でした。鎌倉遊学中は北条氏一族で承久の乱関係者が三人急死や病没しています。そのような社会状況のなかに勉学をされていたのです。国家の乱れと天災の苦悩を経験しながら、この原因と解決の方法をさらに深く仏教に究明されていったと思われます。

そして、泰時が没し経時が執権となった年に日蓮聖人は鎌倉の遊学を終え清澄に帰山されています。