72.平安末期の仏教

平安仏教の特長として、天台・真言の二宗は南都北嶺体制を形成して、王法仏法相依思想をうみだし、そして、平安時代の国家の支柱となりました。その展開は徐々に、国家仏教から民衆信仰へ浸透していきます。

たとえば、天台・真言宗にみる密教受容の形体は、多くの山林修行者を輩出しました。これは、日本の山岳信仰と結合したもので、雑多な山林抖擻の験者が存在しています。

奈良時代の神叡・護命・道慈などは山林修行者であり、平安時代には最澄・空海・円仁・相応・円珍などに継承されています。そして、真言宗の聖宝は醍醐三宝院を修験の道場とし、天台宗の増誉は熊野三山の検校となり、聖護院を修験の道場とします。これにより、修験道は天台宗・真言宗のなかに位置づけられ、醍醐寺の系列を当山派修験・真言山伏、聖護院の方を本山派修験・天台山伏と区分します。両者は真言の即身成仏、天台の本覚思想の教義に立脚します。

そのなかの一つに、『法華経』を受持する「法華持経者」の信仰が目立つようになります。これも法華信仰による功徳を願うものです。『法華験記』(ほっけげんき)は延暦寺の鎮源が撰したといわれ、長久年間(一〇四〇~四四年)の成立といわれています。このなかには僧俗一二九名の法華霊験が集められています。

 平安時代に流布した民衆の信仰は、浄土教・修験道が中心となりますが、奈良時代から続く観音信仰のほかに、不動明王信仰や地蔵菩薩・虚空蔵菩薩信仰などがみられます。

 不動明王は大日如来の化身で空海が唐より勧請し、東寺御影堂の不動明王坐像は空海の持仏と伝えています。成田山は天慶三(九四〇)年に、「平将門の乱」を平定したときに寛朝が建てたもので、高雄山寺の不動尊を成田山に移して安置したといいます。

 地蔵信仰は死後の成仏と関連しており、奈良時代から人間の関心事であった、地獄・極楽観が、閻魔や道教の「十王思想」と結合して、地蔵菩薩の救済性に救いを求めるようになりました。源信の『往生要集』における地獄相と、閻魔王の関心がもとになり、平安末期から台頭した武士層など、殺戮をした者の罪悪感などから発しています。庶民は小さな草堂に地蔵の石像を造作して、有縁無縁の霊を慰めるようになります。閻魔の裁定と堕獄に恐れた心情が信仰を広めました。日蓮聖人の『十王讃歎抄』(続六)も、本書に影響を受けているといわれ、成仏を願う回向供養の意義を説いています。

 虚空蔵菩薩信仰は福徳を授かるための信仰で、虚空蔵菩薩の像は大安寺の道慈が、養老二(七一八)年に唐から将来したといいます。日蓮聖人が出家された清澄寺にも虚空蔵菩薩が勧請されており、密教の「虚空蔵求聞持法」を修して、虚空蔵菩薩が所持している、如意珠の福徳・智慧・音声を与えてもらうことを願うものです。

 さて、「保元の乱」(一一五六年)において後白河天皇の勝利となり、そのときに活躍した、平清盛・源義朝などの武士が力をもち、政界に進出する端緒となりました。その三年後には平清盛と源義朝との対立から起きた「平治の乱」があり、謀反を起こした義朝は殺害され平家の全盛時代に入ります。仏教界においても

朝廷と平家に迎合して鎮護国家を祈っていました。

しかし、平家が滅亡し、「承久の乱」において三上皇が配流され、幕府が鎌倉に移されたことにより、仏教界においては南都仏教の復興運動が起きます。

まず、戒律の中興といわれた実範(?~一一四四年)は興福寺の学僧で、大和に成身院を開山して真言・天台、そして、法相の三宗兼学を行っていました。晩年は浄土教に帰依し多くの著述を残していますが、唐招提寺に住して律の復興に努め、東大寺戒壇院の受戒作法を復興して、南都仏教を活性化します。

この実範の理想を受け継いだのが、東大寺末寺の笠置寺に蟄居した貞慶(一一五五~一二一三年)です。貞慶は「平治の乱」で殺害された信西の孫で、興福寺に住して法相宗の教えを布教していました。貞慶は鎌倉時代の法相を復興した、蔵俊(一一〇四~一一八〇年)の弟子覚憲の弟子になります。蔵俊からは孫弟子になります。蔵俊は因明と唯識に深い著作があり、それらの著作に引用されている仏典が、現在に存在しないものが含まれています。これは治承四(一一八〇)年に、平重衡による東大寺・興福寺の焼き討ちにより、それらの仏典が灰燼に帰したためといわれています。

貞慶は解脱上人といわれ弥勒信仰をし、弥勒の不断念仏をしていました。笠置山には巨大な弥勒石があり、弥勒の浄土としての信仰もされていました。弟子とともに著した『唯識論同学鈔』六八巻は、唯識の集大成といわれ、後世にも研究されています。さらに、法相宗の学僧として、法然の念仏停止の「興福寺奏上」を作ったことで有名です。このあと、海住山寺に移り観音信仰にも関心をよせています。

このころ、栂尾上人とよばれた明恵(高弁、一一七三~一二三二年)が、三四歳のときに後鳥羽院より神護寺の別所栂尾を賜り、高山寺を開創して華厳宗の道場として復興します。翌、三五歳のときに東大寺尊勝院の学頭となります。禅に立脚した華厳教学を説き、後鳥羽上皇や建礼門院の戒師となっています。

平安後期から鎌倉初期にかけて、時代が推移していくなかで、明恵は北条泰時や時頼の外祖父である安達景盛などの、関東の武士の帰依を受けています。安達景盛は出家したのちに高野山に住していることから、真言宗に信仰の本意があることがわかります。武士達の信仰の形態が、一宗派にこだわらずに複数の寺院を護持していたことがわかります。

明恵は四〇歳のときに『催邪論』三巻を著し、『選択集』における菩提心の解釈について、華厳教学の立場から弁駁します。さらに、翌年に『荘厳記』一巻を著して法然の「専修念仏」を批判したことで有名です。明恵の弟子の喜海が高山寺を継いでいます。

さきの貞慶の弟子に戒如がおり、戒如の弟子に覚盛(一一九四~一一二四九年)がいます。覚盛は南都の戒律を復興し唐招提寺中興といわれています。覚盛の門下に良遍や円照がおり、円照の弟子に凝然(一二四〇~一三二一年)がいます。同じく貞慶の弟子に覚遍がおり、その弟子に良遍 (一一九四~一二五二年) がいます。良遍の弟子の宗性(一二〇二~一二九二年)が東大寺の第一九代となります。寛元四(一二四六)年に華厳教学の中心である尊勝院に入り、華厳教学の著作を残します。東大寺の真言院には聖守(一二一九~一二九一年)がいます。

三論宗は東大寺の東南院が研究の中心となっていましたが、聖宝が小野流の祖となったことから、密教を兼学するようになっていました。東南院に住していた智舜(~一二五七~)は、聖守の請いにより三論を講じています。弟子に中観澄禅(一二二七~一三〇七年)がいます。

南都の旧仏教は鎌倉幕府に対応して進出し、時代不安の中で社会福祉などのような、新たな運動を伴って勢力をもつようになります。

 叡尊(一二〇一~九〇年)は、東大寺・醍醐寺・高野山などで学び、戒律を重視した貞慶の弟子の、戒如の門に入り戒律を修め、密教や三論・法相も学んでおり、覚成と同門で共に東大寺で自誓受戒します。奈良西大寺を中興し、ここを拠点として密教と戒律を統合した真言律を広め、律宗の復興を大成します。

弟子が書いた『興正菩薩伝』などによると、非人救済や架橋などの興法利生の活動をし、戒を受けた者九万七千余人、寺院の創建一百余寺、修造五百九十余、西大寺の末寺になった寺は千五百寺といいます。弟子に極楽寺の忍性がおり、社会教化の運動をして民衆の支持を得ていきます。

また、重源の仏舎利信仰に続く密教的な舎利信仰をし、舎利塔など仏教造形の功績があります。西大寺の復興などの伽藍造営や修繕事業をし、また、八角塔の形をした四天堂を建てたように、大仏師法橋善慶をはじめとする慶派と連繋して、鎌倉時代に新しい寺院造形を展開しています。とくに、京都清涼寺の釈迦如来像が有名です。

こののち、中国は禅で栄えた宋の時代から元(蒙古)に推移していきます。日本仏教は鎌倉幕府のもとに集結する方向性を示します。これまで、平安京都を中心に発展してきた仏教界は、東国の武士集団が政権をもった鎌倉に進出していきます。幕府は平安仏教とは異なる新たな仏教思想や文化を模索していました。日蓮聖人が真言師の鎌倉進出をゆるした、幕府の対応を批判したのも、過去の敵対した事実からすればとうぜんのことでした。しかし、さきにのべたように、それほど鎌倉は文化の面において遅れていたのです。