66.日本仏教史
 日本に仏教が公に伝わったとされるのは、『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起並流記資財帳』により、欽明天皇7年の「538年説」が学界で承認されています。『日本書紀』の欽明天皇13年の「552年説」は誤りとされています。両者の年号の違いは6年ですが、西暦年数では14年の違いがでて矛盾します。これを整合させるために、欽明・安閑・宣化の両朝が並立した時代(532~539年)の欽明1年(532年)と、それにつづく、欽明が独立した540年を新たに欽明1年として、欽明1年を重複させて年表に提示されています。

日蓮聖人は仏教伝来について、「欽明天皇の治世13年(552年)10月13日」とした、当時の『日本書紀』の通説をうけています。『神国王御書』につぎのようにのべています。

「第三十代は欽明天皇。此の皇は第二十七代の継体の御嫡子也。治三十二年。此の皇の治十三年[壬申]十月十三日[辛酉]、百済国の聖明皇、金銅の釈迦仏を渡し奉る。今日本国の上下万人一同に阿弥陀仏と申此也。其表文云 臣聞万法之中仏法最善。世間之道仏法最上。天皇陛下亦応修行。故敬捧仏像・経教・法師附使貢献。宜信行者[已上]」(878頁)

『日本書紀』に書かれた仏教の記事は、遣唐使として唐に渡った道慈(?~744年)が編纂に参画したとされます。道慈は法隆寺の智蔵に三論を学び、大宝2年(702年)に粟田真人に従って入唐しました。養老2年(718年)に帰国して大和大安寺の平城移建に尽くし、「三論」を講説し三論宗の第三伝と称されています。

仏教伝来の年次については、「末法思想」の影響がみられます。三論宗系の研究においては、この552年が釈迦入滅後1501年目にあたり、末法元年」になります。また、『大集経』による「五五百歳」の区切りにおける、像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることが重視されたためと考えられます。日本ではその500年後の1052年が「末法元年」とされ、日本に仏教が公伝された年次が、552年であったことの意義をうかがうことができます。

日蓮聖人は仏教伝来と日本での仏教受容について、『本尊問答抄』に、

「日本国は人王三十代欽明の御時百済国より仏法始て渡たりしかども、始は神と仏との諍論こわ()くして三十余年はすぎにき。三十四代推古天皇の御宇に聖徳太子始て仏法を弘通し給。慧観・観勒の二の上人、百済国よりわたりて三論宗を弘め、孝徳の御宇に道昭、禅宗をわたす。天武の御宇に新羅国の智鳳、法相宗をわたす。第四十代元正天皇の御宇に善無畏三蔵、大日経をわたす。然而(しかるに)不弘(ひろまらず)。聖武の御宇に審祥大徳・朗辨僧正等、華厳宗をわたす。人王四十六代孝謙天皇の御宇に唐代の鑑真和尚、律宗と法華経をわたす。律をばひろめ、法華をば不弘。第五十代桓武天皇の御宇に延暦二十三年七月、伝教大師勅を給て漢土に渡り、妙楽大師の御弟子道邃・行満に値奉て法華宗の定慧を伝へ、道宣律師に菩薩戒を伝え、順暁和尚と申せし人に真言の秘教を習伝えて、日本国に帰給て」(1578頁)

と、大和時代の仏教伝来と定着、奈良時代の「南都六宗」の学問仏教、平安時代の伝教大師の法華経受容についてまとめており、どうようなことを『撰時抄』に、

「像法に入て四百余年と申けるに、百済国より一切経並に教主釈尊の木像僧尼等日本国にわたる。漢土の梁の末、陳の始にあひあたる。日本には神武天王よりは第三十代、欽明天王の御宇なり。欽明の御子、用明の太子に上宮王子仏法を弘通し給のみならず、並に法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定させ給ぬ。其後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に三論宗・成実宗を観勒僧正百済国よりわたす。同御代に道昭法師漢土より法相宗・倶舎宗をわたす。人王第四十四代元正天王の御宇に天竺より大日経をわたして有しかども、而も弘通せずして漢土へかへる。此僧をば善無畏三蔵という。人王第四十五代に聖武天皇の御宇に審祥大徳、新羅国より華厳宗をわたして、良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて、東大寺の大仏を立させ給えり。同御代に大唐の鑑真和尚、天台宗と律宗をわたす。其中に律宗をば弘通し、小乗戒場を東大寺に建立せしかども、法華宗の事をば名字をも申し出させ給はずして入滅し了。其後人王第五十代、像法八百年に相当て桓武天王の御宇に、最澄と申小僧出来せり。後には伝教大師と号たてまつる。始には三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並に禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給し程に、我と立給る国昌寺、後には比叡山と号す」(1014頁)

と、日本に仏教が伝来した起点から、しだいに、最澄が比叡山を開くまでの仏教伝播の概略をのべています。最澄が日本天台宗を開宗したのは、延暦25年(806年)1月26日のことです。

  三論宗―成実宗―法相宗―倶舎宗―華厳宗―律宗―禅宗―法華宗―真言宗

まず、百済の聖明王が欽明天皇に、仏像(釈迦仏金銅像)や経巻を贈ったのは、政府間での公的な献上ということでした。日本と中国の交流は、「漢の倭の奴の国王」の印が示すように、服従的な国交関係にて紀元前から行なわれていました。光武帝(前6~後57)のときに、倭国の王が使節を遣わして貢物を献上しており、その後も通行があり仏教の見識や、仏事の見聞はあったと想像されます。

司馬達等(しばたつと)が、継体天皇16年(522)に朝鮮から日本へ来て、大和の高市郡田原に草堂を作り、本尊を安置して帰依礼拝したことが『扶桑略記』に記載されており、中国や三韓時代の朝鮮から、日本に移住していた者が存在したので、これらの帰化人から民間に仏教が流入したのは、早い時期から行われていたと思われます。とくに、蘇我氏は朝鮮から渡来しており、系譜は韓子(からこ)・高麗(こま)から稲目へ、そして、馬子へと引き継がれていきます。

日蓮聖人は『神国王御書』(878頁)に欽明・敏達・用明の三代、30余年は仏教を尊崇しなかったとのべています。当時の情勢をみますと仏教を受け入れるかについて、権力争いも加わり蘇我稲目の崇仏派と、物部尾興や中臣鎌子の俳仏派とに別れていました。蘇我稲目が仏像を祀ったのが「向原寺」です。その後、疾病が流行したので寺は焼き払われてしまします。次に敏達天皇の代になり蘇我馬子が寺塔を建てますが、疫病が流行り物部尾興の子である守屋に焼払われてしまします。

 つぎの用明天皇は即位して2年後の587年に崩御しますが、母が蘇我氏であることから仏教を尊崇する動きがありました。つぎも天皇の擁立争いがあり、蘇我馬子と用明天皇の子である厩戸皇子(聖徳太子、574~622年)は、敏達天皇の皇后推古天皇を奉じて物部守屋を滅ぼします。このときに、蘇我馬子と厩戸皇子が「法興寺」と「四天王寺」の建立を発願しました。これにより仏教が開かれていきます。

馬子は翌年の崇峻元年(588年)に、日本で最初の出家者となる善信尼たちを、百済へ修学のために遣わしています。善信尼の父は司馬達等といい、弟は鞍作止利仏師という家柄の出身で、高句麗の恵便に師事して出家しました。学問を終えて崇峻3年に帰国し、「桜井寺」(向原寺、豊浦寺)に住みます。尼寺の「豊浦寺」(とゆら)は蘇我氏が建てた氏寺といいます。この寺院は国が建てた官寺ではなく氏寺であることに注目され、かつ、これまでの日本人が見たことがない壮大な寺院建築は、その後における仏教公布に多大な功績を果たしたのです。まさに大和時代の古墳文化から、新たな飛鳥時代の象徴が築かれていったのです。
推古天皇の治世となる593年から、約50年間を飛鳥時代といい、このころの百済は対新羅との政策上から、日本に中国の文化を移出しており、そのなかでも仏教を盛んに移入しました。これは日本が仏教を盛んに希求していたという事情があったからです。

日蓮聖人は、33代の崇峻天皇のときから仏教が尊崇されるようになり、34代の推古天皇の御宇に仏教が盛んになったとみています。用明天皇の後を継いだのは弟の崇峻天皇ですが、592年に馬子に暗殺されてしまいます。その後を受けたのが推古天皇でした。中国では天台大師が光宅寺で、『法華経』(『法華文句』)を講義したころになります。

太子が厩戸皇子と名を付けられたのは、母親の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が夢の中に金色の僧が現れ、「我は救世観音で西天竺から来たが、南天竺が荒んでいるので、彼等を救いたい為、しばらく皇女の腹を借りる」という夢想をみて子を孕み、たまたま、厩の前に来た時に陣痛に襲われ厩で産んだことから、厩戸皇子と呼ばれるようになったと『日本書紀』に書かれています。また、皇族の皇子は母方や乳母(めのと)となった女性の土地で生まれることが多かったことから、生誕地の近くに「厩戸」という地名があり、ここで生まれたのではないかといいます。上宮太子の称号も、桜井市に上之宮の地名が残っているので、太子が住んだ宮殿の名というよりは、地名によるといわれています。

さて、日蓮聖人が「聖徳太子始めて仏法を弘通し」と、のべているように、仏教が定着するのは聖徳太子(574~622年)の功績です。『立正安国論』に、

「上宮太子者誅守屋之逆成寺塔之構。爾来上自一人下至万民崇仏像専経巻」(213頁)

と、守屋についてふれ、この事件いらい仏教が知れ渡るようになったとのべています。また、太子の聡明さについては、『開目抄』に

「六歳の時、老人ども又合掌して我が師なり」(574頁)

と、のべており、ここには、『和漢王代記』にのべた、

上宮太子切守屋立四十九院。南岳大師ノ後身也。救世観音垂迹也」(2351頁)

と、観音菩薩の化現、南岳大師の再来として位置づけた、独自の聖徳太子観が存することを知る必要があります。

聖徳太子は叔父の崇峻天皇が蘇我氏に暗殺され、叔母の推古天皇の即位後に皇太子摂政(20歳)となります。この年に「四天王寺」を難波に造立します。天台大師は玉泉寺において『法華玄義』を講義しています。太子は翌、推古2年(594年)に、「三宝興隆の詔」を発して仏教受容の国家を形成していきます。天台大師はこの4月に玉泉寺において、『摩訶止観』を講義しています。太子は外典を覚哿(かくか)に習い、仏教は推古3年(595年)に高句麗から渡来した慧慈(?~623年)に学ばれています。慧慈は太子の師匠として私淑して仏教を伝えたといいます。また、百済から慧聡が来日し、推古4年(596年)11月に、「法興寺」(現在の飛鳥寺安居院)が完成されると、この慧慈と慧聡に、仏教を弘める「三宝の棟梁」とし、馬子の長男である善徳を寺司としました。太子の仏教は「梁の三大法師」の百済系といわれています。また、「法興寺」は「一塔三金堂」の本格的な伽藍の配備をしており、これは当時の高句麗寺院の影響があるといわれています。

 推古12年に「憲法十七条」を作り、第1条に有名な「和を以って貴しと為す」、第2条に「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」と示し、太子の仏教観と仏教による国家統治の思想が伺えます。

推古14年(606年)に、推古天皇の前で『勝鬘経』を講じ(『法王帝説』推古6年の説もあります)、岡本宮で『法華経』の講義をされています。この法勲として播磨国の水田百町を賜ったのを「法隆寺」の寺領として寄付しています。推古15年7月に小野妹子らと共に留学僧を隋へ派遣し仏教を学ばせています。『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』を鎮護国家法の法と定め、注釈書である『三経義疏』を著わしたと伝えています。このうち、宮内庁に格護されている『法華義疏』は太子の自筆とされ、ここには、釈尊がこの娑婆世界に応現されたのは『法華経』の教えを説くことであるとして、「一乗平等」の大果を得ることを理想としています。『勝鬘経義疏』は敦煌から原典が発見され、『維摩経義疏』は後にできた杜正倫の『百行章』が引用されており、『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』には記事はありません。同年、用明天皇の遺命により金銅薬師像(法隆寺)を造っています。

太子が在世中に造立した寺院は、『上宮聖徳法王帝説』や、天平19年(747年)に「法隆寺」が作成した『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によりますと、さきの、療病や福田を行なった「四天王寺」(大阪)と、学問僧を養成した「法隆寺」(奈良)のほかに、「中宮寺」(奈良)・「橘寺」(奈良)・「池後寺」(法起寺、奈良)・広隆寺(京都)・「葛城尼寺」(尼寺で現在はありません。所在地について和田廃寺などの説があります)の7寺院があります。実際に聖徳太子が建立に関わった野は四天王寺と法隆寺(斑鳩寺)だけで、後は聖徳太子にゆかりがあった人々によって建てられたものといいます。日蓮聖人は日本最初の寺を「元興寺」・「四天王寺」とのべています(『新尼御前御返事』866頁)。

太子の摂政時代に、百済や高句麗から来日した観勒(推古10年4月)などの渡来僧は十数名います。『日本書紀』に太子が帰依した朝鮮の僧侶として、高句麗の慧慈と曇徴、百済の慧聡と観勒が載せられています。さきにもふれたように、恵慈と恵聡は「三宝の棟梁」と称されて尊敬され「法興寺」に住しています。

これらの渡来僧は日本に寺院建築・造仏技術・天文地理(観勒)・彩色紙墨(曇微)など、様々な工芸文物や芸術や技術を伝えました。まさに、朝廷の規範となり飛鳥文化に寄与した功績は、これらの渡来僧にあったといえましょう。

 日蓮聖人はこのような聖徳太子を「四天王寺」を建て仏法を興隆した(『観心本尊抄』720頁)偉人であり、戒日大王や宣宋皇帝と同じく、仏法の怨敵を誅罰した持戒の人であり、善政を行なった賢人としてとりあげています(『龍泉寺申状』1683頁)。また、佐渡流罪中に遺言として執筆された(『開目抄』599頁)に、聖徳太子を「法華経の行者」として「上宮は手の皮をはぐ」という苦行の例を挙げ、自身の行者意識とかさねて「不惜身命」の行者像を示されています。さらに、「他国侵逼」の予言とかさねて、聖徳太子も日本における預言者として位置づけていたことが、『安国論御勘由来』にみられます。

「予弥増長悲歎。而捧勘文已後経九ヵ年今年後正月見大蒙古国国書。相叶日蓮勘文宛如符契。(中略)聖徳太子記云、我滅度後二百余年山城国可立平安城」(423頁)

太子の没後に、中国や朝鮮で発展していた「宗派仏教」が入ってきます。さきにのべたように、飛鳥・奈良時代にかけて「南都六宗」(古京)とよぶ、「倶舎宗」・「成実宗」・「律宗」・「法相宗」・「三論宗」「華厳宗」や「摂論宗」・「天台宗」・「別三論宗」・「修多羅宗」・「浄土教」・「密教」・「禅」など、中国仏教のほとんどの宗派が日本に入ってきました。

最初に高句麗の慧灌が、推古天皇33年(625)に来日し「三論宗」を伝えたといい、宗派として飛鳥時代から奈良時代前期にかけて発展しました。慧灌は吉蔵に就いて三論を学び高句麗の王命で日本に来ました。ついで、道昭が中国に留学し玄奘について、「法相宗」と「倶舎宗」を学び日本に伝えました。太子の没後20年に「大化の改新」(645年)となります。

道昭は「大化改新」で燃焼する蘇我邸から『国記』などを持ち出した船恵尺(ふなのえさか)の子供で、入唐して玄奘と同じ房に住して学問を習っています。法相宗はその後も多くの僧から伝えられ奈良時代に栄えた宗派となります。

天武天皇元年(672年)に、「壬申の乱」が起きます。日本古代最大の内乱といわれ、翌年の2月に近江朝廷は滅び、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って、天武天皇(在位672~686)として即位します。天武天皇とその夫人で、つぎの天皇となった持統天皇は、日本で最初の律令である飛鳥浄御原令」(689年)をこの宮で編纂しています。

天武6年(678年)入唐僧の道光が「律宗」を伝え「第一伝」になります。天武13年(685年)3月に、天武天皇は諸国の家ごとに「仏舎」をつくり、仏像や経典を安置して礼拝するように命じており、これにより、仏教が民衆に浸透していくことになります。持統8年(694年)12月に藤原宮に遷都になります。

百済の道蔵は、天武天皇の時代に来日し「成実宗」を伝えました。百済の仏教は戒律を重んじたこともあり、日本の僧尼にとって戒律は基本となる行規として受容されました。「戒」は自分で自らに誓約するものですが、「律」は正式な儀式をもって授受され、法規として必ず遵守するのが決まりです。これに違反すると、教団から還俗などの罰則が科せられます。日本には正式に戒律を授ける戒師がいなかったので、『占察経』によって「三聚浄戒」などの「自誓受戒」が行なわれていました。僧尼を統括する機関として僧綱がつくられています。

和銅3年(710年)3月、平城に遷都され、養老2年(718年)10月に、道慈が帰朝し三論を伝え「第三伝」となります。この年に「養老律令」が完成します。このなかに「僧尼令」が作られています。

この「養老令」のように、僧尼を統制する制度は太子の没後より行なわれており、推古32年(624年)に寺院46ヶ寺、僧816人、尼569人であったのが、70年後の持統天皇6年(692年)には、寺院が545ヶ寺に増えているように、この一つの理由は僧尼が増えたことでした。養老令には1年間の出家の人数を決め(年分度者)、官の許可を得て国から生活費が支給されます。僧尼は寺院に住し三綱により非行を取り締められていました。主に国家護国のために、『金光明経』・『仁王経』・『法華経』を読誦することが役目で、ほかの場所で自由に修行や民衆を教化することを禁じ、背反した僧尼は還俗させられていました。

このようなときに、行基(668~749年)が民衆を相手に罪福の因果などの仏教を説き、朝廷から迫害を受けています。このころの仏教は護国のために必要とされ、一般民衆のなかに浸透されることを警戒していたとうかがえます。行基は「飛鳥寺」の道昭を師として「唯識」や「禅」を学んだといいます。また、遊行僧として諸国を巡歴した道昭と同じく、弟子の行基も山林修行に入り呪力を身につけ、37歳の時に大衆の中に仏教を布教します。朝廷が「小僧行基あわせて弟子等」と指名して禁圧したのは、霊亀3年(717年)のことです。しかし、百姓僧に信者を集め養老6年(722年)に、平城京に「菅原寺」を建立します。これにより信者僧が京都の官人や商工業者まで広がり、翌年に「三世一身の法」が出されると、行基の池溝開発が奨励されることになります。

行基の名声は聖武天皇の信任を得て、紫香楽遷都の天平17年(745年)後に大僧正に任じられます。その2年後に天皇の眼病平癒のために、行基達に命じて「新薬師寺」(香薬寺)が建立されました。宗派は「華厳宗」で、「薬師寺」・「興福寺」の「法相宗」とは違います。奈良時代末の本堂は国宝となっています。

ちなみに、「薬師寺」は天武天皇9年(680年)に、持統天皇の病気平癒のために建てられました。平城京遷都により養老2年(718年)に、畝傍から現在地に移転しています。「新薬師寺」の本尊である薬師如来を、昭和50年に調査したところ、体内から平安時代の『法華経』8巻(国宝)が発見されています。

 聖武天皇の行跡として、天平13年(741年)に発願した、「国分寺」・「国分尼寺」の設置が挙げられます。「東大寺」を「総国分寺」とし、僧寺と尼寺を各国府の近くに建造することを命じたもので、770年代にはほぼ全国に造立しています。僧寺には僧侶20人、尼寺には尼僧10人を置いて、「五穀豊穣」や「国家鎮護」を祈念させています。各地の安泰を祈願することのほかに、大きな目的として地方氏族を畿内の中央政府に服属させることにありました。これは、地方氏族との主従関係を強化しなければ、税収が閉ざされることになるという政策が絡んでいました。

「東大寺」は神亀5年(728年)に、聖武天皇が皇太子供養のため建立した「金鐘寺」(こんしゅじ)が始まりで、天平13年(741年)に聖武天皇が「国分寺」の建立を命じられたときに、「金鐘寺」を「大和国分寺」として「金光明寺」と改称しました。そして、天平15年(743年)10月に、慮舎那大仏造像の詔を公布し、天平勝宝7年(755年)に「金光明寺」にて造営が開始されたことを機に「東大寺」と改称しました。大仏は752年に開眼供養が行なわれていますが、「大仏殿」や講堂などの伽藍が完成したのは延暦8年(789年)になります。「国分寺」や大仏の造像は莫大な費用を必要とします。大仏の高さは16メートル、鋳造のために銅を500トン、金は440キログラムを使用しています。それに、労働力として250万人ほどの人員が投入されています。

また、そのための道路の整備や河川に架ける橋梁工事など、官営事業にも莫大な費用と労働力を必要とします。そのために行基を勧進に任じ利用したともいいます。

このような護国信仰は、孝謙天皇が「恵美押勝の乱」後に百万塔を造らせ、宝亀元年(770年)に完成された百万塔を近畿の10大寺に安置したのも、国家鎮護を目的とした仏教受容であったことがわかります。

 奈良時代の日本仏教は「南都六宗」といわれ、「三論宗・「法相宗」・「成実宗」・「倶舎宗」・「華厳宗」・「律宗」の六宗をいいます。しかし、宗派という別個の教団として独立していたのではなく、仏教学における専門的学問の学派(衆)というもので、「東大寺」を中心に研鑽されていました。「成実宗」は「三論宗」に兼ねて学ばれ、「倶舎宗」は「法相宗」に兼ねて学ばれ独立した宗派とはなりませんでした。

 日本に最初に伝来したのは高麗の慧灌で、入唐して吉蔵に三論を学び、推古33年(625年)1月に来朝し、元興寺に住み「三論宗」を伝えました。慧灌・智蔵・道慈(?~744年)を「三論宗の三伝」といいます。道慈は「密教」を善無畏に学び「大安寺」に住しました。道慈から善議・勤操に伝えられた「密教」が空海に伝わります。のちに、百済の道蔵(―721年―)が「成実論」を講じますが、「三論宗」の寓宗として研究される程度でした。これらは論宗といわれるように経典を所依としないで、論を所依として論議する宗派でした。

 「法相宗」は白雉4年(653年)5月12日に、「元興寺」の道昭が入唐し玄奘に法相を学び日本に伝えました。このとき窺基(慈恩大師)もともに学んでいます)これを「法相宗の初伝」といいます。ただし、歴史的にみると「法相宗」よりも「摂論宗」をもたらしたといいます。

つぎに、斉名天皇4年(658年)7月に智通と智達が入唐し、玄奘に「無性衆生義」を学び、唯識・法相を伝えたのを「第二伝」といいます。これを元興寺伝(南寺)といいます。新羅の智鳳・智鸞・智雄が、「法相宗」第3祖智周から学んで伝えたのが「第三伝」で、天平7年(735年)に智周から「法相宗」を学び帰朝した玄昉を「第4伝」といいます。これを北寺伝といい玄昉は「興福寺」に住しました。

 「法相宗」の教学は『成唯識論』の研究で、その基礎として『倶舎論』を学ばなければ理解ができません。「倶舎宗」が「法相宗」の寓宗になるのはこのためです。この『倶舎論』もさきの南寺伝(元興寺)と北寺伝(興福寺)とに解釈の相違がありました。

 智鳳の弟子に義淵(?~728年)がおり、義淵は天智天皇から聖武天皇までの8代の天皇に信任を受け、元正・聖武天皇の内裏に供奉しています。弟子に玄昉・行基・良弁・隆尊・道慈・道鏡などがいます。また、中国から来た神叡・道叡が義淵から法相を学んでおり、比蘇山(吉野)に入り「求聞持法」の修行をしています。道慈・行表・護命も比蘇山寺(現在の世尊寺)に入って、のちに、日本古来の山岳信仰と仏教の融合が見られるようになります。

「興福寺」は天智8年(669年)に、藤原鎌足夫人である鏡女王が、京都山科寺の私邸に建てた「山階寺」が寺の始まりで、その後、飛鳥に移って「厩坂寺」(うまさか)と称します。そして、平城京遷都(710年)により、藤原不比等によって現在の地に移され、「興福寺」と改称しました。その後、藤原氏の氏寺として一族の隆盛とともに寺勢を拡大し、「法相宗」の寺として学僧を輩出していきます。

 「華厳宗」は中国の華厳宗第3祖法蔵門下の、審祥によって天平8年(736年)に伝えられました。「金鐘寺」(東大寺)の良弁(689~773年)の招きを受けた審祥が、『華厳経』・『梵網経』の講義を行ったことが始まりとされ、それにより東大寺慮舎那仏が造立(743~749年)されることになったといいます。「東大寺」の初代別当になったのが良弁です。日本では中国の「華厳宗」の法脈である、杜順・智儼・法蔵に繋げて、第4祖に審祥、第5祖に良弁と系譜します。日本では中国の「華厳宗」の法脈である杜順・智儼・法蔵に繋げて、第4祖に審祥、第5祖に良弁と系譜します。

また、同年に天竺からきた菩提遷那・林邑僧仏哲・唐僧道璿が来朝し、最初に道璿が「華厳宗」(第1伝)と「律宗」(第2伝)を伝えたといいます。これは『華厳経』の章疏などをもたらしたことによると思われます。道璿は普寂から「北宋禅」も受けており、広く仏教の教えを伝えています。道璿の弟子に行表がおり、行表の弟子が最澄です。

 菩提遷那は「大安寺」に住していました。「大安寺」は聖徳太子が建てた「大官大寺」を、平城京に移して改名した寺で、天平19年(747年)には、887名の僧侶が居住していました。菩提遷那は大仏開眼(752年)の導師を勤めており、この「大安寺」には道慈や鑑真を将来するために派遣された普照・栄叡(ようえい)がおり、また、空海の師匠である勤操と行表も「大安寺」の僧でした。

つぎに、戒律を伝えるために来日したのが鑑真(688~763年)です。「律宗」は最も遅く日本に伝来しました。鑑真は揚州江陽県に生まれ、長安実際寺の戒壇で南泉寺の名僧といわれた弘景を戎和上として具足戒をうけました。弘景は「天台宗」の玉泉寺におり、章安大師灌頂の弟子になりますので、鑑真も本来は「天台宗」の僧侶になります。また、弘景は道宣の弟子でもあり道宣から律を受けています。

律は本来同一であるはずなのですが、インドで部派が分裂するなかで違いがでました。中国に翻訳されて説一切有部の十誦律・法蔵部の四分律・大衆部の摩訶僧祇律・化他部の五分律があります。四分律に基づき法砺(ほうれい569~635年)の「相部宗」、道宣(596~667年)の「南山律宗」、懐素(634~707年)の「東塔宗」の三宗ができました。鑑真が伝えた「律宗」は、弘景に従って具足戒を受けたので、「南山律宗」に属しますが、「相部宗」の法礪・道成・満意、そして、大亮とつづく、この大亮にも律を受けています。

重複しますが、崇峻天皇のときに戒律を受けるため、善信尼が百済に行っています。これは、登壇受戒は出家の正門とされていたので、日本における受戒の場を設けることを、必要とするようになった表れでした。日本に授戒の師を招くため、栄叡(ようえい)と普照は、はじめに、道璿(どうせん、702~760年)に来日を要請します。

道璿は中国の禅宗が6祖のとき、神秀(?~706)の「北宋禅」と、慧能(638~712年)の「南宋禅」に分流したうちの、「北宋禅」の普寂に師事し、禅をはじめ華厳や天台にも精通していたといいます。

翌年10月に、第9次遣唐使船にて来日することになります。道璿に伴っていた僧に、林邑国(ベトナム)の仏哲と、インドの菩提遷那(ボジセンナ)がいます。航海は暴風に遭遇し苦難のすえ、天平8年(736年)5月18日に博多の大宰府に到着しました。

道璿は、孝謙天皇の即位後、天平勝宝4年(752年)4月8日に行なわれた、「東大寺」の大仏開眼の呪願師となっています。仏哲は東大寺大仏開眼にあたり雅楽を担当しており宮中楽舞を興隆し、また、密部の経典を持って来日し『悉曇章』(しったん)一巻を著述したといいます。婆羅門僧正といわれる菩提遷那は、「東大寺」の慮舎那大仏開眼の導師となり、筆をとって開眼しています。

しかし、大僧の具足戒は最少5人僧を必要とし、道璿・仏哲・菩提遷那がいても、規定された受戒師の人数には足りませんでした。栄叡と普照は、「三師七証の十僧」を必要条件とする授戒制度により、ついで、揚州大明寺の鑑真に来日を懇願しました。鑑真は法進・思託などの僧侶14名、尼3人を含む24名にて、6度の航海を経て日本に到着します。大宰府を経て平城京に着いたのが天平勝宝6年(754年)2月のことです。4月に東大寺大仏殿に臨設の戒壇を築き、正式に授戒の儀式が行なわれるようになりました。このときに、聖武天皇・光明皇后・孝鎌天皇・皇太子をはじめ、440余人が受戒しています。のちに、忍基などの学僧80余人も具足戒をうけ、僧には四分律を授け、僧の250戒、尼には348戒を定めています。

鑑真は日本の仏教は、いまだ大乗を教化する水準に達していないので、小乗的な戒律を授けましたが、翌年(755年)10月に「東大寺」の西に戒壇院を設けます。道璿は吉野の比蘇寺に隠棲しますが、弟子に「大安寺」の行表がおり、その弟子が最澄でした。鑑真の日本人の弟子に、道忠(738~783年~?)があり、最澄の学問を助けたといいます。

東大寺戒壇院の本尊は、法華経の多宝塔にして、大乗の萌芽を内示していました。聖武天皇は天平勝宝8年(756年)に没し、翌、天平宝字元年11月に備前国水田を賜り、ほかにも、平城右京5条の地を下賜され、鑑真は、ここに伽藍を建立することを発願し、天平宝字3年(759年)8月、「唐招提寺」と名付けました。

同4年に菩提遷那が没し、光明皇后も没します。同天平宝字5年(761年)には下野の「薬師寺」と、筑紫太宰府の「観世音寺」という、東西の地に戒壇が建立されました。東大寺とあわせて「天下の三戒壇」となります。僧となるためには、この「三戒壇」で登壇受戒を果たすこととなりました。同7年(763年)鑑真が没します。

 その後、翌、天平宝治8年(764年)に藤原仲麻呂の「恵美押勝の乱」があり、これに失敗して称徳天皇方の弓削道鏡が大臣禅師に任命されます。天平神護3年(767年)に最澄が生まれます。宝亀元年(770年)に百万塔陀羅尼を10大寺においています。この年に称徳天皇は没し、道鏡も2年後に「下野薬師寺」にて没します。翌年、良弁も没し、光仁天皇の統治(770~782年)は自然災害の対策と、道鏡失脚後の僧尼の戒律遵守を重んじ、つぎの、第50代桓武天皇へ引き継がれていきます。

 桓武天皇は天応元年(781年)に即位し、大同元年(806年)までの延暦年間24年を在位します。延暦4年(785年)4月、最澄は「東大寺」にて具足会をうけ、7月に「叡山」に草庵を構えます。9月に長岡京遷都建議者の藤原種継が暗殺され、桓武天皇は首謀者の大伴継人らを処刑し、この事件に早良親王が関与しているとして捕え、早良親王は無実を訴えながら、10月に流刑さきの淡路に向かう途中で餓死します。

延暦6年(787年)10月に長岡に遷都します。これは、天皇の母、高野新笠が百済王系のためともいいますが、奈良の仏教の旧弊と寺院勢力が肥大化していたため、これを改革するためといいます。しかし、長岡京の造営使である藤原種継が暗殺されていたことと、また、財政上の抑圧がありこの計画は中止となります。そこで、道鏡の反逆を防いだ和気清麿と子供の弘世の建議により、太秦に造営することになります。地相が悪い鬼門には比叡山があり最澄という青年僧が寺を建て、護国の修法をしていると桓武天皇に願文を添えて上伸しています。

これにより平安京に遷都することに計画がかわりました。太秦は秦氏の本拠地で、桓武天皇の皇后の縁続きに当っています。これは秦氏から財政上の援助を受けることができ、かつ、最澄の生家も秦族であり、「比叡山寺」の建立にも相応の援助があったのです。

 延暦13年(794年)10月22日に遷都した平安京は、左右の都を鎮護するため「東寺」と「西寺」が造られました。これは桓武天皇の政治も、仏教による鎮護国家を基本としていたことがわかります。また、飛鳥から奈良の平城京に遷都したときは、飛鳥の寺院は移転しましたが、桓武天皇は奈良の寺院をそのままにして、新たに寺院を建立して仏教界の革新を図りました。これより先の延暦8年(781年)に、造東大寺司を廃止したことにもうかがえます。  

ただし、このことにより、美術史上における天平時代が終わったといいます。また、「南都六宗」に封戸(ふこ)の没収という政策をしています。公文書は漢音を用いることを指令しており、これにより仏典の呉音を除いては、漢音が使用されるようになります。今日でも日常の表音に仏教用語に関した呉音が混じっています。

平安遷都は日本仏教における、最澄・空海の天台・真言の二大宗派へ推移する節目となります。桓武天皇が平安遷都をした動機のひとつは、孝謙女帝道鏡を寵愛し道鏡が天皇になろうとした事件にみられるように、朝廷の保護をうけ国家権力に結びついた、南都旧仏教界との隔絶をはかるためでした。

そこに、桓武天皇が南都仏教に対抗できる仏教として、最澄が入唐して新たに建てた「天台宗」と、空海が体得した「真言密教」を鎮護仏教として保護したのでした.