73.鎌倉仏教の萌芽                         高橋俊隆

■第四章 鎌倉遊学と仏教界
◆第一節 鎌倉の仏教
○鎌倉仏教の萌芽

源平の戦乱による社会不安のなかに鎌倉幕府が創設されました。各地には武士が台頭し階級をつくりながら権力を構築していきます。また、多岐にわたる商工業の発展にともない、寺院建築や仏教に絡む経済も発展します。さきに見てきたように、平安仏教の密教・浄土思想などに裏打ちされた、さまざまな信仰は農民の間にも浸透しました。末法思想に醸し出された、新たな「鎌倉仏教」といわれる新宗派が、平安の貴族から新たな武士階級の権力者や、一般民衆の欲求のもとに創出してくることになります。

仏典などの木版が出版されるようになったのも、これらの需要が多かったためであり、とくに法然の『選択集』や太子の『三経義疏』などが多く出版されています。奈良の興福寺・東大寺・法隆寺などで出版されたものを春日版といい、高野山で出版されたものを高野版といいます。また、鎌倉や上野などの関東でも出版されるようになり、忍性や隆円なども出版事業をしています。

鎌倉初期には東大寺を復興し、仏舎利信仰をした重源(一一二一~一二〇六年)や、貞慶の南京律のあとに、北京律を立てた不可棄法師俊芿(一一六六~一二二七年)がつづきます。

 俊芿は、はじめ台密を学んでいましたが、のちに戒律を重視して三四歳の時に入宋して、如庵了宏に就き南山律を学びます。天台や浄土の学問を一二年学び、建暦元(一二一一)年に栄西とともに帰朝します。帰朝後は京都の仙遊寺を再興して、泉湧寺を再興しています。本尊も宋風に釈迦・阿弥陀・弥勒の三如来を掲げて、過去・現在・未来の救いを示し、仏教いがいにも天文学や地理学の進んだ学問を招来して、文化面においても貢献しています。

のちに、後高倉院などの戒師を勤め、元仁元(一二二四)年に関東に下向し、北条政子・北条泰時などに菩薩戒を授け、昼夜絶えることがないほど多くの人が受戒を望んだといいます。この京都の律の流れを北京律といいます。

そのご、律の研究では凝然(一二四〇~一三二一年)がおり、東大寺の学僧として華厳を宗性に学び、律を証玄、真言密教を聖守・真空、浄土を長西に学んでいます。戒壇院に住して法隆寺や唐招提寺を管理下におき、華厳宗の教学としては『華厳法界義鏡』二巻、戒律の教学としては『律宗綱要』二巻を著しています。とくに仏教の概論書である『八宗綱要』二巻は、今日おいてもテキストとされているように、博学多識であったことがうかがえます。

さて、着目することは、新たに法然源空(一一三三~一二一二年)の浄土宗が台頭したことです。法然は安元元(一一七五)年四三歳のときに、比叡山の西塔黒谷を出て西山広谷に移り、つぎに東山の大谷に居住します。そして、善導の『観経疏散善義』によって、「専修念仏」を唱え始めます。ここをもって浄土宗立教開宗とします。

文治二(一一八六)年の秋に、のちに天台六一代座主になる顕真と、大原の勝林院にて問答をします。法然は慧心の念仏は「観想念仏」であり、民衆には不向きとして「専修念仏」を説きます。これが「大原談義」で、その三年後には関白九条兼実の帰依を得て、しだいに法然の教えが浸透していきます。兼実の請いによって建久九(一一九八)年に『選択本願念仏集』を撰述し、この年に弁長・幸西が入門します。建仁二(一二〇二)年に兼実が法然を戒師として出家するなど、法然門下の勢力が拡大すると、これを敵視した旧仏教からの弾圧が始まります。

 まず、元久元(一二〇四)年一〇月、比叡山は「専修念仏」の禁止を座主の真性に訴えます。これが『延暦寺奏状』で、法然は一一月に「七箇条制誡」を作成し、これに門下八〇余人の署名をした起請文を座主に提出して、綱紀粛正を誓います。しかし、門下の進出は止まらなかったので、翌(一二〇五)年九月に、今度は興福寺の貞慶が起草した、九箇条の『興福寺奏状』が院に提出されます。ここには、正統な相承がなく勅許のない宗は認められないことや、神祇不敬、末法無戒、国土を騒乱しているなどの理由を記したものです。

名指しで挙げられたのは法然のほかに、安楽・幸西・住蓮・法本で、法然は幸西を除いて三人を破門します。法本はさきの「七箇条制誡」を無視し、師命に背いた行動をとっていたので当然のことでした。

安楽と住蓮は建永元(一二〇六)年に京都鹿ヶ谷で念仏行をおこない、このとき「六時礼讃」の美声に惹かれた、後鳥羽上皇が寵愛する松虫と鈴虫の二人が出家する事件がおきます。

これは、後鳥羽上皇を怒らせることになり、また、社会的な罪科も加わり、ついに建永二(一二〇七)年の二月に、念仏停止(ちょうじ)の院宣が下されることになります。

住蓮は六條河原において、安楽は近江国馬渕において処刑されます。さらに、同月二八日、法然を土佐番田(高知県)に、親鸞は越後国府(新潟県)に流罪にします。これを、「承元の法難」といいます。このことから、法然は「専修念仏」の解釈とその説明、そして、なによりも教団内の統制に翻弄した苦悩があったのです。

ほかに、栄西(一一四一~一二一五年)の臨済宗、親鸞(一一七三~一二六二年)の真宗、道元(一二〇〇~一二六二年)の曹洞宗が、比叡山から輩出します。一遍(一二三九~八九)は比叡山には入っていないようですが、浄土宗西山派の学僧であることから、広い意味で時宗も天台宗の一乗思想の系統から派生したといえます。

「承久の乱」のあとに混乱していた仏教界においても、各宗は政治の中心地である鎌倉に向かって進出をしてきました。このことを、日蓮聖人は『撰時抄』に、

「今はかまくらの世さかん(盛)なるゆえに、東寺・天台・園城・七寺の真言師等と、並びに自立をわす(忘)れたる法華経の謗法の人々、関東にを(落)ちくだ(下)りて、頭をかたぶけ、ひざをかがめ、やうやうに武士の心をとりて、諸寺諸山の別当となり、長吏となりて」(五四歳・建治元年一〇四六頁)

と、新旧の仏教者は踵を返して鎌倉に来た様子をのべています。諸宗の僧侶は、大寺院などの住持になろうとして、幕府の権力者に媚をもって画策したのです。それほど、鎌倉は魅力のあるところとなっており、「承久乱」後の鎌倉に、人々が集中していた有様がうかがわれます。また、『妙法比丘尼御返事』に、

「代、東にうつりて年をふるままに、彼国主を失し真言宗の人人鎌倉に下り、相州の足下にくぐり入て、やうやうにたばかる故に、本は上臘なればとて、すかされて鎌倉の諸堂の別当となせり。又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあがめ、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく。隠岐の法皇の果報の尽給いし失より百千万億倍すぎたる大科、鎌倉に出来せり」(一五五九頁)

と、新旧の仏教者のなかでも、とくに、真言系の僧侶は朝廷より優遇されていた立場を利用し、もとは北条氏の調伏を祈っていた敵側であるのに、形振りをかまわず鎌倉に進出し、しかも、他宗を取り入っていたようすがうかがえます。日蓮聖人は、この真言師の行為を隠岐法皇が、天皇の尊厳性を失墜した罪過よりも重いと見ています。

また、鎌倉の武家も過去の「承久の乱」のいきさつを忘れ、これら真言師などを別当などに崇め、自身は檀那となって帰依していったのです。日蓮聖人は真言師などを許容した、幕府も同罪であるとみていたのです。『祈祷鈔』に、

「かゝる大悪法、年を経て漸漸に関東に落下て、諸堂の別当供僧となり連連と行之。本より教法の邪正勝劣をば知食さず。只三宝をばあがむべき事とばかりおぼしめす故に、自然として是を用ひきたれり。関東の国国のみならず、叡山・東寺・薗城寺の座主・別当、皆関東の御計と成ぬる故に、彼法の檀那と成給ぬるなり」(六八三頁)

と、武家たちは仏教の邪正をわきまえようとせず、単純に仏法僧の三宝を敬まえばよいという、曖昧な文化的な意識から悪法を関東に蔓延させてしまったと、鎌倉の仏教界の進出についてのべています。

ところで、頼朝から時頼にいたるまでの護持僧(祈祷僧)は、東国在住の僧と京都から来た僧との二つの集団があり、しだいに、京都から下って来た僧の主導が強まったといわれます。この京下りの僧の過半が鶴岡宮の別当職に補任され、それが寺門派と東密系に占められていました。日蓮聖人はのちに比叡山に留学し、山門派の天台僧としての立場にあることから、幕府と敵対的な山門派として、拒まれる政治的な立場にあったといいます。

鶴岡八幡宮は明治初年まで、鶴岡八幡宮寺となのっていたように、神仏習合とはいえ仏教を主流としていました。八幡神は源氏の氏神として信仰されてきたのを、そのまま御家人を統制する守護神として崇めたわけです。

そして、もう片方の京下り僧は、陰陽師と臨済僧によって占められていたといいます。陰陽師の重用は戦勝を祈願し国土を自然の災害からまもる、いわゆる、幕府の安泰を祈らせるためでした。これに加え、個人的に病気の平癒や地相方位などの、生活一般のことを占術し解決させることが目的でした。

これまで朝廷は、天台宗・真言宗を中心として、国家鎮護や個人的な祈祷をしていました。これは平安仏教の主流であり、鎌倉仏教もこれを継承していきます。鎌倉の新仏教は天台宗から誕生し、また、叡尊・忍性など真言律宗が派生したように、奈良の旧仏教は真言宗と結びつき復興運動を起こします。

しかし、鎌倉幕府は京都朝廷との対抗意識から、これら公家的体制仏教といわれる顕密に加え、臨済禅を取り込む方向性を持っていました。栄西・行勇・蘭渓道隆・無学祖元などが、幕府と強い関わりを持ち続けていくのはこのためであり、幕府は密教に禅宗を組み合わせ、鶴岡宮を中核として武家体制を形成していたという見方がなされるわけです。(佐々木馨『日蓮とその思想』62頁)。

 このように、幕府は禅宗の伝来を奨励していきますが、どうじに、旧来の浄土思想にたいしての渇仰も存続され強まっていきます。外には禅文化の新風を武家の教訓とし、内には弥陀の浄土信仰による欣求浄土が両立していました。そこに、復古天台のもとに、『法華経』を末法救済の仏教として、題目を始唱されたのが日蓮聖人です。

(鎌倉新仏教)

   浄土宗―――法然(平安末期)――一般民衆

   浄土真宗――親鸞――――――――一般民衆

   臨済宗―――栄西――――――――武士階級

   曹洞宗―――道元――――――――武士階級

   時宗――――一遍――――――――一般民衆

   日蓮宗―――宗祖――――――――一般民衆