71.空海いごの真言宗

 教団としての真言宗についてふれてみますと、空海滅後の初期はすでに東寺・高野山・高雄山寺(神護寺)などが独立し、教団としての団結に欠いたといいます。これは、各寺院に年分度者が許可されており、そのため個別に寺院運営が可能であったためです。また、叡山の円仁・円珍のように、入唐して帰朝した高僧がいなかったのも原因とされています。

 空海には多くの弟子がおり、そのなかでも実慧・真雅・真済・道雄・真如などの十大弟子は有名です。金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺は恵運、宇多天皇が開いた仁和寺・醍醐寺は聖宝、円成寺は益信(八二七〜九〇六年)などが継承します。

とくに実慧(七八五〜八四七年)と、空海の弟の真雅(八〇一〜八七九年)の系統が続きます。実慧は「檜尾ノ伝」、真雅は「槇尾ノ伝」といい、事相の両伝に表裏があって印相も異なっており二つに分派します。実慧は空海の後を継ぎ東寺長者となり、日本第二の阿闍梨といわれます。真雅は弘福寺と東寺経蔵を任されました。これを、野沢分派の遠因としています。

実慧の弟子に宗叡(八〇九〜八八四年)がいます。清和天皇に篤い信任を得て、真如法親王とともに入唐し、入唐八家の一人となります。帰国後は東寺五代長者となっています。

真雅の弟子となった真然は空海の甥で、高野山に入り金剛峰寺を創立します。同じく観賢(八五四〜九二五年)は東寺を中心として真言宗の統括をはかっています。金剛峯寺は本末争いに負けた形になり、そのご、落雷により伽藍を焼失し平安中期まで衰微した状態がつづきます。

真然の弟子に源仁(八一八〜八八七年)がおり、源仁は東寺(宗叡)・高野山(真然)の両方の密教を学び、両系統を統一します。しかし、源仁の弟子に聖宝(八三二〜九〇六年)と益信がおり、聖宝には真雅直伝の法流を授け、益信には宗叡所伝の法流を授けます。

聖宝は金峯山を開創した修験者で、洛南に醍醐寺を建て当山派の修験道場とします。聖宝は小野流の祖といわれ、それは、この系統に仁海(九五一〜一〇四六年)がおり、山科に曼荼羅寺を建て密教を広めます。曼荼羅寺が小野にあったので聖宝・仁海の系統を小野流といいます。仁海の弟子に仁海の子、成尊(一〇一二〜七四年)がいます。成尊の弟子に範俊(一〇三八〜一一一二年)と、義範(一〇二三〜一〇八八年)がいます。範俊と義範は承保二(一〇七五)年の請雨の法験で確執を生じ、義範は醍醐寺に遍智院を開きます。

東寺の益信の弟子には宇多天皇がおり、益信に就いて出家し仁和寺に入ります。御室という僧房に住したことから、いご、仁和寺は御室と称して平安仏教を支えていきます。これにしたがい東寺の権力が強くなります。また、益信は広沢流の祖といわれ、それは、この系統から宇多天皇の孫、寛朝(九一六〜九九八年)が出て広沢池の南畔に遍照寺を建て、密教の修法により勢力を拡大します。この益信・寛朝から伝わった密教の秘法を広沢池の地名をとり広沢流といいます。教義においては空海により大成されていたため、平安中期まで論争や進展はありませんでした。

(真言密教系譜)

                              (中院流)

         明算―  良禅 兼賢

|    醍醐寺遍智院(醍醐流)

醍醐寺        曼荼羅寺    | 義範―  定海― 元海

    実慧   ―理源大師聖宝(小野流)・・・仁海―成尊―― 範俊―  厳覚― 宗意

空海―  ―源仁                      (御流) (伝法院流)(根来寺)

    真雅   ―本覚大師益信(広沢流)―宇多法皇――寛朝・・性信―寛助―覚鑁ーー頼瑜

                      仁和寺   遍照寺   −(観音院流)

―寛意

 (小野流)

空海―真雅―源仁―聖宝―観賢―淳祐―元杲―仁海―成尊―範俊―厳覚

安祥寺流    ―宗意―実厳

勧修寺流    ―寛信―行海

随心院流    ―増俊・・道範

           (同)             ―義範―勝覚

三宝院流    ―定海―元海

理性院流    ―賢覚―宗命

金剛王院流   ―聖賢―源運

 (広沢流)

空海―真雅―源仁―益信―宇多天皇―寛空ー寛朝―済信―性信―寛助

仁和御流   ―覚法―覚性

西院流    ―信証―仁覚

                         保寿院流   ―永厳―覚印 
華蔵院流   ―聖恵―寛暁
忍辱山流   ―寛遍―信遍

伝法院流   ―覚鑁―兼海

持明院流   ―真誉
覚任方    ―覚任
 (真言律宗)                              (西大寺流)

   ・・・(小野流)・・・・・・成尊―義範―勝覚―定海―一海―静慶―叡尊―信空

広沢流に寛助(一〇五七〜一一二五年)が出て、その弟子に覚鑁(一〇九五〜一一四三年)がいます。覚鑁は興教大師といい、高野山で「秘密念仏」を提唱し、東寺の支配から高野山の独立を図りますが、二二世高野山検校の良禅(一〇四八〜一一三九年)などの、高野山常住僧徒の反対に会い、紀伊の根来寺に退去隠棲します。これより、金剛峯寺(本寺方)と、覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で、長い対立がつづくことになります。

覚鑁は晩年に、『五輪九字明秘密釈』一巻を著します。大日如来の真言を五輪と結びつけ、五輪を五臓及び五智如来と結びつけ、そして、密教の立場から浄土教を接収する思想で、ここには、大日・弥陀の一体平等、極楽・密厳の浄土同処として、成仏論としては往生即成仏をのべています。日蓮聖人は建長三(一二五一)年一一月二四日に、京都にて本書を書写しています。

覚鑁の弟子頼瑜(一二二六〜一三〇四年)は東大寺や興福寺に遊学し、文永九(一二七二)年に中性院の住持となり、中性院の実勝から灌頂を受け、弘安三(一二八〇)年に中性院流を開きます。しかし、高野山方との百五十年来の軋轢が頂点に達し、この争いにより正応元(一二八八)年に、伝法院と密厳院をを根来山に移し、新義真言宗の教義を確立します。大日如来の「加持法身説」(新義)を唱え、学問を興隆させ三千の坊舎と六千の学僧がいたといいます。

これにたいし、東寺・高野山の系統を古義真言宗として分けています。のちに新義真言宗は智山派と豊山派とに分かれます。根来寺は現在、一乗山大伝法院といいます。
 さきの根来寺頼瑜につづき、東寺の杲宝(一三〇六〜一三六〇年)と、高野山の宥快(一三四五〜一四一六年)が輩出し真言宗の屈指の学匠と称されます。

このように、真言宗は分派をつづけます。大きな理由は修法などの事相の違いで、ここには、師資相承を重視した師弟関係の尊重がありました。鎌倉時代には小野流も六流に分かれ、広沢流と合わせて野沢(やたく)十二流といわれ、さらに鎌倉時代に三六流に分派し興隆していきます。これは修法に口授・秘伝が増え門閥化したためでした。