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4、三国仏教史 インドの仏教ここで、日蓮聖人が遊学をするころの仏教界を知る前に、その歴史的な経過を知ることが大事と思われますので、インド・中国そして日本仏教の歴史を概観していきます。 仏教は釈尊の教えですからインドを発生として中国や日本に伝わりました。釈尊は菩提樹の下で悟りを開き、真理を到達したという如来となり、覚った人という意味の仏陀と仰がれました。30歳(35歳の説がある)で悟りを開いてからは教えを説き、出家の弟子を指導しながら中インドの各地を教えを説いて歩いています。そして、50年の教化をして80歳でクシナガラで入寂しました。この年を紀元前383年(中村説)ころといいます。日蓮聖人はまえにのべたように、『周書異記』の「周の穆王(ぼくおう)の52年、壬申の歳2月15日」に釈尊は入滅したという記載を基にしていますので、紀元前949年に釈尊が入滅されたと受けとめています。入滅の年代については異論があり、ほかの説には前544年(セイロン所伝)、前486年(衆聖点記説)、前485年(分別説部所伝)、483年(ガイガー説)、386年(宇井説)などがあります。 釈尊の遺骸はクシナガラのマッラー人たちが火葬をしました。遺骨は中インドの8っの部族に分配され仏塔を建てて礼拝されるようになります。インドにおいては釈尊滅後よりすぐに教えの収集と淘汰が始まりました。仏弟子のなかでも十大弟子の迦葉が中心となり、各地の弟子たちの記憶を集積するため、マカダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)に500人の弟子を結集して仏典の編纂をしました。これを第一結集といい、教法の結集は阿難、戒律の結集は優波離が中心となりました。 その後も結集は続き、それが「経」として成立し釈尊の滅後100年ほどには経・律の二蔵が成立したといい、紀元前2世紀ころから経典に対する解釈が「論」として著わされるようになります。教団における僧侶や信徒の規則も経年による風習などの変化により「律」として整備されました。いわゆる「経」と「律」と「論」の三蔵が成立しました。 経・律二蔵に説かれている教えを原始仏教といい、この経蔵にふくまれる経典を原始経典といい、漢訳された経典に阿含経があります。阿含とは伝承という意味があり四阿含に分かれています。原始仏教の基本の教えは諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印と、これに一切皆苦をくわえて四法印があり、その後の仏教にも基本的な中心の教えとなっています。また、四諦・十二縁起・十八界などの教えが説かれています。 釈尊滅後の教団は中インドを中心に布教をしていました。四大聖地といわれる釈尊の誕生のルンビニーと入寂のクシナガラは北辺にあり、成道のブッダガヤーは南部に位置し、初転法輪のサールナート(鹿野苑)は西辺にあります。とくに仏滅度には西方のマツラーと南方のウッジェーニーを中心に仏教が発展したといいます。阿闍世王のあとにシシュナーガ、ナンダ王朝に交替し、紀元前317年ころにチャンドラグプタがマウリヤ王朝を建て、孫のアショーカ王(前268年に即位~232)が王朝の最盛期をむかえました。そして、アショーカ王は仏教に帰依しサールナートやルンビニーなどの仏蹟に石碑を建てるなどして、仏教をインド全体に広める貢献をしました。 教団が発展し各地に展開していくと、分派や分裂がおきてきます。はじめに分裂がおきた原因は戒律の考え方にありました。戒律を守ることを主張する長老の上座部と除外を認め緩やかに守ることを主張する大衆部にわかれました。大衆部の比丘は上座部の長老が伝道する厳しい所とは違い、比較的に安逸な所であったので、伝道の拠点の違いがあったようです。これを東西の対決といい最初の根本分裂といいます。このとき(前280年)に700人の比丘がヴェーサーリーに集まりました。これを第二結集といいます。 アショーカ王の時代に教法大管の制度を設け石柱詔勅を刻すなど仏教が盛んになります。伝道の地域が拡大すると、教団も第二の分裂がおきます。これを枝末分裂といい、アショーカ王の優遇により堕落した僧伽を立て直すため、ときの長老のモッガブッタ・ティッサが前251年に第三結集をして争いを抑えたといいます。 紀元前2世紀のころには原始仏教から部派仏教といわれる20ほどの部派に分裂しました。このころまでを原始仏教といいます。釈尊の入滅から100年後ころに部派に分裂し、また、前3世紀のマウリヤ王朝のアショーカ王の治世ころまでの初期の仏教をいいます。 アショーカ王が没したころ(前233年)には、仏教は全インドに普及したといいます。中国では秦の始皇帝が前221年に中国を統一しました。 アショーカ王が没しますとマウリヤ王朝は衰微し、ギリシア人が王朝をたてます。紀元前160年ころに西北インドを支配したのがメナンドロス(ミリンダ)王で、ナーガセーナ比丘との対話が『メナンドロス王の問い(ミリンダ・バンハー)』です。前150年に西インドのバーシャーにある最古といわれる石窟寺院が建造されており、こののち建造が続いていきます。 仏滅300年ころの紀元前150年ころににカートヤーナニープトラが『阿毘達磨発智論』を著し、紀元前1世紀ころに有部の教理が確立しました。そして、この紀元前100年ころから大乗仏教運動が活発化してきます。 その後、インドにはギリシア人につづきサカ人・パルチア人・クシャーナ族が侵入してきました。このクシャーナ族は紀元60年ころに西北インドに侵入し、カニシカ王(139~152年ころ在位した)のときに大帝国をたてます。カニシカ王は有部の部派仏教に帰依し、この功績により初期の大乗経典が成立したといわれる所以です。 カニシカ王が中国やローマとも交流したことからガンダーラ美術を作ることとなり、紀元前51年に大月氏王の使節伊存、博士弟子景●リョに浮屠経を口授したことにより、中国に仏教が伝わった始といいます。すなわち、紀元1世紀には中国に仏教を伝える貢献をしたのです。アショカ王の子供であるマヒナンダはセイロンに上座部の仏教を伝え、今日に至っています。11世紀にセイロンからビルマ・タイ・カンボジアに伝わり、今日の南方仏教に至っています。南方仏教は原始仏教の原点である戒律を守ることが特徴です。 カニシカ王のこのころの仏教は蒐集された仏説を「法の研究」という意味をもつアビダルマ仏教として体系的に研究がなされていました。これを「分別」といい、アビダルマ論議とよんでいます。また、後の大乗と比較して有部を「我空法有」といい、大乗を「我空法空」として区別されます。アシュヴァゴーシャ(馬鳴)は140年に『仏所行讃』『金剛針論』などを著しています。 さて、仏教は現在のアフガニスタンのバーミヤンからパキスタンのガンダーラ地方にあたる西北インドに進出してからは、仏教は教えの内容が小乗から大乗へ移っていきます。それまで発展してきた仏伝文学・仏塔信仰・部派仏教を源流として思索されたものです。これは、修行の目的が個人の満足から、大衆の救済に変わっていくことで、自分の得脱や利益ばかりを考えて修行していた阿羅漢の理想から、他の人の利益を考える自利利他への行動に重きをおくように進展したといえます。菩薩の観念もそれまでの当来作仏の決定した菩薩ではなく、凡夫の「発菩提心」に認めるようになり、六波羅蜜の修行を説くようになりました。このように大乗仏教は、これまでの小乗といわれる声聞・縁覚に菩薩思想が組み合わさって発展します。このようななかに釈尊の燃灯授記の仏陀観や後の悉有仏性に発展する思想があったのです。 初期大乗経典が成立したのは60年ころから200年ころの間といいます。大乗の経典は成立の年代を初期・中期・後期にわけられています。初期大乗経典としてもっとも古いのが『般若経』600巻で「空の智慧」を説いています。この空の思想が大乗の教えに強く影響しています。つぎに『華厳経』(『大方広仏華厳経』)が古く、仏陀の姿があらゆる功徳に満ちた姿を華鬘に宝飾されたとして、「仏華厳」と説いたことに原点があります。これが毘盧遮那仏の世界といいます。また、仏陀の成仏を菩薩の因行で説く十地が深化して説いており、最後の「入法界品」にみられるように善財童子の弘法の物語によって法界に証入していくことが説かれています。 また、『法華経』(『妙法蓮華経』)があります。このなかに開三顕一の一乗思想と、釈尊が久遠実成の仏であることを説く開迹顕本が説かれています。『法華経は』紀元前1世紀から2世紀ころ(竺法護が286年に漢訳している)に成立し、大乗経典のなかでも仏陀の衆生救済の慈悲を説く教えとして最も重要とされました。 ほかに、『華厳経』と阿弥陀仏(アミターユス)の名号を唱えれば救われるという、易行道を説いた『無量寿経』などがあります。 中期大乗経典が成立したのは200年から400年の間といいます。『理深密経』がこのころにでき、大乗の『涅槃経』『勝鬘経』が成立し、『阿毘達磨大毘婆沙論』200巻が集大成されました。こののち、阿毘達磨の研究が盛んになっていきます。 のちに、これらの経典の思想が組織づけられたのが中観思想と唯識思想です。これらの主要な大乗経が成立するころにに出生し、大乗経の教えを理論的に組織したといわれるのが南インドのナーガールジュナ(竜樹150~250年ころ)で、中観思想はこの竜樹の『中論』に論じた空の思想をいい、『中論』は大乗仏教の基礎となる著述です。空とは虚無という意味ではなく固有性をもたないということで、空・仮・中道として縁起説を論じました。 竜樹はほかに『十二門論』『大智度論』『十住毘婆沙論者』を著しています。『大智度論』は『大品般若経』を注釈して著したもので、『十住毘婆沙論者』は華厳の『十地経』を注釈して著したものです。ここでは敗壊の菩薩にたいして阿弥陀仏の他力易行道を示しており、浄土教の最初の理論書といわれています。竜樹の仏陀観は生身と法身の二身を示し、阿弥陀仏や毘盧遮那仏を法身・法性身としています。 竜樹の著述に如来蔵系統と唯識系統の経典が引用されていないことから、如来蔵系統と唯識系統の経典は、竜樹以後の成立と考えられています。 この竜樹の空の教えを受け継いだのがアーリヤデーヴア(聖提婆170~270年頃)で、『四百論』『百論』を著しています。聖提婆は空の論理を説いて外道と対立し、そのために殺されたといいます。弟子にラーフラパドラ(羅睺羅跋陀羅200~300年頃)がおり、詩偈の著述が残っています。竜樹・提婆・ラゴラの系統を中観(ちゅうがん)派とよびますが、それは仏護(470~540年頃)の時代になってからといいます。 つぎに、ハリヴァルマン(訶梨跋摩250~350年頃)は『成実論』を著し、350年にダルマトラータ(達摩多羅)は『雑阿毘曇心論』を著しています。マイトレーヤ・ナータ(弥勒350~430頃)は『瑜伽師地論』『大乗荘厳経論』を著しています。そして、唯識思想はアサンガ(無着395~470頃)の『摂大乗論』や、弟子とされる弟のヴァスバンド(世親400~480年頃)により理論的に確立しました。世親は始めは小乗の仏教を研究して『倶舎論』を著わし、後に大乗仏教を研究して『唯識三十頌』を著わしました。この唯識学説の思想が後に中国や日本の法相宗に影響をあたえていきます。 中期大乗経典として代表されるのは、どのような人でも仏になれるという如来蔵思想を説いた『涅槃経』です。蔵とは母体のことで、凡夫が成仏の因子を持っていること、また、如来が衆生を蔵していると解釈し、仏性の原語もここにあります。 如来蔵の言葉が始めて説かれたのは『如来蔵経』で、300年頃の成立とされています。『勝鬘経』は350年、『涅槃経』と『楞伽経』は400年頃までに成立したとみられています。如来蔵思想は自性清浄心に淵源し、成仏観は従果向因の法門であることから『華厳経』の思想をうけていることになります。『涅槃経』には悉有仏性を説き、この立場から闡提の 成仏を説きます。仏身については法身を強調して仏身常住を説きます。この如来蔵の思想を組織的に論じたのが『宝性論』で400年頃の成立と見られています。また、真諦が翻訳した『仏性論』も「一切衆生悉有仏性」を説き、同じく真諦が翻訳した『大乗起信論』も如来蔵を説き中国と日本に大きく影響を及ぼしました。 唯識説が説かれた経典は『解深密経』『大乗阿毘達磨経』などで、唯識説の成立は如来蔵思想よりあとの時代になります。『解深密経』は300年ころからの思想で、400年ころに五巻本が成立したとみられており、瑜伽行派の論師によって論書がまとめられました。前にものべたように弥勒・無着そして、世親によって唯識の理論が大成しました。 唯識説は私たちが意識できる眼耳鼻舌身意の六識と、それに対象する客観的な色声香味触法の六境との関係を説いています。そして、この六識の上に末那識を説いて七識とし、さらに、阿頼耶識を説きます。七識は顕在しているので認識できますが、阿頼耶識は潜在的な根源の真理をさし、これを、種子(しゅうじ)として過去の業因を説いています。 世親によって総括された学説は、弟子によって分散され発展していきます。唯識説の系統は陳那(480~540年ころ)と徳慧がおり、陳那の系統は有相唯識派といい、無性(500年ころ)・護法(530~561年)・戒賢(529~645年)と続きます。戒賢に師事した玄奘は『成唯識論』を中国に伝え、これが法相宗の根本論書となります。徳慧の弟子には安慧(510~570年ころ)がおり無相唯識派といいます。この系統に真諦(499~569年)がおり『摂大乗論』により中国に摂論宗ができました。また、中観経量派といわれる清弁(490~570年)がおり、この護法・清弁の時代を中期中観派といいます。 また、陳那の論理学は法称(650年ころ)に受け継がれ、法称によりさらに精緻になり中観派や瑜伽行派に追従者を輩出していきます。清弁の系統に寂護(725~788年ころ)がおり、寂護とその弟子の蓮華戒(740~797年ころ)は無相唯識の思想を取り入れ瑜伽行中観派といわれ、後期中観派の時代になります。このあとインドに獅子賢(800年ころ)が中観派に無相唯識説を取り入れています。 クシャーナ帝国はカニシカ王の以後、3世紀には分裂し、中インドにはチャンドラグプタ1世が建ち320年にグプタ王朝が成立します。つぎのサムドラグプタ王はマウリヤ王朝いらいの大帝国を築き仏教も興隆しました。そして、5世紀の後半、5代帝日王がナーランダー(王舎城の近く)に寺院を建て、こののちも庇護して6世紀には数千の学僧が学ぶ大学となり、ヴィラバーとならんで仏教大学の東西の二大聖地となりました。 後期大乗経典としては密教思想を説く経典があげられます。密教は初期大乗経典が成立したころには既に存在していたといいますが、密教の呪術的なことは非仏教的として排除されており、七世紀になって『大日経』『金剛経』が現れてから発展し、650年ころに密教が成立したといわれています。部派仏教のときには仏陀は菩提樹の枝や仏足などに示されていましたが、これらの大乗仏教の時代なりますと多像塔寺により仏像の作成が現われ、諸仏の信仰が盛んになります。 700年ころにはナーランダーは密教の寺院となっていたことから、中観派や唯識行派の学派は密教化していたことがわかります。原始仏教には毒蛇除けの呪文である護呪(パリッタ)が説かれており、それが大乗経になりますと陀羅尼・真言と共に雑部密教の経典としてして説かれていきます。密教の経典は膨大で教理の成立から4段階に分かれています。このなかの第二「行タントラ」に『大日経』がふくまれており、この『大日経』は7世紀半ば頃の成立と考えられています。第三の「ヨーガタントラ」に『金剛頂経』があり、この第三と第四の「無上ヨーガタントラ」の成立は8世紀から12世紀ころの成立と考えられています。 一般に密教は竜猛(600年ころ)が開祖とされますが、玄奘がインドに渡ったときには盛んではなく、義浄がインドに入ったころ(672年)から盛んになったといます。とくに中インドに栄えたパーラ王朝(740~1200年ころ)の時代に密教が盛んになり、第二代のダルマパーラ王(780年ころ)はガンジス河の南岸にヴィクラマシラー寺を建て、「六賢門」といわれる密教学者が輩出するほどに発展しました。 玄奘(602~664年)はチベットにも仏教を伝え、ラマ教の基礎をつくっています。チベットに仏教が伝わったのはソンツェンガンポ王(617~649年在位)のときといわれています。チベットには古来からボン教という呪術的な民族宗教があり、これと仏教が融合されてラマ教というチベット仏教になりました。その後、100年ほどして寂護(725~788年ころ)がチベットに招かれサム・イエ寺にて布教します。そして、寂護は瑜伽行派と密教の学者である蓮華生(740~795年ころ)を773年にチベットに招き、密教の教えを広めました。また、寂護の弟子の蓮華戒はサム・イエ寺を拠点としてチベット仏教の基礎を強固なものとしました。 インドにおける仏教はジュニャーナシュリーミトラ(980~1030年ころ)や、ラトナキールティ(1050年ころ)が有相唯識の論理学をのべ、同時代のラトナーカラシャーンティは無相唯識の論理学を立てていました。13世紀頃になると滅びてしまいます。原因はイスラムの仏像崇拝の禁止や仏教のヒンドウー化が考えられていますが、直接的な原因は、 1203年にイスラムの軍隊によりヴィクラマシラー寺や同じく密教寺院であるオーダンタブリ寺が破壊され、インドの仏教は滅びたのです。 |
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