70.空海と真言密教

最澄は桓武天皇の没後に苦難の時代に入ります。これは、空海の真言宗の台頭にありました。空海は最澄と同じく入唐して密教を学んで帰朝しました。最澄が将来した密教は善無畏の胎蔵界を主体としたもので、それに加えて金剛智・不空の金剛界を体得してきた、空海の密教が時代の要望に勝れたことにあります。

さきにのべたように、弘仁4年(813年)に、最澄が『理趣経釈』の借覧を、空海に依頼したことにより交友関係が断絶します。これは、空海が真言密教の典籍を閲覧させることにより、最澄による真言批判がなされることを危惧したためともいいます。

真言宗の初祖である、善無畏(637〜735年)は中国の唐代に生まれ、『虚空蔵求聞持法』・『大日経』・『蘇悉地経』を翻訳しています。金剛智(671〜741年)は翻訳に弟子の不空、または一行を使っています。不空(705〜774年)は真言宗6祖で、弟子に恵果がおり、空海は恵果の弟子となっています。一行(683〜727年)は記憶力に勝れており、師は荊州の弘景で、弘景は天台宗第2祖章安の法孫で鑑真の師です。インドから密教を伝えに来た善無畏に師事して、『大日経』の翻訳を筆記しました。一行は密教を主として四宗を兼学し円密一致主義でした。

 空海(773〜835年)は讃岐に生まれ、18歳のときに大学に入り官吏の道を志しますが、南都の仏教に接して仏道を選んだといいます。25歳のときに著した『三教指帰』によれば、僧(勤操)から「求聞持法」を授かり、阿波の大滝嶽などの諸国で山岳修行をして、法力を身につけたといいます。この時期にさまざまな学問を習得したといいます。

 延暦23年(804年)、空海32歳のときに、最澄や橘逸勢と入唐します。翌年5月に青竜寺の恵果(けいか、745〜805年)に会い、12月までの間に金剛界・胎蔵界の灌頂を受けます。大同元年(806年)8月に帰朝し、同4年に筑紫より入京します。この空海の入京には、最澄の尽力があったといいます。

これにより、空海は嵯峨天皇に信任を受け、また、弘仁9年9月の「薬子の乱」(平城太上天皇の変」)において、嵯峨天皇側の勝利を祈念したことが契機となり、日本仏教界一の実力者となり真言宗が発展していきます。

最澄が空海を評価した理由に、密教の典籍類を多く請来したことにあります。空海は216部461巻の典籍と、多くの密教法具を持ち帰りました。そして、この『御請来目録』には密教の即身成仏を説いて顕教との勝劣をのべています。

 真言宗が依経とする『大日経』と『金剛頂経』の成立は別個であり、密教の経典は次の4段階に別れます。1.無上瑜伽タントラ。2.瑜伽タントラ。3.行タントラ。4、作タントラで、『大日経』はこの中の「行タントラ」に属し、『金剛頂経』は「瑜伽タントラ」に属し内容にも相違があります。この成立と内容に違いがある両部曼荼羅を結合させたのは善無畏や不空で、この要因は両経の翻訳が中国でなされたのが同時期であったためといいます。

そして、それを教理的に体系化したのが空海でした。

空海は大日如来の悟りを密教とし、六大無碍・四種曼荼羅・三密加持の教理をもって即身成仏をのべています。三密(身口意の三業)の修行をすることにより、速身に悟りを得ると説きました。三密とは禅定の境地に入り、手に印契を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に仏を憶念する意密をいい、これに、仏力が加わった三密加持に即身成仏を説きます。

『弁顕密二教論』には大日真言の密教と、それ以外の顕教とを仏身の上から区別して勝劣を論じます。密教の大日は自受用身・法性仏とし、顕教の釈尊は他受用身・応身として、大日は内証の智境を説き、釈尊は随機の説法でしかないと説きます。そして、『即身成仏義』には、三密相応すれば速疾に本有の三身を、現身に顕現し証得するとします。

 顕密の優劣については、『十住心論』『秘蔵宝鑰』にのべているように、十段階の経の中で「秘密荘厳心」を説く、真言の神通乗が勝れているとします。すなわち、十住心は九顕一密の密教を勝れたものとした教理で、『大日経』を依経としますが、『華厳経』の「事事無礙」

の教理を取り入れたものです。空海が『華厳経』を顕教の最高位と認めるのはこのためです。

ただし、ここには一行の『大日経疏』の存在が大きく、しかも一行は天台宗の学僧であったので、この点から、空海の教理は華厳・天台の影響を受けたものであると指摘されるのです。

 空海は能書家としても勝れ、橘逸勢・嵯峨天皇とともに三筆の一人となっています。

書道などの文人として勝れていたことと、祈祷仏教である真言密教が、嵯峨天皇に受け入れられました。

 弘仁7年(816年)7月8日、朝廷より高野山を賜ります。弘仁12年には、日本最大の灌漑池である、香川県の満濃池の改修を指揮しています。また、空海は最澄のような他宗排撃はせず、南都仏教との共存を心がけたので、弘仁13年(822年)に東大寺に真言院を建て、灌頂の道場とし平城天皇の灌頂を授けます。翌年の正月には東寺を賜り、ここを真言密教の道場としました。東寺建立の目的は教王護国寺というように、真言による護国を朝廷から託されたものでした。天長5年(828年)には、東寺の隣地に綜芸種智院を建てて文化的功績を果たしています。

空海は承和2年(835年)3月21日、高野山で死去します。真済の『空海僧都伝』によると空海の死因は病死とあります。入定については、高野山奥の院の霊廟に現在も即身仏として、禅定を続けているとされます。しかし、実際は荼毘にふされたようです。

『続日本後紀』に淳和上皇が高野山に下した院宣に、空海の荼毘式に関することや、死去の直後に東寺長者の実慧が青竜寺へ送った手紙の中に、空海を荼毘に付したと思われる文面があります。また、桓武天皇の孫、高岳親王(真如法親王)は、十大弟子のひとりとして、遺骸の埋葬に立ち会ったとされることから、遺体は荼毘に付されといわれています。

延喜21年(921年)10月27日、東寺長者、観賢の奏上により、醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られます。

空海の後続をみたときに、比叡山が新たな鎌倉仏教を生み出していったのにたいし、真言宗には新しい思想の展開は見られません。

 ちなみに、日蓮聖人の真言宗理解は、『本尊問答抄』に、

「真言宗と申は一向に大妄語にて候が、深其根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし。一向誑惑せられて数年を経て候。先天竺に真言宗と申宗なし。然有と云云。其証拠を可尋也。所詮大日経こゝにわたれり。法華経に引向て其勝劣を見之処、大日経は法華経より七重下劣の経也。証拠彼経此経に分明也 此不引之。しかるを或云、法華経に三重の主君、或二重の主君也と云云。以外の大僻見也。譬ば劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ、超高が民の身として横に帝位につきしがごとし。又彼天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として坐せしがごとし。漢土にも知人なく、日本にもあやめずして、すでに四百余年をおくれり」(57歳、1581頁)

と、『大日経』は『法華経』より七重下劣の経であることは、大日経』にも『法華経』にも説かれており、その証拠となる経文は分明であるとのべています。

日蓮聖人は真言亡国として真言宗を批判していきます。それは、さきにのべたように、「承久の乱」の真言師の祈祷が根本となっています。真言師が依拠とした真言密教についての教理的な批判内容については、のちにふれていきます。