69.最澄いごの天台宗

奈良の仏教は法相宗を除き衰退していき、教養的な分野として存続していましたが、平安の仏教も僧兵が跋扈し、貴族の子弟が立身出世する風潮となり堕落していきます。比叡山もいっとき衰えますが良源が復興し、つぎの尋禅が摂関家の藤原師輔の子供であったことから、藤原氏からの援助を受けました。東大寺や三井寺も発展し、寄進された荘園と共に数千の僧兵を蓄えて政界に権力を行使するようになります。

最澄没後の比叡山について概観しますと、比叡山延暦寺は桓武天皇の勅願により伝教大師最澄が開創された寺で、最澄が延暦7年(788年)に、「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち我が立つそまに冥加あらせたまえ」と祈念して、一乗止観院を建立したことから始まります。それいご、平安仏教の発祥地として発展してきました。四宗兼学を奨励したことから日本仏教の総本山といわれますが、最澄は特に天台大師の法華教学を継承した、日本の天台法華宗の根本道場、鎮護国家の道場として建立しました。

最澄の没後を受け継いだのが初代座主の義真(824年)で、その後の2代円澄(833年)からは「半ばは弘法の弟子なり」(『報恩抄』1219頁)というように、真言密教の影響をうけていき、3代座主の慈覚大師円仁(854年)、安慧(864年)と続きますが、智証大師円珍(868年)は比叡山を天台密教の寺としてしまいました。そして、五大院安然(841〜不明)が台密教学を大成したといいます。

(天台座主)

最澄=義真―円澄―慈覚大師円仁―安慧―智証大師円珍・・・18代良源

                 五大院安然

 第1世  義真――781〜833年  修禅大師

 第2世  円澄――779〜858年  寂光大師

 第3世  円仁――794〜864年  慈覚大師

 第4世  安慧――794〜868年

 第5世  円珍――814〜891年  智証大師

 18世  良源――912〜985年  元三大師

欽明天皇2年(630年)から承和5年(838年)に至る約200年に、17回の遣唐使に同行した留学生は26名で、留学僧は96名に上るといいます。平安初期に入唐した天台宗の最澄・円仁(794〜864年)・円珍の3名と、真言宗の空海・常暁・円行・恵雲・宗叡の5名は、入唐八家と称しているように多くの僧侶が入唐して仏教を学び帰っています。

最澄の弟子のなかでは6人が入唐求法しています。そのなかでも、第3世の円仁は承和5年(838年)45歳のときに入唐し、道教を信じた武宗の「会昌の破仏事件」(842年)に遭遇し、滞在していた資聖寺にて還俗させられ、54歳(847年)にて帰国します。しかし、長安寺に滞在し不空の密教を継ぐ大興善寺の元政より金剛界の密教を学び、青竜寺の義真から胎蔵界と蘇悉地を学び、そして、玄法寺の法全から胎蔵界を伝授されて帰朝しました。この学識をもとに『金剛頂経疏』・『蘇悉地経疏』などを著し、61歳で座主になり天台密教の流れを作りました。それは真言宗の密教に上回るほどの学識といいますが、最澄の「円密一致」の思想に、「理同事勝」・「一大円教」を立てました。

第5世の円珍は義真の弟子で、遣唐使の制度が終わったあと、40歳(853年)から5年間入唐し、円仁と同じ長安にて法全から金胎両界と、蘇悉地・三昧耶(さまや)戒を伝授されて帰朝します。貞観10年(868年)55歳のときに座主となり、大友氏の力により三井寺(園城寺)を賜り、天台の別院とし密教を広める伝法灌頂の道場としました。円仁の母は空海の姪にあたるといいます。

円仁と円珍の入唐求法は、最澄の密教に対する研究を補足するためであったとはいえ、天台宗の密教化とともに、この密教の教義において円仁と円珍の二つの流れに分立します。円珍系は平安中期に三井寺を本拠として寺門派となり、円仁系は山門派として分かれます。

日蓮聖人は慈覚大師円仁のことを『撰時抄』に、

「慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なり。しかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝てをはします人なりとをもえり。此人真言宗と法華宗の奥義を極させ給て候が、真言は法華経に勝たりとかかせ給へり。而を叡山三千人の大衆、日本一州の学者等一同帰伏の宗義なり。弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣とかかせ給るは、我がかたながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもつてをもうに、真言宗の法華経に勝たることは一定なり。日本国にして真言宗を法華経に勝と立をば叡山こそ強かたきなりぬべかりつるに、慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし。されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず」(1040頁)

と、『法華経』を捨てて真言を立てた第一の方人とのべています。

慈覚大師が『大日経』を第一とした由来について、『報恩抄』には大日輪の「夢想」(1213頁)によることがのべられています。これは明らかに最澄の法華一乗思想に背くことでした。最澄の真言理解は「円密一致」で、天台の三諦円融と真言の阿字本不生とは同一と見ます。また、諸法実相と阿字体大も同一とし、四種三昧と真言念誦も矛盾しないとして、密教を取り入れて兼修しました。

このようなことから、、日蓮聖人は慈覚を「蝙蝠鳥」のようなものと譬え、死後に徳を慕って建立する墓碑もない、と末期をのべています。すなわち、『報恩抄』に、

「第三の慈覚大師は始は伝教大師の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其跡をばつがせ給ども、法門は全御弟子にはあらず。而ども円頓の戒計は又御弟子ににたり。蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず。梟鳥禽・破鏡獣のごとし。法華経の父を食、持者の母をかめるなり。日をい(射)るとゆめ(夢)にみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ」(1220頁)

 円珍も入唐して天台・真言を修学して帰国しますが、円仁と同じく理同事勝であるとのべ、法華宗と真言宗の二つは共に醍醐であり深秘であって異なることがない、いわゆる、「二宗斉等」(1215頁)であることを、貞観8年(866年)の勅宣にあるとのべたことにたいし、日蓮聖人は疑義をもって、伝教大師はいづれの著書にのべているかと批判しています。

『報恩抄』に、

「智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は大体此国にして学し給けり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡給けるか。去仁寿二年に御入唐、漢土しては真言宗は法全・元政等にならはせ給、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。天台宗は良和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ず等等[云云]。七年が間漢土に経て、去貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰云 法華尚不及 況自余教乎等[云云]。此釈は法華経は大日経には劣等[云云]。又授決集云 真言禅門乃至若望華厳・法華・涅槃等経是摂引門等[云云]。普賢経の記・論の記云、同等[云云]。貞観八年丙戌四月廿九日壬申 勅宣申下云 如聞 真言止観両教之宗同号醍醐倶称深秘等[云云]。又六月三日勅宣云 先師既開両業以為我道。代々座主相承 莫不兼伝。在後之輩豈乖旧迹。如聞山上僧等専違先師之義成偏執之心。殆似不顧扇揚余風興隆旧業。凡厥師資之道闕一不可。伝弘之勤寧不兼備。自今以後宜以通達両教之人為延暦寺座主立為恒例[云云]。

されば慈覚・智証二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師値て有しかども、二宗の勝劣は思定ざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等[云云]。宣旨を申下には、二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり。此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用じとみえて候。

但二宗斉等とは先師伝教大師の御義と宣旨に引載られたり。抑伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや。此事よくよく尋べし」(1213頁)

円仁は横川で法華経の如法経を始め、覚超が根本如法経の聖地として盛んになります。国分寺も『金光明経』・『仁王経』・『法華経』・『般若経』などを読誦した、護国修法・懺悔滅罪の諸行事を在地に浸透させていました。最澄いごには円密一致の思想が時風に靡き、しだいに細分化して分裂していくことになります。その理由の一つに、『報恩抄』に、

「事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像木像の開眼の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にをち(堕)て、天台宗は一人もな(無)きなり」(1217頁)

と、開眼供養には印・真言の秘法が流行していたのです。これは、密教の影響を強く受け、すでに密教の修法が日常的になっていたということです。ここに、最澄が専一とした『法華経』を主体とする、天台宗の僧は一人もいないと指摘されたのです。

円珍は空海の『十住心論』を批判し、円密一致をのべながらも、「理劣事勝」の密教を興隆する結果となります。これを進めたのが安然で天台宗の教学を密教化しました。

安然は最澄の俗縁で9歳の時に、円仁より菩薩大戒を受け、円仁の没後は遍昭に顕密の金胎両界の授職灌頂を受け、元慶8年(884年)に元慶寺の座主となり、晩年に比叡山に五大院を建て隠棲します。天台の四教の上に密教を立てる五時五教判(蔵教・通教・別教・円教に密教を加える)、仏・時・処・教に於いて、釈尊の所説は真言密教であるとする四一教判や、一大円教論を立てて天台密教を説いています。日蓮聖人は安然について、『撰時抄』に、

「安然和尚と申叡山第一の古徳、教時諍論と申文に九宗の勝劣を立られたるに、第一真言宗・第二禅宗・第三天台法華宗・第四華厳宗等[云云]。此の大謬釈につひて禅宗は日本国に充満して、すでに亡国とならんとはするなり」(1041頁)

と、真言宗のほかに禅宗の評価を高くしたと、その罪科にふれています。

円仁の弟子で相応(831〜918年)は、東塔に無動寺を建て回峯行を伝えます。また、円仁は唐より五台山の念仏を請来しており、これを基とした常行三昧を不断念仏として完成し、これら観想的な念仏から、やがて法然の口称念仏へと進展した、日本浄土教に発展していきます。円珍以後の叡山は、円珍門流が座主職を継ぎ、円仁門流は京都の法性寺・山科の元慶寺に勢力を留めていましたが、円仁の弟子慧亮の門に、比叡山第18代座主の良源(912〜985年)が出て、円仁門流が勢力を持つようになります。

良源は比叡山中興の元三大師のことで、学識が勝れていることは、法相宗の義照や南都の法蔵を論破していることからうかがえ、18代の座主となりました。横川に法華三昧堂を建て、慧心院を開いて三塔の存在を磐石にし、僧風を厳格にし論議を行なう「広学竪義」(りゅうぎ)を始めました。最澄と徳一との間に起きた、一乗・三乗思想の論争は「応和の宗論」にみられるように、平安時代を通じて継続されていきます。これは応和3年(963年)8月12日より5日間、村上天皇が宮中の清涼殿において、天台宗10名、奈良側10名を選び『法華三部経』について対論させました。良源と興福寺の仲算(ちゅうざん)との、方便品「無一不成仏」の解釈論は名声を博しました。

また、良源は浄土念仏を強調するようになりました。良源の弟子、慧心僧都源信(942〜1017年)は『往生要集』を著し、のちに法然の浄土宗を叡山から輩出することになりました。日蓮聖人は慧心について、『撰時抄』に、

「法然が念仏宗のはやりて一国を失とする因縁は慧心の往生要集の序よりはじまれり。師子の身の中の虫の師子を食と、仏の記し給はまことなるかなや」(1041頁)

と、慧心の浄土教受容が、法然の念仏に誘因した罪科をここにみています。

平安末から鎌倉時代にかけて、急速に発展したのが浄土教です。寛平(889年)ころから律令制の土地制度が崩れ始め、地方の郡司や土豪、有力農民が貴族と結託して、広大な土地を荘園化していきます。この私的な荘園を守るために武士が出現します。関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友が、「承平天慶の乱」(939年)を起こすことにより、畿内は騒然としました。このころ、市聖と呼ばれた空也(903〜972年)が、京都に入り弥陀の称号を唱えます。そして、十一面観音を六波羅密寺に安置しました。

とくに、日蓮聖人が三虫の一人に挙げたように、慧心のもたらした浄土信仰の影響は強いものでした。摂関期になると皇室や摂関家などが豪華な寺院を建てます。藤原道長の法成寺(1022年)、道長の宇治平等院(1053年)などがあります。末法思想の不安からくる極楽往生が、浄土信仰に拍車をかけた形となってあらわれます。

この末法思想のなかに、慧心は『一乗要決』を著し、一乗真実・五乗方便を決托して、しだいに、一乗思想に傾倒していきます。また、平安中期から師匠から弟子へ口伝法門が盛んとなり、慧心は本覚法門、檀那僧都覚運は始覚法門を伝えたという、本覚法門が口伝されるようになります。

念仏思想は慈覚大師円仁が入唐して、五台山の念仏修行を、比叡山の常行三昧堂に移したときからあり、慧心の『往生要集』や、「念仏の一行」こそ末法の人々に残された救済の実践行であるという提示は、さらに浄土思想に影響をあたえました。

大原の良忍(1073〜1132年)は、来迎院を建てて融通念仏宗を開き、融通念仏を始唱して念仏を説きました。のちにふれる61代座主顕真に影響をあたえます。良忍は比叡山の東塔常行三昧堂の堂僧を勤めており、ここで不断念仏の合掌僧として修行していました。ここでの称名念仏が大原声明を完成させる基礎となり、天台声明の中興といわれました。

良忍は22歳ころに大原に隠棲し、来迎院・浄蓮華院を建てます。45歳のときに弥陀から「一人一切人、一切人一人。一行一切行、一切行一行」の文を感得します。これにより一人の念仏と万人の念仏とが、相即し融合するという教えを説き始めました。

しかし、これらのように念仏信仰は盛んに行なわれていましたが、天台念仏は三昧堂入って観想するという、観念的念仏であったので庶民には受け入れ難いものでした。ゆえに、教理的な極楽往生から、極楽往生を確信させるための教理が求められました。

ここに、法然の口称念仏を説く浄土教が台頭してきたと言われるのです。ただし、院政期に、三論宗の禅林寺の永観(1033〜1111年)は、『往生拾因』を著し東山に来迎講を開いて口称念仏を説いており、同じ三論宗の珍海(1091〜1152)も、『決定往生集』を著して、称名念仏を説いていましたので、法然の浄土教が確立されるまでの弥陀浄土信仰は存続されていたといえましょう。

法然(源空、1133〜1212年)は浄土宗を立て、称名念仏・専修念仏の一行による救済を説きました。摂政の藤原兼実(1149〜1207年)から庶民にいたる幅広い信者を作りました。藤原兼実は藤原五摂家の一つで九条家の祖となります。天台座主の慈円は同母の弟で、藤原兼実も晩年(1202年)に出家して円証と名乗り、京都の法性寺に葬られました。

奈良時代の人々は現世肯定的であったのが、しだいに、現世を否定的にうけとめるようになり、法然の『選択集』における専修念仏こそが極楽に往生できることで、それが阿弥陀仏の本願であるという教えが人々に受け入れられたのです。

 ところで、東台両密の所依の経論に違いがあります。東密は『大日経』・『金剛頂経』・『釈摩訶衍論』・『菩提心論』、台密は五部秘教(『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』・『瑜祇経』・『一字頂輪王経』)と、『菩提心論』をそれぞれ所依の根本聖典としています。

 叡山の密教化について、日蓮聖人は55代明雲座主(1135〜1184年)にふれ、比叡山を真言山としたということが『下山御消息』に、

「後白河の法皇の御宇(中略)天台座主明雲、伝教大師の止観院法華堂の三部をすてて、慈覚大師の総持院大日の三部に付給。天台山は名計りになり、法華経の所領は大日経の地となる」(1328頁)

と、批判します。明雲は平清盛が出家したときの戒師を勤めており、平家の護持僧として平氏政権と延暦寺を担う深い関係にありました。平清盛に従えられていた後白河法皇が、木曾義仲に襲撃された「法住寺合戦」で、平家都落ちには同行せず、延暦寺にとどまった明雲は、木曽義仲軍に斬殺されてしまいますが、この明雲は仁安2年(1167年)に第55代の天台座主になり、真言を修したことを『神国王御書』に、

「其上安徳天皇の御宇には、明雲座主御師となり、太上入道並に一門捧怠状云 如彼以興福寺為藤氏氏寺 以春日社為藤氏氏神 以延暦寺号平氏氏寺 以日吉社号平氏氏神[云云]。叡山には明雲座主を始として三千人の大衆五壇の大法を行、大臣以下家々に尊勝陀羅尼・不動明王を供養し、諸寺諸山には奉幣し、大法秘法を尽さずという事なし」(882頁)

と、明雲が真言の修法をした事実を示し、

「叡山五十五代の座主明雲、人王八十一代の安徳天皇より已来は叡山一向に真言宗となりぬ」(889頁)

と、これより比叡山は真言宗になったとします。

 台密といわれる天台密教の学風は、その後、三派に分かれ、この三派がさらに台密13流に分派していきます。

叡山には慈覚門徒と智証門徒の派閥争いあり、良源のときには僧兵が跋扈し叡山の規律が乱れて暗黒時代になります。良源のあと弟子の尋禅が継ぎますが、病弱のため辞任します。このあと20代座主になったのが、智証門徒の余慶(919〜991年)でした。この宣下に慈覚門徒が反対し、余慶は3ヶ月で辞任します。これによって両門徒の争いが表面化し、智証門徒は三井の園城寺を本拠として決別します。この両門徒の争いは長く続くことになります。

 ・根本大師流

最澄―広智―徳円

・慈覚大師流

   円仁―長意―玄昭―玄鑑   

 谷流―東塔南谷皇慶(977〜1049年)・・承澄(1205〜1282年)

台密の主流となる 

     川流―遍昭―最円・・良源―覚超(952〜1034年)         智証大師流
        円珍―

 この台密にたいして、天台教学は慧心流・檀那流の二派に分かれます。さきにあげた源信は横川の慧心院に住したので慧心僧都と呼ばれます。70余部150余巻の著述があり、そのなかの『一乗要決』3巻は、最澄が徳一と論争した「三一権実」についての著述で、南都が主張した「五性格別説」を破折したものです。

しかし、源信は念仏三昧を行じ、臨終にあたっては弥陀仏の手に糸を結び、その糸を手して入滅したというように、浄土信仰者として知られます。『往生要集』は浄土往生に関しての経論を集めたもので、これが法然(1135〜1212年)の『選択集』に見られる、浄土教の念仏信仰に展開していきます。

 檀那流は東塔檀那院に住した、覚運(953〜1007年)の流派で、覚運は師の良源の勧めで、静真・皇慶(977〜1049年)から真言密教を学びました。慧心・覚運ともに止観・観心を学びましたが、学説の違いにより二派に分かれ、さらに、それぞれが4流に分かれ、慧檀8流といわれるようになります。この流れは口伝法門を重視し、中古天台の本覚法門に発展していきます。

 この事相を重視した台密には、最澄・円仁・円珍・遍照の四師の系統があります。このなかで円仁の系統に皇慶がおり、谷派として主流となり続きます。皇慶の門下に長宴(1016〜1081年)の三昧流があり、ほかに、相実の法曼流に諸派があります。また、頼昭の双厳房流に、智泉院流・仏頂流、契中の穴太(あのう)流、忠快(1159〜1227年)の小川流、忠快の弟子の承澄の西山流があり、永意の蓮華流があり昧岡流があります。

それに、栄西の房号に因んだ葉上流があります。栄西は横川南楽房の顕意から密教を学んでいるので、穴太3流の一つに入ります。門弟に長楽栄朝・退耕行勇・明全・道聖・玄珍・厳淋・円淋などがいます。

遍照の系統に出た、川流の祖となる覚超(960〜1034年)は衰えましたが、平安末期から鎌倉初期にかけて分派し、中世には13流の系統ができました。現在、穴太流・法曼流・西山流・三昧流・葉上流の5派と、三井派の山寺派の6流が続いています。

 さて、平安後期(1100年ころ)から本覚法門が台頭しており、これは文献学的な勉強といわれています。草木・国土といった非情や、あらゆる現実のものが本来的に仏の現われであり、悟りの状態にあると説きます。仏教の諸経典は成仏を目標とし、そのための修行が説かれています。しかし、本覚法門では、私たちはすでに悟ったものであり、それを自覚することが大事であるとします。ここに法華円教の成仏を認めるのです、そして、仏としての自己を観察することを観心といい、その観心の内容は文字では表せないとして、師匠から弟子へと相伝する口伝法門が流行しました。

 本覚法門の文献には『牛頭決』・『五部血脈』・『枕双紙』・『修善寺決』・『漢光類聚』などがあり、最澄や源信の名前で伝わっていますが作者は不明です。また、口伝や切紙で相承された法門というのが多く伝わります。

 慧檀における本覚法門の受容にも違いがあります。両流ともに観心を基本としますが、檀那流は教相を重視し始覚的であり、本覚法門に徹底していたのが慧心流といいます。慧心流の宝池房証真(1189〜1204年)は碩学として知られています。

このように、叡山には本覚法門の流れと、宝池房証真や慈円のような文献実証的な学問の伝統があり、日蓮聖人はこの学派に影響をうけたといいます(高木豊『日蓮』)。また、俊範も本覚法門に系統しているといいます。日蓮聖人が本覚思想に影響をうけたとしている花野充昭先生の『日本・中国仏教思想とその展開』や、田村芳朗先生の『天台本覚論』には、17歳で書写した『授決円多羅義集唐決』は、本覚思想の初期の文献であったと指摘しています。 

 浄土教の信仰も継続されており、来迎院・浄蓮華院を創建した良忍(1073〜1132年)は、大原声明を完成させ、永久5年(1117年)に阿弥陀仏の示現により、自他の念仏が相即融合しあうという融通念仏の勧進をはじめ、称名念仏による浄土を説きました。そして、全国を行脚し結縁した人々の名を記入する名帳をもって勧進を行っています。摂津の平野(大阪市平野区)の領主、坂上広野の私邸地に開いた修楽寺が、のちに、融通念仏の総本山である大念仏寺となります。坂上広野は坂上田村麻呂の次男になります。

 また、日蓮聖人は61代座主顕真(1131〜1192年)を、「一向謗法の法然が弟子」『神国王御書』(同889頁)となったとみています。顕真は承安3年(1173年)に比叡山より大原別所に隠棲し、文治2年(1186年)に勝林院法然重源貞慶明遍証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされます。翌年勝林院で不断念仏をはじめ建久元年(1190年)に天台座主に就任しています。日蓮聖人は浄土信仰に傾斜した顕真を法然の弟子とみられ、この顕真が座主になったことを謗法とされたのです。

日蓮聖人の日本仏教史観の特徴は、正法である法華経の伝来と発展に注意が注がれていました。聖徳太子の仏教興隆の徳を称え、南都仏教の伝来も鑑真を法華仏教の先駆者として位置づけ、それを最澄の天台法華宗の前提とみなします。最澄は南都仏教界と対決し、比叡山を建立して法華経を宣揚してきましたが、日蓮聖人の感心は、その後の天台宗の座主が、最澄の意思通りに法華一乗を伝えているのか、という懐疑から謗法へと視野が移ります。

日蓮聖人は最澄が受け継いだ、天台大師の純粋な法華教学に、密教を混入させたことを、比叡山は濁れる山と批判しました。では、日蓮聖人はいつころ密教化したとみていたかというと、さきにのべたように、円仁・円珍の密教受容が叡山を真言宗に近づけたと指摘されたのです。

佐渡配流以前は、安然の『普通広釈』などを真言批判に引用していますが、身延期には比叡山を密教化させ、最澄に背反した円仁に源信をくわえて、正統天台の獅子身中の三虫と批判するようになります。円仁は天台宗を密教化し、安然は禅宗化し、慧心僧都源信は念仏化して最澄の法華思想から離れることになったのです。

日蓮聖人は最澄からの正統法華経の伝弘者を問い、終には、義真以後の座主は謗法者とみなして、これいご、日蓮聖人の弘教は天台宗を含めた、謗法対治へと進展していくことになるのです。