67.南都六宗について |
南都六宗は、はじめは「衆」と書いていたように、宗派として独立したものではなく、仏教の教義を相互に学び合う学派的存在でした。奈良時代の初期は三論宗が盛んであり、東大寺を中心に戒律がまもられ、学問が発達していくに従い法相宗が栄えていきました。 (南都六宗) 三論宗―慧灌――中論・十二門論・百論) 元興寺流――――智光ーーー元興寺 大安寺流――――道慈―――大安寺 東南院流――――聖宝―――東大寺東南院 成実宗―道蔵――成実論(三論宗の付宗) 法相宗―道昭――成唯識論掌中枢要 元興寺伝・南伝ーー元興寺 智鳳ーーーーーーーー興福寺伝・北寺伝ー興福寺・薬師寺 倶舎宗―道昭――説一切有部(法相宗の付宗) 華厳宗―良弁――華厳経――――――――――――東大寺 律 宗―鑑真――四分律――――――――――――唐招提寺 ・(三論宗) 三論宗は飛鳥時代の推古33年(625年)に、高句麗の慧灌が最初に日本に伝えています。これを第一伝といいます。慧灌は吉蔵に師事して三論の教えを学び、吉蔵没後2年目に高句麗の王の献上として日本に来ました。日本では勅命により元興寺にまねかれ、弟子に福亮と法隆寺の智蔵がいます。福亮は在俗のときに呉から日本に来た人で、在俗のとき日本で生まれた子供が智蔵でした。 智蔵は入唐し帰国してからは法隆寺に住して三論を説きます。これを第二伝といいます。そして、慧灌・智蔵に学んだ道慈は、養老2年(718)に唐より帰朝し、『金光明最勝経』をもたらし、大安寺に住して三論宗の第3伝となっています。 三論宗は大乗仏教の中核となる唯識派と並ぶ、二大流派の一つで中観派の系統です。経典を必要とせず、インドの竜樹(150~250頃)の『中論』『十二門論』と、弟子の提婆(170~270)の著した『百論』の三論書を基本として、大乗(般若)の空の思想を追及した宗派で空宗ともいいます。この三論を翻訳したのは鳩摩羅什(344~413)で、隋の嘉祥大師吉蔵(549~623)にいたって大成されました。元興寺流と大安寺流の2流があります。 教えは、真俗ニ諦・八不中道を立て、一切皆空を得ることを破邪顕正とします。教即観を特色とするので、本来からいえば一切衆生は仏としますが、現実には迷いがあるので、成仏においては利根と鈍根の違いをあげて遅速をのべます。 なを、智蔵の弟子に智光がおり三論を学んでいます。智光は学友の頼光が、阿弥陀仏の浄土に往生している夢を見て浄土信仰に入ります。その様子を描いたのが智光曼荼羅で、元興寺の極楽坊に所蔵されています。この浄土変相図に指摘できることは、観想の浄土信仰が存在していたということです。 ・(成実宗) 成実宗が基本とする『成実論』は、四諦や八正道を論じたインド小乗仏教の経量部系の論書です。訶梨跋摩(3~4世紀頃)の著作で、鳩摩羅什が翻訳し梁の国で発展していました。梁と交流があった百済の道蔵が来日して、『成実論疏』16巻を著述して伝えました。日本では三論宗の付宗として学問的に研鑽されていました。中国の天台や三論宗の吉蔵から小乗的と批判されたことで、唐代以降は中国でおとろえ、日本でも衰退しました。 その教義は、真俗の二諦を立て、世俗の俗諦は有、真諦は空と説き、俗諦においては諸法を五位八十四法に分類し、真諦においては実有を否定して一切皆空を説きます。真諦は四諦の中の滅諦で、仮名心、法心、空心の三種の心を滅することによって、涅槃を得られると説きます。これは小乗の説一切有部の教説に準じています。 ・(法相宗) インドの弥勒、無着の『摂大乗論』、世親の『唯識論』を淵源とし、唐の玄奘が戒賢から教えを受け、弟子の慈恩大師窺基(632~682年)が大成したといわれています。窺基は真諦訳の『成唯識論』の唯識説を批判し、新たに唯識説を立てています。 法相とは、森羅三千の万象である、諸法の性(真如)と相(現象)を分別する意味で、『成唯識論』を所依として万法唯識の本質を識と説きます。ここから「唯識宗」ともいわれます。窺基は法相を「五位百法」に分類して説いています。また、法相宗は「三乗思想」による宗派で、その根本思想になるのが「五性各別説」です。 慈恩大師は『成唯識論掌中枢要』(『正蔵』43巻610頁)において、衆生を五種に分類して「五性各別説」を立てます。これは、声聞、縁覚、菩薩の三乗に五種の種姓を立てるもので菩薩定性・独覚定性・声聞定性・不定性・無性有情の五つをいいます。このうち成仏できるのは、菩薩定性と不定性の一部分のみで、最終的には仏の知見によらなければ知ることはできないとします。 つまり、この五性のなかの、定性の声聞と縁覚は、無余涅槃に至り灰身滅智して阿羅漢になり、同じく定性の菩薩は、自利利他して大菩提という仏になるとします。声聞・縁覚・菩薩のうち、二種類以上の組み合わせを持つ不定性のもの者のなかで、菩薩の種子を持つ者は仏になれるとします。五番目の無性有情の者は、悟りを得ることができる無漏種子がなく、煩悩だけの有漏種子しかもたない闡提の者とします。闡提である無性有情の者は悟ることは永遠にできないとして区別し、これを「五性格別」といいます。 日本には摂論宗(無着の『摂大乗論』)として伝わり、法隆寺の唯識を法性宗とよび区別されていました。道昭が玄奘に学び元興寺に伝えたのが第一伝です。第二伝は智通・智達で、第三伝に玄昉がいます。玄昉は経論5048巻を興福寺にもたらしています。これより法相宗は、元興寺や藤原氏の氏寺である興福寺を中心として、奈良時代最大の宗派となり平安時代にも勢力を持続していました。 のちの最澄と徳一との三一権実論争は、この法相宗と天台宗の論争とでありました。日蓮聖人の法相宗理解は、 「法相宗はもと、権大乗経のなかの浅近の迹門にてありけるが、次第に増長して権実と並び結局は、かの宗々を打ち破らんと存せり。譬ば日本国の将軍将門・純友のごとし。下にいて上を破る」(『本尊問答抄』1581頁) 「此宗ノ云ク、始メ華厳経より終リ法華涅槃経にいたるまで、無性有情と決定性の二乗は永く仏になるからず。」(『開目抄』553頁) 「此宗ノ所詮云、或は一乗方便三乗真実。又云、五性各別、決定性ト無性ノ有情ハ永不成仏 等云々」『随自意御書』(1613頁、真蹟大石寺) と、法相宗は権教であり、一乗方便三乗真実の「三乗思想」と、無性有情と決定性の二乗は成仏できないという、「五性各別」をあげ、法華経の「二乗作仏」と対比していきます。 ・(倶舎宗) 倶舎とは容れ物(蔵)ということで、倶舎宗は世親の『阿毘達磨倶舎論』を学びます。つまり、阿毘達磨の教理(『大毘婆沙論』)の全てがこの中に収納されているとして、ここから、小乗の一切有部の教義を研究します。 根本教理は三世実有・法体恒有で、諸法の実相は実在として、法相宗と同じく色法、心法、心所有体、不相応法、無為法の五位に分け、それを七十五法に細別した「五位七十五法」によって輪廻を説きます。四諦の教えに従って煩悩を断尽し、無余涅槃に到達する実践を説きます。 インドにおいては仏教教理学の必修科目であり、中国においても摂論学派と、法相唯識学派の学僧において研究され、重要な注疏がつくられています。日本においては、元興寺の道昭が帰朝のときに、『倶舎論』 および注疏を招来したといいます。一学派の成立ではなく、法相宗の予備学問の一つとした付宗となっています。 ・(華厳宗) 華厳宗は『華厳経』をもととして、唐の道璿が伝えていますが、新羅の審祥(?~742年)が、天平8年(736年)に来日したときに伝えられたとされています。日蓮聖人の華厳宗理解は、『本尊問答抄』に、 「華厳宗もまた、権大乗といいながら余宗にまされり。譬ば摂政関白のごとし。然而(しかるに)法華経を敵となして立てたる宗なる故に、臣下の身をもって大王に順ぜじとするがごとし」(1581頁) と、大乗ではあるが法華経には及ばないとのべています。 中国における華厳宗の第一祖は、杜順(法順558~640年)、第二祖は智儼(602~668年)、三祖は法蔵(賢首大師643~712年)です。法蔵は『華厳五教章』を作り華厳宗の教学を確立しました。四祖は澄観(738~839年)で清涼国師といい、荊渓湛然より天台の『摩訶止観』や、『法華経』・『維摩経』などを学び、『華厳経疏』を作りました。第5祖は宗密(780年-839年)と相承されています。 澄観は諸宗との融和的立場をとり、禅宗とは「教禅和合」を唱え、天台からは「性悪」・「一心三観」・「一念三千」を取り入れています。華厳教学の「事事無礙」よりは「理事無礙」を立て華厳経第一としています。これについて、日蓮聖人は『聖密房御書』に、つぎのようにのべています。 「華厳宗は天台已前には南北の諸師、華厳経は法華経に勝たりとは申けれども、華厳宗の名は候はず。唐の代に高宗の后則天皇后と申人の御時、法蔵法師・澄観なんど申人、華厳宗の名を立たり。此宗は教相に五教を立、観門には十玄六相なんど申法門なり。をびただしきやうにみへたりしかども、澄観は天台をは(破)するやうにて、なを天台の一念三千の法門をかり(借)とりて、我経の心如工画師の文の心とす。これは華厳宗は天台に落たりというべきか。又一念三千の法門を盜とりたりというべきか。澄観は持戒の人、大小の戒を一塵をもやぶらざれども、一念三千の法門をばぬすみとれり。よくよく口伝あるべし」(821頁) 審祥は中国華厳の第三祖、香象大師法蔵(643~712年)について修学した門下で、大安寺に住していました。金鐘寺(のちの東大寺)の開山、良弁の招きを受けた審祥は、『華厳経』・『梵網経』にもとづく講義を行い、天平12年(740年)に、聖武天皇の命により、金鐘寺においてはじめて『華厳経』を講義しています。天平15年(743年)10月に、『華厳経』の教主である、毘盧遮那仏(奈良の大仏)造立の発願がなされました。華厳宗の第2祖は法相の智鳳の弟子でもある良弁がなり、東大寺の初代の別当となっています。 華厳宗は東大寺を中心として『華厳経』が学ばれていき、菩薩の修行の階梯を説いた「十地品」と、善財童子の遍歴を描いた「入法界品」が有名です。華厳宗の本尊は毘盧遮那仏で、東大寺の大仏も『華厳経』の教主である毘盧舎那仏です。 華厳宗の教えは、四種法界・十玄六相を説き、観法として「事事無礙重重無尽」「事事無礙円融」の法界縁起に帰結して、自証成仏を目標とします。つまり、諸法の現象は次々と関係しあうことを「重重無尽」といい、それが相互して他をも包摂し関連していくことを「相即相入」といい、華厳宗は現象と現象との関係を重重無尽、そして、相即相入の関係で説明するのが特徴です。 しかし、事事無礙の法界を廬舎那仏の悟りとしたため、成仏論においては本来成仏・自証成仏となり、修行の目的や目標とする面に欠如があるといいます。 ・(律宗) 律宗は経・律・論の三蔵のうち、律蔵について学ぶ学問です。小乗律は漢訳に四十五部あり、律宗はその中の四分律による四分律宗といえます。律は止悪門と作善門とに分けられ、止悪門は不殺生を主とし、作善門は受戒、布薩、安居などの行事や儀式を行います。そして止悪・作善二門の小乗律を行なうことに意義を認めます。 さきにのべたように、最初に道光が入唐して戒律を学び帰朝しますが、「登壇受戒」にはいたらず、これを成立させるために鑑真が日本に招かれました。したがって、律宗の伝来は天平勝宝六年(754年)に来朝した、鑑真(687~763年)を始とします。 日蓮聖人の律宗理解は、『本尊問答抄』に、 「律宗はもとは小乗、中頃は権大乗、今は一向に大乗宗と思えり。また、伝教大師の律宗あり。別に習うことなり」(1581頁) と、律宗はのちに大乗経のなかに取り入れられていきます。これは僧侶の粛清を律するためですが、日蓮聖人のときには良観の真言律宗として継承されていきます。 ・(南都仏教から平安仏教) 日蓮聖人は鑑真について、律宗のほかに天台宗を伝えた法華経の先鞭者としても受けとめています。この理由は鑑真が、『法華経』と天台の『三大部』を招来したことに、大きな功績を認めているからです。もし、日本の仏教受容の時と機根が熟していたなら、鑑真は『法華経』を伝えたとみるからです。『下山御消息』に、 「漢土より我朝に法華経、天台宗を渡給て有りしが、円機未熟とやをぼしけん、此の法門をば己心に収めて口にも出し給はず。(中略)小乗戒、日本国三所に建立せり。此偏に法華宗の流布すべき方便也」(1314頁) と、円機未熟のために法華経を広めず、小乗界を建立して法華経流布の礎としたとのべています。 鑑真に随行した弟子は、法進・如宝・法載・思託など35人を数えたといいます。このなかの法進は日本語に熟達して、『梵網経』の註釈疏などを著述しています。とくに、最澄が法進を天台宗の附法系統に入れているように、『天台三大部』を4回にわたって講じており、日本における天台教学の先駆者となっています。鑑真とその弟子の講義は、最澄に影響を与えたことがうかがえます。 また、鑑真にならんで行基のことを、『神国王御書』に、 「日本国の行基菩薩と鑑真和尚との法華経の義を知給て弘通なかりし」(887頁) と、二人はともに法華経の勝れたことを知っていたが、時機未熟のゆえに別な教化をもって、法華経流布の基盤を作ったとうけとめています。 行基(668~749)は鑑真と同時期の僧で、道昭の弟子といわれ、入唐して玄奘に師事し経論をもって帰国しています。帰国後は弟子を養育し、墾田開発や社会事業に貢献し、聖武天皇と会見し東大寺の大仏造像の勧進に起用されています。 以上、南都六宗について一瞥してきました。ここで、時代をすすめて最澄と南都六宗についての関係を、日蓮聖人の御遺文にうかがってみます。 まず、南都六宗が最澄によって破折され、七大寺の碩学が帰伏状を書いています。このことについて『報恩抄』に、 「七大寺六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。而を去延暦二十一年正月十九日に、天王高雄寺に行幸、七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等十有余人を召合す。華厳・三論・法相等の人々各々我宗の元祖が義にたがはず。最澄上人は六宗の人々の所立一々牒を取て、本経本論並に諸経諸論に指合せてせめしかば、一言も答えず、口をして鼻のごとくになりぬ。天皇をどろき給て、委細に御たづねありて、重て勅宣下て、十四人をせめ給しかば、承伏の謝表を奉たり。其書云 七箇大寺六宗学匠乃至初悟至極等[云云]。又云自聖徳弘化以降于今二百余年之間 所講経論其数多矣。彼此争理其疑未解。而此最妙円宗猶未闡揚等[云云]。又云 三論法相久年之諍渙焉氷 解 照然 既明 猶披雲霧而見三光矣[云云]。最澄和尚十四人が義を判云 各講 一軸振法鼓於深壑 賓主徘徊三乗之路 飛義旗於高峰。長幼摧 破三有之結 猶未改歴劫之轍 混白牛於門外。豈善昇初発之位 悟阿荼於宅内等[云云]。弘世・真綱二人臣下云 霊山之妙法聞於南岳総持妙悟闢於天台慨一乗之権滞悲三諦之未顕等[云云]。又十四人云 善議等 牽 逢休運乃閲奇詞。自非深期何託聖世哉等[云云]。此十四人は華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑑真等の、漢土日本元祖等の法門、瓶はかはれども水は一也。而に十四人彼邪義をすてて、伝教法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人か華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申べきや。小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。大乗の三宗破ぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。而を今に子細を知ざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるがゆへに、天には日月なし、空に声なしとをもうがごとし」(1208頁) と、日蓮聖人は最澄の法華教学により、南都六宗はすでに天台宗に帰伏していると理解しています。どうじに、最澄いぜんには法華経の「御心いまだ顕れざるか」(1837頁)とのべているように、最澄により法華経が宣顕されたとし、ここに法華経の行者としての最澄をとらえていくのです。 南都七大寺とは、東大寺・興福寺(厩坂寺)・薬師寺・元興寺・大安寺(大官大寺)・西大寺・法隆寺、これに平城京の範囲として広げると、唐招提寺を含む場合があります。これら飛鳥地方に建てられた古い寺院のなかで、平城京遷都に従って移転したのは、法興寺(元興寺)・薬師寺・興福寺・大安寺です。 これらの南都仏教は、推古朝までは朝鮮から仏教が伝えられ、遣隋使や遣唐使が派遣されることにより、中国からの仏教が伝えられるようになります。学派仏教といわれるように、中国で発達した経論の解釈に重点がおかれ、学問仏教として展開されていきました。 その後、聖武天皇の「国分寺造立の詔」(天平13年3月24日条。741年)にみられるように、護国のための寺院が各国に建立され、東大寺の建立と、大仏開眼の事業が、奈良仏教の特徴となります。しかし、国分寺や国分尼寺を建立し護国を祈らせても、災害や飢饉などに効験はなかったようです。こうした寺院による国家への経済的な圧迫と、これに付随して民衆も貧窮化し、自然災害やさらに疫病に悩まされたことから、国分寺の創建という国家的な事業は、経済的にも護国的にも無益な事業といわれることになりました。 また、この奈良時代(710~784年)は7代74年の時を経て、鎮護仏教としての仏教界は政治権力と結びつき、僧侶の戒律の乱れが問題となりました。この間に統治した7代の天皇のうち、元明・元正・孝謙・称徳(孝謙重祚)の4代が女帝というのも特徴です。 つづく長岡京(784~794年)に遷都したのは、孝謙天皇と道鏡の事件などにみられるように、これら既存の仏教界や貴族の勢力から距離をおくためでもありました。しかし、造長岡宮使の種継が暗殺されたことにより、都造りに変更がなされていきます。この、首謀者のなかに東大寺にかかわる役人が複数いたのです。そして、桓武天皇の皇太弟、早良天王もこの反逆にかかわっていたとして配流され、これが祟りとして恐れられます。 このような背景のなかに新たな仏教の展開が、平安時代(794~1185年頃)の遷都とともに、最澄(767~822)と、空海(774~835)によって樹立されたのです。 これにより、南都仏教は天台宗・真言師の影響をうけ、世俗の現世利益信仰が拍車をかけて、真言密教化していく傾向になります。さらに、浄土教や禅の流行を伴って鎌倉仏教へ発展していきます。 さて、そのまえに、平安時代における南都仏教について概観して、新たな最澄・空海の平安仏教にすすみたいと思います。 桓武天皇が平安遷都をしますと、天皇の政策にしたがい、南都仏教の様相も大きく変わります。宗派として勢力を持っていたのは法相宗です。元興寺(南寺伝)の護命(750~834年)は、僧綱として最澄の戒壇建立に反対しています 法相宗の興福寺(北寺伝)には、玄昉の弟子の善珠(739~797年)や、義淵の系統に最澄と問答を起こした徳一がいます。のちに、仲算(935~967年)が、応和宗論(963年)で『法華経』の「無一不成仏」の解釈をめぐる論争をします。この法相宗の興福寺も平安前半期から真言密教化していきます。これは、学問仏教にたいする疲弊と、儀礼・修行の方途の乏しさと、当時の流行である加持祈祷という、現世利益の要求に機能しなかったからです。 これに対し、三論宗の大安寺の勤操(754~827年)や、西大寺の玄叡がおり、勤操の弟子の願暁(?~874年)は密教を学び、その弟子の聖宝(832~909年)も高野山の真言僧となります。密教の修法が時代に要求されたとはいえ、三論宗は「顕密兼修」となり平安末期には密教に吸収されることになります。 律宗は比叡山に戒壇が建立されることにより、東大寺で具足戒を受け、唐招提寺で戒律を学ぶという規制が要をなさなくなり衰微していきます。 華厳宗には良弁の多くの弟子がいましたが、東大寺に真言院が建ち、また、三論の聖宝による東南院が興されて三論真言の兼修の場となり、東大寺は密教の色彩が強くなります。このように、華厳宗として頂点に立つ東大寺は、平安期に興福寺の傘下に入り真言密教化していきます。 これらの寺の中には律令制の崩壊により、経済的に困窮していきました。とくに、大安寺・元興寺・東大寺・唐招提寺などで、このことにより宗教活動は密教の祈祷や修法をする方向に進み、貴族の子弟が門跡や別当に迎えられるようになり、南都仏教の法相や三論の学問は形骸化していきました。 また、民衆の信仰においても、それまでの国家仏教から個人救済の仏教へと転回します。その最大の理由は個々人の祈願を叶える密教の修法にありました。氏族の繁栄や個人の病気平癒など、様々な欲求を呪術によって可能とする密教が台頭したためです。奈良時代に流行った薬師信仰や弥勒信仰は浄土教や修験道のなかに吸収されていきます。 同じ奈良時代から信仰されていた観音信仰は全国的に広がっていきます。薬師寺景戒が著した、日本最古の仏教説話集である『日本霊異記』(822年ころ)に見られる観音では、十一面観音や千手観音が多く挙げられ、如意輪・不空羂索が見られます。『法華経』のなかに説かれた観世音菩薩は、33身に示現して衆生の災厄を払い福徳を授けると説かれています。平安末期にはこの33身の救済にちなんで、西国33ヶ所、坂東・秩父の33ヶ所霊場として、密教に取り入れられて盛んになっていきます。 奈良時代に日本の神道と習合した熊野権現は、平安時代になると本地垂迹説の影響を受け、本宮の本地は阿弥陀、新宮の本地は観音とし補陀落浄土として受容され、修験道と結合し厳しい山林信仰として展開します。 修験道は抖擻(とそう、斗藪)といって頭陀を修行の根本としています。山林に入り樹木の下や洞窟を住処とし、粗末な衣服に身を包み木の実など山菜を食べて修行します。また、山には死者の霊が集まる他界であり、死後の世界として観念されます。この他界に遍歴することは罪や穢れを払い、身心を清浄にして行力がつくと考えます。そのために滝行・断食・読経などをし、そして験力・呪力を養い、験者(げんざ)となって衆生救済をすることを目的とします。 |
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