68.最澄と大乗戒壇         高橋俊隆

最澄(767または766~822年)は『法華経』を根本経典として天台宗を開き、それまでの小乗戒を排し、梵明経に示す大乗戒(十重四十八軽戒)だけによる、受戒僧を擁立することを朝廷に要請します。そして、この受戒僧を菩薩の国宝とよび、これにより、『仁王経』などに説く、七難の災厄から逃れるという護国を願望しました。この願望は最澄の没後七日目に許可があり、翌年、義真によって大乗戒壇が実現しました。

日蓮聖人の日本仏教の歴史は最澄の前後に集中しているといわれます(『日蓮の描く日本仏教史』佐々木馨『仏教の歴史と文化』所収617頁)。欽明期における初期の日本仏教から発展してきた南都仏教を整理し、天台宗に帰一したのは最澄であり、その最澄の教理を把握すれば、充分に奈良期の仏教を掌握することができたのです。それゆえに、最澄の法華教学を学ぶことを肝心とし集中的に研鑽されたのでした。

最澄の『伝記』は、弟子の仁忠が書いた『叡山大師伝』と、光定が書いた『一心戒文』に記されており、各宗の祖師伝に見られない確実性があります。最澄は近江国、現在の滋賀県大津市坂本本町(滋賀郡古市郷)に生まれました。父親は渡来系の豪族で三津首百枝(みつのおびとももえ)といい、祖先は後漢の孝献帝の末裔、登万貴王が応神天皇(270~310年)の御代に、一族と共に帰化し、近江国滋賀の地を与えられ姓を三津首と賜ったといいます。母は河辺左大臣魚名の孫で、中務小輔鷲取の娘藤原藤子です。夫妻に子供ができないので比叡の山に庵を建て7日を限って悔過の行をしたところ、4日目に奇瑞を得たので山を降り生まれたのが最澄でした。

幼名は広野(ひろの)といい神童の誉れが高く、12歳のときに近江国分寺の国師で、三論の学匠である行表のもとで出家し国分寺に入ります。14歳の11月12日に、国分寺僧最寂の死去により欠員補充として得度し、『法華経』・『金光明最勝王経』・『薬師経』・『金剛般若経』などの、読誦試験に合格して最澄と名乗りました。

行表(722~797年)は、唐からの渡来僧道璿(702~760年)の弟子で、奈良の大安寺に住し、法相・律・華厳・禅を修学し778年に国師に任じられていました。南都六宗において一乗を立てるのは華厳宗で、三乗をたてるのは法相宗でした。行表は一乗仏教を立てたので、最澄は華厳教学を習得したといいます。また、華厳教学を学ぶなかで天台教学にふれ『法華三大部』を書写したといいます。

延暦4年(785年)19歳のときに官僧となり、4月6日に奈良東大寺の戒壇院で具足戒を受けて比丘僧となります。3ヶ月ほど大安寺に滞在していましたが、近江国の国分寺が焼失し欠員が出たため急ぎ帰国します。国分寺が焼失していたので最澄の身分所属が定まりませんでした。それを幸いとして、同年7月中旬に比叡山に草庵を結びます。この場所は両親が祈願を込めたところで、今の神宮禅院にあたります。ここで両親が不足していた日数の悔過をして補欠をしたのです。4、5日して香炉の中から仏舎利一個と香合が出てくるという奇瑞があり、最澄はこのことにより比叡の山奥の良所を探し求め仏堂を建立します。そして、悟りを開くまでは下界との縁を断って修行に励むことを誓います。

このころ、『大師伝』に全て伝えられている「願文」を書き5つの誓願を立てています。3年後の延暦7年(788年)に薬師如来を本尊として一乗止観院を建て、今日の根本中道になりました。火を鑚(き)り出して薬師如来にささげたのが、根本中堂の内陣に格護されている不滅の法灯のはじまりといいます。これは、「百千の灯明、罪を懺悔す」『菩薩蔵経』ということから、灯明を捧げる功徳は懺悔滅罪があり、世の安穏を祈る意味を持っています。これが、万灯会あるいは千灯会の法衣会の根拠になっています。

比叡山の法灯は元亀2年(1571年)に織田信長の焼き討ちで途絶えましたが、立石寺に分灯されていた火をうつして続灯されました。これより12年の間、山岳修行に専心し座禅行を修め、経論の典籍を読破して学を深めました。

そして、延暦16年(797年)12月10日、31歳で和気氏の推薦により、内供奉十禅師に補任され、近江の正税を比叡山寺に賜うことになります。このことは仏教界における高徳の僧として認められたことであり、宮中にて天皇の安泰と助言をするまでの地位を得たことになります。最澄にとっては比叡山での自行を満じて化他に転じる始となることでした。、

翌、延暦17年、32歳の最澄は天台大師の忌日11月24日に、南都七大寺の大徳10人を比叡山に招いて法華十講を始めます。法華十講とは、『法華三部』の10巻を講義する法会で、10名の大徳に各巻の、『法華経』の講義をしていただいたのです。最澄は華厳教学の章疏をはじめ、賢首大師法蔵の著した『大乗起信論義記』などの研究をへて、とくに、鑑真和尚の招来した天台大師の『三大部』を研鑽することにより、法華一乗の教えに傾倒するようになりました。

天台大師の『三大部』は、それ以前における『法華経』の注釈とは異なるものでした。たとえば聖徳太子の『法華義疏』は、涅槃宗の光宅寺法雲の『法華経』の解釈を参考にしたものであり、三論宗は嘉祥大師窺基の注釈を参考にして『法華経』の解釈をするものでした。純粋に『法華経』を一宗として解釈したのは天台大師であったのです。最澄は天台大師の『法華経』を最勝とする思想を継承する立場をとりました。この自身の理解を確認するための法華十講でありました。さらに、延暦20年に、南都七大寺の大徳10人を比叡山に招き、各宗からみた『法華経』の講義をおこない慎重性を期しています。これは南都仏教からの離脱を意識していた為といえましょう。

その翌年36歳の時に、桓武天皇の宗教政策の補佐役であった和気弘世が願主となり、高雄山寺(神護寺)において、南都の高僧14人を招いて半年間にわたって天台大師の『三大部』の講義をしました。この高雄講経で南都仏教界を代表していた、三論宗の善議と勤操が、桓武天皇に謝表を奉って天台宗に屈服しています。

また、北九州・下野上野・北関東などにも教線をのばしています。高雄山寺での講義が機縁となって、桓武天皇は天台宗を師範とすることを和気に伝えます。また、最澄はこれを機に入唐求法の上奏文を朝廷に申し出、還学生として天台大師の法門を学ぶことを許可されます。還学生は学問を習得したら、本人の意思でいつでも帰国でき、書写生も国が費用を賄うという特別な待遇でした。

最澄は遣唐大使、藤原葛野麻呂(かどのまろ)の一行と、延暦22年(803年)4月に難波から出発しますが、瀬戸内海で難破し九州に渡ります。翌23年(804年)7月第16次遣唐使船四隻で再度出航します。最澄は1年間の還学生として、初代の天台座主になった弟子の義真を通訳として第2船にて渡航します。第1船には空海が20年間の留学生として乗船していました。橘逸勢も渡航しています。4隻のうち3船と4船は難破して行方不明になり、最澄は54日をかけて、8月の末に現在の浙江省寧波(明州)に到着します。空海は南方の福州(福県省)に漂着しました。

最澄は9月26日に、約160㌔歩いて渡唐の目的地である、天台山国清寺に向かいます。台州刺史陸淳の厚意をうけて天台山に登ります。始に天台山の南麓、台州(臨海)の龍興寺で、妙楽の弟子である中国天台宗第7世の、修善寺道邃和尚から天台円教を学び、円頓菩薩戒を授かります。天台山では仏隴寺行満座主から法華円教を習い、80余巻の典籍を授かります。また、禅林寺翛然(しゅくねん)から、南宋禅(牛頭禅)を相承しました。

再度、台州に戻って道邃から大乗菩薩戒(梵網菩薩戒)を受けます。そして、帰路の越州(紹興)では、霊厳寺・龍興寺で順暁阿闍梨から、真言密教両部の灌頂を受けました。3月2日、最澄と義真は円教菩薩戒を受け、この受戒が比叡山における、法華経を主体とした円頓菩薩戒の根拠となります。

8ヶ月半の滞在で円・禅・戒・密の四宗を相承し、『伝教大師請来目録』には230部460巻(103部253巻といいます)、天台の典籍は102部240巻、密教関係の経論102部150巻など、天台・密教などの多くの典籍を取得します。最澄は遣唐使としての責務を全うし、念願である天台大師の解釈した法華経の教義(『摩訶止観』)を確認し、日本での目的である法華経宣布の確信をえて、翌、延暦24年(805年)6月8日に帰国しました。

博多に帰朝した最澄は、6月下旬に入京し7月4日に帰朝復命のため、桓武天皇の勅令により高雄山寺で帰朝報告をし、南都の勤操ら大徳8人に伝法灌頂を修しました。帰朝とうじ桓武天皇は病床にあり宮中にて病気平癒の修法をしています。

桓武天皇より宗派を開いて王法を翼賛せよという内意があり、延暦25年(大同元年、806年)1月6日、最澄の上表により、同年1月26日に南都仏教界の僧綱の賛同をえて、

天台業2人(止観1人、遮那業1人)の年分度者を許可されます。これは南都六宗に準じるもので、ここに、円禅密戒の四宗合一の「天台法華宗」が承認されたのです。

しかし、この年の3月17日に桓武天皇が崩御(70歳)され、同年、空海が帰朝して10月に『請来目録』を著し、弘仁元年(810年)嵯峨天皇に重用されると、しだいに空海の密教に関心が移っていき、最澄は苦難の時代に入っていきます。

その一つの理由は、南都仏教との論争にありました。のちの、弘仁4年(813年)に著した『依憑天台宗』は、この批判に対処したものでした。このなかに説いた慈恩の『唯識枢要』破折が、法相宗と「三一権実」の論争となり、その結論である大乗戒壇独立の問題に終始することになったことです。論争となったのは「三一権実論」と「大乗戒壇論」の二点でした。

 最澄は、帰朝した空海を入京させるために尽力をし、帰朝した空海から真言・悉曇(梵字)・華厳の典籍を借りています。弘仁3年(812年)5月に、弟子の泰範(778年生)を比叡山の別当兼文書司に任命しますが、叡山衆徒の内紛を惹き起し近江の高島に隠精していました。最澄は同年12月に、この弟子の泰範と、円澄・光定らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂を受けます。翌年1月から3月まで、泰範、円澄、光定を空海のもとで密教を学ばせます。泰範のみは空海に師事し比叡山にはもどりませんでした。

11月に、『理趣釈経』の借用を依頼しますが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」と拒絶し、弘仁7年(816年)の初頭いごの交流は途絶えます。のちに、泰範は実恵・杲隣・智泉とともに空海の四大弟子となり、東寺定額僧の上首となっています。空海との決別は、この『理趣釈経』の借覧要請を拒絶され、弟子の泰範が空海の弟子となったことが原因とされてきましたが、近年は法華一乗の立場から密厳一乗を唱える空海との、教理的なことが原因と考えられています。

最澄は弘仁5年の春に、筑前の竃門山寺、豊前の宇佐・香春の両神宮寺を行化し、翌6年8月に和気氏の請により大安寺塔中院にて『法華経』を講じます。同8年春には関東に巡化し、上野国緑野(みとの)郡の浄土院と、下野国芳賀郡の大慈院に宝塔各一級を造立しています。このときに鑑真の弟子、故道忠禅師の門徒たちが外護したといいます。東西への教化活動は天台宗の基盤となります。この関東における行化が、奥州会津の徳一との論争に発展します。

最澄の業績としては、法相宗の徳一(760?~835?年)との「三一権実諍論」が有名です。徳一は奈良時代に権威を振るった、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子(11男)と鎌倉時代には伝えられていました。徳一は東大寺の修円などについて学問をした、法相宗の僧と考えられています。空海が弘仁6年(815年)に、弟子の康守を東国に使わしたおりに、香を添えて徳一宛に書簡を出しています。ここには、新しい真言の書籍を写し真言を広めることを依頼しています。徳一はこれに対し、『真言未決文』を著して、真言宗に対する11の疑問を挙げています。慧日寺に徳一廟があり、徳一が開創したといわれるのは、福島県の慧日寺・勝常寺、いばらき県の中禅寺など70ヶ寺があります。

徳一は『仏性抄』を著述して法相宗の立場から『法華経』を権教としました。また、徳一は「三乗」が真実の教えとして、「五性各別」の立場から、菩薩定性と不定性のなかの、有漏種子を持っている者に限ると主張します。これを「三乗真実一乗方便」といいます。

これにたいし、最澄は弘仁8年(817年)2月に、『照権実鏡』を著して反論し、つづいて、弘仁9年に『守護国界章』9巻を著して、天台の教判から法相宗の経典は方便権経であるとし、法華経を真実とする一乗思想をもって反論しています。これを「一乗真実三乗方便」といいます。

これは、『法華経』の「唯有一乗法無二亦無三」の「一乗」の解釈、および、譬喩品の「三車火宅」に譬えた声聞・縁覚・菩薩の「三乗」をどのように解釈するかという相違で、法相宗は「三乗」をそれぞれ独立させる「三車家」の立場をとり、天台宗では三通りの乗があるのではなく、この「三乗」のほかに唯一つあると解釈するので「四車家」を主張します。法相宗は『解深密経』を所依の経典とし、ここには菩薩乗を説いていますが仏乗は説いていません。これに対し、最澄は『法華経』の説示から「三乗」を方便として「一仏乗」を説きます。

したがって、成仏論においては、『法華経』の「一切皆成」・「悉有仏性」と、法相宗の「五性各別」の成仏とは大きな相違があります。この点において「悉有仏性」の立場から全ての成仏を説く『法華経』を、不定種性を誘因するための方便経であるとしなければならない理由がありました。これは無性有情の成仏を認めるか否かの相違で、徳一は無漏種子の有無によって判断する「約種説」をとり、最澄は無性の者でも時期がくれば成仏するという「約位説」をとっています。また、この徳一との論争の中心は、果分への直入という「即身成仏論」にあります。末法に近い時期と衆生の仏道に対する機根が熟しているとの立場から、迂廻道や歴劫道という長い時間をかけた修行よりも、即時に目的の成仏が可能な大直道を説きました。

最澄は弘仁11年(820年)に、南都仏教の小乗戒に対して、比叡山の大乗菩薩戒を論じた『顕戒論』3巻を著します。ここには僧俗にわたる大乗の普遍性と成仏の論理が示されており、これが最澄教学と日本天台宗成立の基礎となりました。そして、最澄は入寂の前年、弘仁12年(821年)に、徳一との論争の見解を『法華秀句』3巻に著しました。内容は「法華十勝」を論じたものですが、この論争の決着がつく前に最澄も徳一も死去してしまい、最澄の弟子たちが徳一の立論は論破したと宣言して打ち切られています。

日蓮聖人は『秀句十勝抄』として要文を抜粋し注記をしています。浅井円道先生は、権実論の把握は「三一権実諍論」が基本になっていることから、日蓮聖人は最澄の段階で権実論は決していると判断しています。

日蓮聖人は『撰時抄』(1037頁)に、

「日本の得一が云、天台大師は深密経の三時教をやぶる、三寸の舌をもつて五尺の身をたつべしとのゝしりしを、伝教大師此をただして云、深密経は唐の始、玄奘三蔵これをわたす。天台は陳隋の人、智者御入滅の後、数箇年あつて解深密経わたれり。死して已後にわたれる経をばいかでか破給べきとせめさせ給て候しかば、得一はつまるのみならず、舌八にさけて死候ぬ」

と、徳一との論断の内容の一部と、徳一の邪見により頭破七分に似た、舌裂八分して堕獄死したことをあげています。

最澄はこれらの南都六宗と、徳一との煩瑣のなかにあって、もっとも願望としたのは「大乗戒壇」の建立でした。最澄は法華一乗を宣布するために、「大乗戒壇」を設立し四宗を兼学することを奨励しました。

そして、12年の籠山行の教育をして、国師を養成しようとした規律が『山家学生式』です。山家とは天台宗比叡山のことをいい、ここで学業を行なう者の規則を定めたものです。『山家学生式』は、弘仁9年(818年)5月に、嵯峨天皇に上奏された『天台法華宗年分学生式』(『六条式』)、同年8月の『勧奨天台宗年分学生式』(『八条式』)に、翌年3月に奏上された『天台法華宗年分度者回小向大式』(四条式)の三つを総称したものです。

この目的は、これまでの小乗戒壇を廃して、比叡山に「大乗戒壇」を設立することでした。僧侶になるためには具足戒を受ける必要があり、当時は奈良東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の三箇所にしか、受戒の場がありませんでした。最澄は『六条式』のなかで、新たに比叡山に戒壇を建立し、天台宗の年分度者を「大乗円頓戒」で受けることができることを求めました。この受戒した僧は12年の籠山行をするなど、籠山中の修学の仕方や籠山後の処遇を規定したのが六条式で、経済面などを規定した八条式、寺院のありかたや受戒の仕方の違いを規定した四条式の規則を設けたのでした。そして、『仁王経』に説かれた百名の法師を養成することによる護国の実現を目差しました。

 比叡山に戒壇を建立することは、年分度者2名の官僧を比叡山に留めて置くことになります。この2名の年分度者には、それぞれ天台止観業と真言遮那業を課していましたが、東大寺の戒壇院で受戒し小乗戒を修めるために、南都に滞在しなけれなりませんでした。年分度者はそのまま法相宗の興福寺などに滞留して、比叡山に戻らない者が続出した現実がありました。

去る、延暦25年(大同元年、806年)に年分度者が許可され、それから12年間で24人のうち、比叡山に帰山した者は10人だったといいます。戻らなかった14人のうち、8人が遮那業の度者でした。最澄にとって桓武天皇の死去は大きな痛手であり、それに比して嵯峨天皇の帰依を得た真言宗空海は台頭し、最愛の弟子といわれた泰範も空海に没頭し、比叡山には帰らなかったように、最澄は教団の維持においても深刻な問題を抱えていたのです。

最澄が『山家学生式』を制定して、比叡山に円頓界による「大乗戒壇」を設立すべく請願しますが、比叡山に「大乗戒壇」を建立することを南都の僧綱が許すわけはありません。元来、法相宗の興福寺や華厳宗の東大寺、そして、三論宗の元興寺は大乗であるので、大小乗戒壇において勝劣を論じるのは自語相違になる危険性がありました。そこで、反対する理由を受戒の内容や僧尼令に違反するという名目にもっていったのです。そうしなければ東大寺戒壇での受戒の必要がなくなり、僧綱の得度許可を掌握してきた支配権を失うことになるからです。また、国家としても律令体制のなかで、治部省玄蕃寮の管轄下にある僧綱制度を、新たな制度を作りかえることは慎重を要することでした。そこで、弘仁10年(819年)5月、護命らは連署四手これを阻止すべく上表します。

これにたいし、最澄は弘仁11年(820年)2月に、『顕戒論』を上呈して僧綱の説に反論しましたが、朝廷からの勅許は得られませんでした。そして、弘仁13年(822年)5月15日、56(57)歳にて一宗を義真に付し、6月4日に没しました。没後、弟子の光定の奔走と、藤原冬継による嵯峨天皇への尽力により、最澄の没後、7日目の6月11日に大乗戒壇の設立が許可され、翌年2月26日に、一乗止観院に延暦寺の寺号を賜りました。

日蓮聖人は『行敏訴状御会通』に、

「日本国去聖武皇帝与孝謙天皇御宇小乗戒壇建立三所。其後桓武御宇伝教大師責破之。其詮小乗戒不当末代機[云云]。護命・景深本師等非負其諍論六宗碩徳各捧退状帰依伝教大師伝受円頓戒体」(499頁)

と、最澄の大乗戒壇建立にふれています。

「大乗戒壇」が許可された背景には、律令制度の見直しをはじめとした、南都から新都への脱却をはかる、大きな推進力としての期待があったと思われます。「三一権実諍論」が国家仏教から宗派仏教への独立といわれ、「大乗戒壇」設立は国家から自立する改革であったと評されています。事実、鎌倉新仏教へと展開した母体は全て比叡山にあったのです。