64.中国仏教史
 中国に仏教が伝来した説話のなかで、もっとも有名なのは明帝の洛陽白馬寺に纏わる求法説話です。西暦64年に後漢の明帝(57〜75年在位)が、金人の夢をみて西域に使者を遣わし、永平10年(67年)に、迦葉摩謄と竺法蘭が洛陽の白馬寺に来て、『四十二章経』を翻訳したことが最初という伝説です。

日蓮聖人は『和漢王代記』(図録21)に、

「後漢光武皇帝永平十年丁卯。当一千一十五年。摩騰迦竺法蘭二人聖人以四十二章経[小乗経]十住断結経[大乗経]負白馬渡漢土」(2345頁)

と、書かれています。牟氏理惑論』や『四十二章経』などは、後世に書かれたものとの疑いがあり、この説は今日では承認されていません。

しかし、『後漢書』に明帝の異母弟の楚王英が、仏教を信仰していたという記録があることから、これが事実かは不明ですがこのころに伝わったと見られています。すでに、前漢の武帝(前140〜前87)によって開拓された「絹の道」(シルクロード)が、紀元前2世紀には存在していたので、シルクロードを往来した商人たちが、仏像や仏具などを持ち運び、インドから中国に仏教が伝わったと考えられています。

また、西域とは中央アジア(シナトルキスタン)をさし、この民族から出たインドのクシャーナ王朝は北インドを支配したことから、とうぜん、インド・中央アジアから中国へと文物が伝えられていたと思われます。1990年いこうの調査で、この時代の遺物に仏像とみられるものが発見され、考古学的にも立証されています。

日蓮聖人もこの説を引用して、『四条金吾殿御返事』に、

「漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見博士蔡・王遵等の十八人を月氏につかはして、仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を、同永平十年丁卯の歳迎へ取て崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家・道家の人人数千人、此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙給。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳・五典・二聖三王の書を薪につみこめてやきしかば、古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らず。あまりのはづかしさに善信・費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ」(1382頁)

と、のべています。

中国仏教の特徴は、インドにおけるような仏教思想を確立していくという展開とは違い、すでに研究され確立された仏教思想のなかから、どれを選択するかという立場から成立していったといいます。

(中国仏教)

    古訳時代  仏教伝来      紀元前後  漢、三国時代

    旧訳時代  仏図澄・鳩摩羅什  4世紀   南北朝時代

    新訳時代  玄奘         7世紀   隋・唐

後漢(25〜220年)から、三国時代(魏・蜀・呉。220〜280年)の初期は、インドの経典を漢訳する時代といえます。中国における初期の仏教受容は「挌義仏教」といわれるものでした。これは、老子や荘子の「老荘思想」に迎合して仏教を理解するもので、これを「格義」といいます。たとへば、仏教の「空」を老荘の「無」、「涅槃」を「無為」、「菩提」を「道」と音解釈したように、道教と対比させ本来の仏教の意味とは違った理解をしながら、道教と合わせて信奉されていました。とくに、西晋には「竹林の七賢」の影響により強くなっていきます。

桓帝(147〜167年)も、老子と仏陀を祀っていたことが知られており、『後漢書』によりますと、当時の王侯貴族の社会では、仏堂を建て「金人」といわれる仏像を祀り、誦経や焼香をして仏誕会などの儀式をしていたことがわかります。これに加えて飲食供養などの積善の功徳などの行為が、王侯貴族に受け入れられ広まっていきました。

 中国における最初の経典の翻訳者は、安息国(パルティア)出身の安世高で、王族より出家して148年ころに洛陽に入り、『安般守意経』などの小乗の経典を漢訳しました。大月氏出身の支婁迦讖が、つづいて桓帝の末ころに洛陽に入り、『道行般若経』などの大乗の経典を漢訳しました。このころより、仏典の翻訳の歴史がはじまります。安世高は戦火を逃れながら南方に進み南京まで来ました。この漢訳経典を三国時代の高僧である康僧会が北方へと伝えました。

呉(222〜280年)の時代には、孫権が建初寺を建て、この時代に88部127巻の経典が翻訳されていますが、戦争などによりほとんどが喪失しています。また、支謙の翻訳(223〜253年)と、とくに、敦煌出身の竺法護が、266年から308年の間に、『般若経』・『法華経』・『維摩経』などの多くの経典を翻訳したことは有名です。

晋(西晋265〜316年。東晋317〜420年)の時代になりますと、インドから僧侶が仏教を伝播するために経典を携えて渡来します。仏図澄(232〜348年)の布教による仏教の発展と、弟子の竺法雅や道安(314〜385年)が輩出します。西晋末の竺法雅や康法朗、また、東晋の支遁(314〜366年)は、さきにのべた、「格義仏教」の代表者でしたが、道安は本来の仏教の用語と概念を明確にすべきとして、この「挌義仏教」を打開していきます。

とくに、前秦3代目の符堅王(357〜385年)により、道安が襄陽檀渓寺から長安の五重寺に拉致されたおり、亀茲国に鳩摩羅什(344〜413年、350〜409年)という名僧がいることを、符堅王に推挙した功績は大きいものでした。符堅王は、高句麗に僧と経典を遣わしており、これが朝鮮半島に仏教が伝来した最初となります。符堅王は亀茲国を攻め、白純王など1万人の亀茲人を殺し、羅什を捕虜にします。

鳩摩羅什の父は鳩摩羅炎といいインドの宰相の長子で、若い頃に出家し修行の旅にでます。亀茲国王の白純は鳩摩羅炎を国師として招き、白純の妹のジーダと結婚し生まれたのが鳩摩羅什です。ジーダは7歳の羅什を沙弥とし自身も出家します。9歳のときにカシミールの槃頭達多に就いて3年間小乗を習います。ヤルカンドの王子である須利耶蘇摩が、大乗仏教を伝えていたことの影響で大乗を学び、20歳(363年)のときに、王宮で受戒し大乗を弘めるようになります。

亀茲国を直接、攻めたのは呂光将軍で、長安への帰路に符堅王の死去を知ると、河西回廊のなかほどの姑蔵城を攻め、ここに後涼国を建て王位に就きます。鳩摩羅什も同じく385年から401年12月まで、姚興が後涼国を滅ぼすまでの16年間をここで過ごします。羅什はこの時期に中国の文化を学び、高度な翻訳の基礎となりました。

後秦の姚興(394〜416年在位)は、鳩摩羅什を長安へ招きます(395・400・402年説があります)。鳩摩羅什にとっては、長安へ来て訳経を手がけることは長年の念願でありました。それに姚興が莫大な援助をしたので、「什門四傑(四哲)」と称される道生・僧肇・僧叡・道融、それに、「四英」とよばれる曇影・慧観・道恒・曇済を代表とした、3000人の門弟たちを率いることができました。逍遥園(草堂寺)と長安大寺において、『中論』(4巻)・『百論』・『大智度論』(100巻)を始とする論蔵や、律では『十誦律』、経典は『法華経』(8巻)『大品般若経』『維摩経』(3巻)など300点以上、35部294巻という多量の翻訳をし後世に残しました。死去の年次については諸説があります。弘始11年(409年)8月20日、長安で60歳にて亡くなったという、慧皎(497〜554年)の『梁高僧伝』の説が有力です。羅什の遺骸は長安大寺の逍遥園で荼毘にふされました。

『高僧伝』や僧?の『鳩摩羅什法師誄』によりますと、鳩摩羅什は臨終の直前に、「若し伝う所謬り無んば、当に身を焚くの後に舌焦爛(しょうらん)せざらしむ。(中略)火を以て屍を焚くに薪滅し、形砕て唯舌灰せず」(『大正新脩大藏經』50巻332頁)といいます。つまり、羅什は自分の所伝(翻訳した経典)が無謬ならば(間違いが無ければ)、焚身(荼毘)ののちに舌は焦爛しない、といい、事実、鳩摩羅什の遺体を火葬したところ、荼毘の薪が燃えつきた跡には、現世の姿形はなくして、焼骨のなかに、ただ舌だけが焼け残った」といわれています。

この、「舌根不焼」(「舌不燃」)の伝説は、日蓮聖人も多用し、『法華経』の真実である証明とされています。『撰時抄』に、つぎのようにのべています。

じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。羅什三蔵一人を除てはいづれの人々もざるはなし。其中に不空三蔵は殊に多き上、誑惑の心顕なり。

疑云、何にをもつて知ぞや、羅什三蔵より外の人々はあやまりなりとは。汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、漢土日本にわたる一切の訳者を用ざるかいかん。答云、此事は余が第一の秘事なり。委細には向て問べし。但すこし申べし。羅什三蔵の云、我漢土の一切経を見るに皆梵語のごとくならず。いかでか此事を顕すべき。但し一の大願あり。身を不浄になして妻をたひすべし。舌計清浄になして仏法に妄語せじ。我死ば必やくべし。焼かん時、舌焼るならば我が経をすてよと、常に高座してとかせ給しなり。上一人より下万民にいたるまで願云、願くは羅什三蔵より後に死せんと。終に死給後、焼たてまつりしかば、不浄の身は皆灰となりぬ。御舌計火中に青蓮華生て其上にあり。五色の光明を放て夜は昼のごとく、昼は日輪の御光をうばい給き。さてこそ一切の訳人の経々は軽くなりて、羅什三蔵の訳給る経々、殊に法華経は漢土にはやすやすとひろまり候しか(1023頁)

鳩摩羅什は門弟と、384巻といわれるほどの経論を訳出し、『法華経』・『阿弥陀経』(1巻)などは現在も読経されています。この功績は、従来の「空」の解釈を訂正し、中国仏教の転機となりました。中国仏教では、『法華経』と『涅槃経』が最も重視され、研究されるようになります。鳩摩羅什以後の翻訳を、「旧訳」といい、これまでのを「古訳」といって区別されます。玄奘以後を「新訳」といいます。

 鳩摩羅什の後には、著名な僧侶たちによって大乗仏教が次々に翻訳されます。慧観は『涅槃経』に五時の教判を立て、「涅槃宗」の確立に影響をあたえています。『中論』の研究は「三論学派」を形成していき、『十誦律』により「律」の研究がなされていきます。

南北朝(420〜589年、五胡十六国304〜439年))時代になりますと、仏教は歴代帝王に庇護されて、経典の編纂や寺院の造立が推奨され、これまでの道教・儒教と抵触していた「格義仏教」の余残は、本来の信仰と教学の研鑽へと進展していきます。南北朝の仏教は、北魏の永平元年(508年)に洛陽に来た、菩提流支と勒那摩提の以前と以後とに区分されます。菩提流支らによって無着・世親の教えが伝えられ「唯識説」が広まり、勒那摩提の弟子の慧光(468〜537年)は、「地論宗南道派」をつくり、菩提流支の弟子の道寵は、「北道派の祖」となりました。

慧光は光統律師(こうず)といわれ、慧遠(523〜592年)などの多くの弟子を輩出し、道覆より受けた四部律から「四部律宗」を起こします。この「四部律宗」は道雲・道洪・智首(567〜635年)へと継続し、智首の弟子の道宣(596〜667年)が「南山律宗」をつくります。また、道雲の弟子の洪遵・洪淵、そして、法礪(569〜635年)が「相部宗」を創ります。この法礪の弟子に満位がおり、満位の弟子に「華厳宗」の法蔵(643〜712年)や大亮がいます。

そして、大亮の弟子に、「天台宗」の妙楽と、「華厳宗」の澄観がおり、鑑真も大亮から「相部宗」を受けています。鑑真は「南山宗」の弘景から受具しているので、「南山律宗」の系統になります。大亮の弟子の定賓から具足戒を受けたのが、日本から入唐した普照で、鑑真とともに帰朝しています。

曇鸞(467〜542年)は、菩提流支の『無量寿経論』により『浄土論註』を作り、道綽(562〜645年)・善導(613〜681?年)に伝わり、中国浄土教を盛んにしました。「唯識」と「倶舎」を広めた真諦(499〜569年)は、南朝の武帝(502〜549年在位)に迎えられています。鳩摩羅什・真諦・玄奘・不空とを「四大翻訳家」といいます。

また、菩提達摩は諸国を歴渉し崇山少林寺に入り、「面壁九年」の修行をしたといいます。達摩は壁観に住して「禅」の教えを説きますが、「四念処観」を説く「禅宗」とは区別されています。達磨の弟子に慧可(僧可、487〜593?年)がおり、慧可は「禅宗」の第二祖となり「禅」を普及していきます。

 「成実論」の研究は、鳩摩羅什の弟子の僧導らが行い、慧次(434〜490年)が有名です。慧次に「梁の三大法師」と呼ばれる弟子がおり、その一人が光宅寺法雲(467〜529年)です。法雲は『法華経』の解釈では随一といわれ、『法華義記』8巻を残し、「成実」を大乗の立場から解釈したので「成実大乗義」といいます。このころは『成実論』を仏教の基礎として研究されたので、「成実学派」の黄金時代とよばれます。この思想が日本に伝来して「南都六宗」のなかの「成実宗」として受容されたのです。

 しかし、北魏の太武帝(424〜452年在位)のときに、「三武一宗の法難」といわれる廃仏運動があります。446年に北魏は諸州に詔して廃仏を断行しています。「三武一宗」の法難の第1となります。

「三武一宗」の法難の第2は、北周の武帝(574〜578年)の574年に廃仏を行なっています。これは道教と仏教の対立であり、その要因には仏教教団の堕落があったといいます。この廃仏の動乱は、仏教徒に「大同の石仏」と、「竜門の石仏」を造る護法運動になったのです。南北朝が滅びるころには寺院が3万から4万、僧侶は200万から300万、経典は400部2000巻といわれるように発展しました。「弥陀信仰」・「弥勒信仰」・「観音信仰」も盛んになり、これに「末法思想」が加わり、中国独自の仏教史を創り出す重要な時代を形成しました。そして、隋・唐になりますとさまざまな宗派ができます。

隋(581〜618年)の初期には、法華経思想に基づく天台大師智(538〜597年)の「天台宗」と、『中論』『十二門論』『百論』に基づく吉蔵(549〜623年)の「三論宗」が起きます。また、曇鸞(476〜542年)の『浄土論註』に基づく、道綽(562〜645年)の「称名念仏」の「浄土教」が確立します。道綽の弟子の善導(613〜681年)による「浄土教」が日本に入って「浄土宗」として発展しました。また、菩提達磨(〜530?)を初祖とし、慧可(487〜593年)と続き、慧能(643〜713年)により大成した頓悟を説く「禅宗」が教団を形成します。

 隋は30年間ほどの短い時代でしたが、文帝の仏教護持により寺僧を大事にし多くの碩学を育てました。とくに、慧光の弟子である「地論宗」の浄影寺慧遠や、「天台宗」の智、「三論宗」の嘉祥大師吉蔵(549〜623年)が有名で、「隋の三大師」と賞賛されています。「三論宗」は唐代以後は衰微しますが、吉蔵の弟子である慧灌が推古朝の日本に「三論宗」を伝えました。

 天台大師がこの時代に「天台宗」を完成しますが、この系譜は北斉(550〜577年)の慧文禅師、そして、南岳大師慧思(515〜577年)から伝えられました。慧文は修禅者で『大智度論』によって「一心三観」の理をたて、慧思はこれに法華経を研究して「法華三昧」を発得して智に伝えました。智はこれを「一念三千」として教学を立てたのです。智が大蘇山の慧思に詣でたときに、慧思より「昔、霊山において同じく法華経を聞きし宿縁により今また来れり」といって感激したといいます。

さて、日蓮聖人が「法華最勝」の影響を受けた天台大師は、『天台山国清寺智者大師別伝』によりますと、諱(キ、いみな)を智、字を徳安といい、俗称は陳氏と書かれています。父は中国の草州(湖南省)華容の有力者である陳起祖、母は徐氏で、南北朝時代の梁末の乱世に生まれ、17歳のときに両親は死没しています。18歳で動乱の世の無常を感じて、果願寺の法緒の門に入って出家し、23歳までに経論を学びおえました。のちに師とする南岳大師慧思(515〜577)に7年仕え、「法華三昧」を体得しました。『天台大師別伝』には、南岳大師と天台大師は、釈尊在世の霊鷲山で共に法華経を聴聞したとのべられ、南岳大師は聖徳太子として生まれ変わったと、奈良時代には信じられてきました。

天台大師はこののち、浙江省の天台山に入り「法華至上」の教義を説き、32歳に『法華玄義』を開講して「中国天台宗」を開創しました。50歳のときに光宅寺で『法華文句』を講じ、57歳のときに『摩訶止観』を説きました。天台大師の著述はたくさんありますが、そのなかでも「天台の三大部」が有名で、「三部」とも弟子の章安大師灌頂(かんじょう、561〜631年)が、天台大師の口述を筆録したものです。

『法華玄義』は妙法蓮華経の経の「題名」についてくわしく解釈しています。『法華文句』は法華経の経文の始から終わりまでの、一字一句の解説をしています。『摩訶止観』は、教理的な前者にたいして、「観門」といわれる「観心」の修行について論じています。天台大師の教義の特徴は、「教相判釈」(教判)の立場から、釈尊の一代仏教の経典を、内容や説かれた時期などを整理分類して優劣をつけ、法華経を諸経のなかの最勝の教えとして(「法華最勝」)、位置づけたところにあります。

 中国では5、6世紀の南北朝時代に、たくさんの経典が翻訳されインドから伝播しました。

経典の整理にあたり「教相判釈」がされるようになり、「南三北七」といわれる碩学が輩出して経典の勝劣が争われました。南地にあたる江南では、釈尊が最後の説法をした「涅槃経」を至上とし、北地の揚子江以北では「華厳経」が至上の経典として論戦していました。天台大師は、「法華経」が釈尊の説きたかった真実の経典(「随自意」)として判釈しました。

天台大師が「教相判釈」の立脚としたのは「五時八教」でした。「五時」とは釈尊が成道して涅槃にいたるまでの教えを五つに分類し、そのなかでも「法華経を最勝」の教えとしたものです。「八教」とは釈尊の教え方の方法を分類した「化儀の四教」と、教えの内容をを分類した「化法の四教」をいいます。この「五時八教」をもって「法華至上」の論拠としました。

 智の弟子には、得業伝法の者が32人いたというほど能力の高い者がいましたが、なかでも灌頂(561〜632年)が有名です。智が入寂したのは戦乱の時であったこともあり、灌頂が智の講義を筆録して残し、また、「三大部」に補助的な注釈をしています。

その後、「天台宗」は6祖の荊渓湛然(711〜782年)まで、暗黒時代といわれるように振るわない時代が続きます。湛然は妙楽大師といわれ、「三大部」の注釈と、『金?論』1巻など多数の著作があり、弟子に道邃・行満・元皎がいます。最澄が805年に、天台山に来て指導を受けたのが道邃です。道邃は最澄に「止観」を授けましたが、同時に天台・真言・禅・円頓戒の「四宗合一」の「天台宗」を授けたといいます。道邃の弟子の宗頴は慈覚大師円仁の師匠であり、宗?は智証大師円珍の師匠になります。天台宗の第7祖は行満で、第8祖の広脩の滅後に「会昌の破仏」が起き、第二の暗黒時代に入ります。

 隋の仏教は唐(618〜690・705〜907年)にも引き継がれていきます。玄奘(602〜664年)は17年間の辛苦を経て、645年にインドから長安に帰朝し慈恩寺に住します。ここで没するまでの20年間に、75部1330巻という経論を翻訳しています。これは中国で翻訳された経論の6分の1以上といわれています。玄奘はナーランダで戒賢に「唯識」を習い、『成唯識論』を著し、これが「法相宗」の始まりとなりました。653年に日本の道昭が入唐して玄奘に学び、日本に帰り伝法したのが、「法相宗」の「第一伝」となりました。

玄奘の弟子の慈恩大師窺基(632〜682)により、「法相宗」が盛んになります。しかし、「唯識」の研究は続けられますが、「華厳宗」や「真言宗」が盛んになるに従い、「法相宗」は智周(668〜723年)以後、振るわなくなります。日本からは智通・智達が658年に入唐します。これが「第二伝」で、玄ムが714年に入唐して「第四伝」となります。玄ムは智周に「唯識」を学び、奈良時代に日本に帰り興福寺に住して「法相宗」を確立します。玄奘が翻訳した『倶舎論』30巻により「倶舎宗」が起き、この「倶舎宗」が日本に伝えられて奈良時代に「倶舎宗」ができています。

 唐代(618〜907年)の律においては、義浄(635〜712年)の「根本説一切有部律」18部200巻が有名です。しかし、すでに中国においては「律宗」が成立していた後でした。義浄は法顕や玄奘の行跡を慕い、インドに25年間30余国に経典を求めて、695年に帰国しました。武則天の勅により仏典の翻訳を大成しました。『南海寄帰内法伝』は7世紀のインド仏教を研究する資料となっています。

「禅宗」では神秀(606〜706年ころ)と慧能(638〜713年)がおり、達摩より五祖の弘忍(602〜675年)の弟子で、神秀の「北宋禅」と、慧能の「南宋禅」に分かれていきます。

神秀は大通禅師といわれ、長安や洛陽に「禅宗」を広めました。神秀の弟子に普寂(651〜739年)がおり、普寂の弟子の道?(どうせん)がいて、この道?が聖武天皇の天平8年(736年)に日本に来て、大安寺の行表に「北宋禅」を伝えています。そして、行表から最澄が「禅」の教えを受けています。その後、「北宋禅」は崇珪(すうけい。756〜841年)の代になりますと衰えていきます。

 「南宋禅」といわれる慧能は曹渓大師といわれ、多くの弟子がおり、青原行思(?〜740年)の系統から曹山本寂(840〜902年)が出て「曹洞宗」が起き、南獄懐譲の系統から「洪州宗」が起きます。南獄懐譲の系統に百丈懐海(749〜814年)がおり『百丈清規』を定めています。百丈懐海の孫弟子に臨済義玄(867年寂)がおり「臨済宗」を起こします。

華厳経に基づいて「法界縁起」を説く杜順(557〜640年)・法蔵(643〜712年)による「華厳宗」があります。法蔵の弟子に慧苑(673〜743年ころ)がおり、清涼国師澄観(782〜839年)が輩出します。澄観は妙楽に師事して「天台宗」を学びますが、「華厳」と「天台」の勝劣についての論諍がありました。澄観の晩年の弟子に宗密(780〜842年)がおり、「禅」の影響を受けて「教禅一致」を説きます。「華厳宗」は宗密の没後に「会昌の破仏」(842年以後)が起き、弟子などについては不明です。

そして「真言宗」の善無畏・金剛智・不空(705〜774年)が輩出します。中国に本格的に「密教」が伝来したのは、善無畏が716年に長安に来たときに始まるといいます。善無畏の弟子に一行(683〜717年)がおり、多くの翻訳を筆受しています。同じ弟子に義林がおり、この弟子の順暁は最澄の「密教」の師となっています。不空の弟子に恵果がおり、空海はこの系列の「密教」を学んで帰朝しました。慈覚大師円仁が入唐して、不空の孫弟子の義真から「胎蔵界」を受け、元政から「金剛界」を受けましたが、「会昌の破仏」にあいます。中国の「密教」もこれにより中断してしまいます。「会昌の破仏」以後、中国における仏教は衰微していきます。

 「会昌の破仏」は仏教教団の勢力が強まったことや、私度僧が増えて規律が乱れたことにあります。これらの僧尼を排除したのが「武宗の廃仏」で「三武一宗」の法難といい、その最大の事件が会昌2年(842年)の破仏といわれるものです。ほとんどの寺は壊され僧尼の還俗させられた人数が26万人いたといいます。この廃仏により唐代の仏教が衰微したのです。日蓮聖人は『兄弟抄』に、

「後漢の永平より唐の末に至るまで、渡れる所の一切経論に二本あり。所謂旧訳の経は五千四十八巻也。新訳の経は七千三百九十九巻也」(918頁)

と、中国の仏教の盛期の始め(後漢の永平)と、終わり(唐の末)をみられています。中国仏教の宗派とその教義が、ここにおいて確立されたといえます。

  (中国の主な宗派)

6世紀後半   天台宗  智  法華経

7世紀前半   三論宗  吉蔵  中観

            南山律宗 道宣  律

    7世紀後半   華厳宗  法蔵  華厳経

            法相宗  慈恩  唯識

            浄土宗  善導  浄土教
                  北宋禅  神秀  禅

            南宋禅  慧能  禅

    8世紀前半   真言宗  善無畏 密教

    9世紀半ば   臨済宗  臨済  禅

            曹洞宗  良价  禅

 五代十国(907〜960年)の後周の世宗(954〜959年在位)のときに、「三武一宗」の最後の法難があります。ただし、五代はおもに中国の北部を支配しており、南部では比較的に仏教は興隆していたといいます。

宋(北宋960〜南宋1127〜1279年)は、北宋と金に華北を占領された南宋の時代をいい、前後320年をいいます。仏教史においては既に唐の時代に教理は完成されており、「諸宗融合」の仏教といえます。宋朝は仏教を庇護し大蔵経の開版が有名です。太祖は12年を費やして5000余巻の大蔵経を出版し、日本の「然(ちょうねん)が986年に大蔵経を持って帰朝しています。この大蔵経は蜀版といい、1080年に東禅寺版の6000が出版され、3回目には1112年に開元寺で始められた開元寺版があります。南宋に入っても開版され日本に将来されています。

 「天台宗」においては四明知礼(960〜1028年)と、孤山智円(976〜1022年)・慶昭との論争があります。6祖の妙楽から5代目に清竦(しょうしょう)がおり、その弟子の義寂と志因が2派に分かれます。志因から悟恩・源清・孤山智円とつながるのが「山外派」(さんがい)で、義寂から義通・四明知礼とつながるのが「山家派」といいます。違いは天台大師の「観心」が「真心観」か「妄心観」かで、四明知礼は「妄心観」を立て宋時代の「天台宗」の大勢をもっていきます。

 「禅宗」は安定して栄え、「臨済宗」には黄竜慧南(1002〜1069年)や楊岐方会(992〜1049年)がおり、「黄竜派」と「楊岐派」とができます。圜悟克勤(えんごこくごん。1063〜1135年)は「楊岐派」に属し弟子に大慧宗杲(そうごう。1089〜1163年)がいて「看話禅」を唱えています。

「黄竜派」の虚菴懐敞から教えを受けたのが栄西(1141〜1215年)で、日本で「臨済宗」を開きました。鎌倉時代に日本に渡来した禅僧は「楊岐派」の系列が多く、鎌倉や京都に住して教えを説いています。「曹洞宗」の洞山良价(807〜869年)の系統に、天童如浄(1163〜1228年)がおり、道元に「曹洞宗」を伝えています。天台・禅・律宗においても「浄土教」の信仰をしている僧がおり、念仏も行なわれていました。

 宋代における遼(916〜1125年)・金(1115〜1279年)は、ともに歴代の帝王が仏教を庇護し、国家を統治していきます。蒙古のジンギスカーンが1206年に太祖となり、1271年に元朝を起こします。元は朝鮮半島からヨーロッパまでを領地とします。元代にはチベットの「ラマ教」が信仰されるようになり、仏教はとくに目覚しい発展は見られません。