74.法然浄土教の展開 高橋俊隆 |
○ 法然浄土教の展開 日本で最初に念仏を勧奨したのは、空也(九〇三〜九七二年)とされ、京都で念仏を説いた(九三八〜四六年)といわれています。日本の浄土教の大成者といわれる源信(九四二〜一〇一七年)は、寛和元(九八五)年に『往生要集』を著し念仏の理論化をなしました。この背景には末法思想があり、「欣求浄土」・「厭離穢土」を願う念仏が各地に流行してきました。 南都では永観(一〇三三〜一一一一年)が『往生拾因』を著し念仏一行をすすめ、三論の珍海(一〇九一〜一一五二年)も『決定往生集』を著して、念仏を往生の「正中の正因」としていました。また、大原声明を完成させた良忍(一〇七三〜一一三二年)は、自他の称える念仏が相互に功徳となると説き、「融通念仏」の浄土思想をもって勧進を行なっていました。 日本浄土宗を開いた法然源空(一一三三〜一二一二年)は、母の弟、観覚の菩提寺(津山市の北東日本原)にて剃髪します。一三歳のとき比叡山西塔北谷持法房源光の下に入り、一五歳のとき皇円について出家し、一八歳のときに西塔の黒谷に隠棲の慈眼房叡空をたずねて弟子となります。このとき、法然房源空と名をあらため、一九歳のときに比叡山へ入山しています。 こののち、南都各宗の碩学をたずねて修学し、安元元(一一七五)年四三歳のとき、黒谷の経蔵で善導の『観無量寿経』の『観経疏』散善義、「一心専念弥陀名号」の文によって「専修念仏」の教えに傾倒し、比叡山を下り西山広谷(長岡市光明寺)に移り、さらに、京都東山の吉水(大谷の地)において浄土念仏の教えを説きました。これを浄土宗立教開宗とします。 文治六(一一九〇)年に半作りの東大寺に招かれ、浄土三部経の講義を行います。これが「東大寺講説」であり、このときの講義録が現存しています。建久九(一一九八)年、六六歳のとき、九条兼実の請いにより、『選択本願念仏集』を著して「専修念仏」の一行を確立し、本書は浄土宗の根本聖典となります。法然の立脚点は「偏依善導一師」といわれているように、善導大師の法門を継承すると宣言されているところにあります。 法然の弟子となる者がしだいに集まってきます。叡空門下の信空が入り法然門下の最長老となり、建久元(一一九〇)年に証空、建久六年に源智、建久八年に聖光(辨長)、建久九年に幸西、建仁元(一二〇一)年に親鸞が入室し、ほかにも隆観や長西などが弟子となっています。 さきにのべたように、一三世紀に入った頃から、「専修念仏」に対する旧仏教の批判活動が発生してきます。比叡山はその中心で、俊範は「念仏停止」の中心人物であったといいます。(平雅行著『日本中世の社会と仏教』)。また、興福寺方も貞慶が中心となり「念仏禁断」を朝廷に訴え、ついに、南都・平安の旧仏教による法然への攻撃は、元久二(一二〇五)年に「念仏禁断の訴状」がだされます。 日蓮聖人が正元元(一二五九)年に著わしたとされる『念仏者追放宣状事』(二二五八頁)には、旧仏教が朝廷に「専修念仏」の停止を求めた「興福寺奏上」(貞慶起草一二〇五年)、それに答えた、朝廷や幕府が「念仏禁止」を命じた宣旨・御教書の要旨などの五編が記録されています。ほかに、『念仏無間地獄抄』などにも引用され、日向上人の『金網集』に共通の文献がみえます。 比叡山や興福寺などの旧仏教側から、「念仏停止」・「念仏禁断」の訴えがあり、さきにのべたように、法然側は信空を中心に対策を練り、やむなく弟子を破門しましたが、折悪く安楽の事件があり、建永元(一二〇六)年二月に院宣により、法然の弟子住蓮と安楽は処刑され、行空と遵西が捕らえられ配流になります。そして、翌、承元元(一二〇七)年二月に法然は土佐に流され、弟子の親鸞など七人が越後などに流罪される事態に進展し、ついに「専修念仏の停止」が具現化したのです。 これにより法然は還俗して藤井元彦となります。しかし、法然に対する処罰は外面的なもので、実際には土佐には行っておらず讃岐に留まり、一二月には赦免の宣旨が下り摂津の勝尾寺に滞在します。これらは、法然の「専修念仏」に対しての教義的な迫害というよりも、旧仏教を脅かしていた法然教団の勢力が怖かったのであり、浄土思想が拡張することを阻止するために、政治的に策動したのが「念仏停止」であったといえます。この一連の事件を「承元の法難」といいます。 法然は四年後の建暦元(一二一一)年一一月一七日に、入京を許され東谷大谷(知恩院勢至堂の地)に帰ります。つづいて親鸞も流罪を赦免されます。法然は翌年一月二三日に、弟子の源智に法然の信仰の極意ともいうべき「一枚起請文」を与え、二日後に八〇歳で没しています。承元元年におきた、「専修念仏の停止」の四年後のことでした。 鎌倉における初期の念仏理解は、「専修念仏」を末法時機不相応と見做す程度で、法然の「選択本願念仏説」よりも単純なものであったといいます。日蓮聖人は、のちに比叡山に入り、旧仏教が「専修念仏」を批判した文献に接することができ、その経緯や論理を学習しています。 日蓮聖人が鎌倉に遊学したときは、法然の念仏信仰が隆盛していたときにあたります。『浄土九品之事』(二三〇九頁)に、法然房源空の弟子として、隆寛・善恵(証空)・聖光(弁長)・法蓮・覚明(長西)・聖心・成覚(幸西)・法本の名前をあげ、それぞれの念仏義を記して弟子に教えています。 証空は「極楽寺殿の御師」と書いています。はじめは解脱房となのり、のちに、善恵(慧。ぜんね)房と号していますので、日蓮聖人の当時は善恵が通名であったのでしょう。覚明房(長西)は諸行往生、幸西(成覚)と法本は一念、聖心に嵯峨と注記して弟子に教えていたことがわかります。聖心は湛空といい正信・聖信房徒言います。建長五年に没し嵯峨の二尊院に葬られています。 (法然門下) ―長西(九品寺義)――道教―性仙―・・・九品寺流(諸行本願義) ―聖覚 衰微した ―幸西(一念義) ・・・・・一念義流 親鸞(真宗)――如信――宗昭・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 浄土真宗 (多念義) 法然――隆寛――智慶 ・・・・・長楽寺流(多念義) (鎮西派) ―弁長(多念義)――良忠 ・・・・知恩院(京都)・・・・・・・・・・浄土宗 (西山派) ―証空―聖達― ・・・・・光明寺(山城国栗生)・・・・・・・浄土宗西山派 ――――一遍(時宗) 良忍―――融通念仏宗 大念仏寺(修楽寺、摂津国平野) (浄土四流) 証空(一一七七〜一二四七年)――西山義――京都――選択本願念仏 弁長(一一六二〜一二三八年)――鎮西義――九州――専修念仏 隆寛(一一四八〜一二二七年)――長楽義――相模――多念義 長西(一一八四〜一二六六年)――九品寺義―京都――諸行本願義 隆寛は日蓮聖人が鎌倉に遊学する一二年前の、嘉禄二(一二二六)年七月に鎌倉に入っています。法然の高弟といわれる隆寛は天台宗の僧でしたが、法然を慕い最澄が開いた京都の長楽寺に入り、専修念仏長楽寺派を開いています。長楽寺は壇ノ浦で捕えられた建礼門院徳子が、文治元(一一八五)年五月一日に、法然の高弟である印誓について剃髪し、一〇月に大原の寂光院に移るまで滞在したところです。隆寛は比叡山の讒奏により専修念仏を停止され、奥州へ配流されることになりますが、護送役の毛利入道西阿はその途中の相模の飯山(厚木市)に留め置きます。代わりに弟子の実成房を身代わりとして陸奥に赴かせています。 隆寛はここに住む北条時房の長子、大仏朝直(二二歳)に十念を授けたといい、飯山で八〇歳にて没しますが、結果的に長楽寺流浄土教の基を築き、これを浄土宗が鎌倉に伝えられた最初といいます。「多念義の祖」といわれるように、教義は多念・雑行を認めたもので、易行性を排除したものでした。 隆寛の弟子、実成房は陸奥より飯山に帰り、隆寛の遺骨を吉水(京都下京区)の上の山に墓所を造り埋葬しています。 また、隆寛の弟子に南無房智慶(ちきょう。生没年不詳)がいます。智慶は隆寛の没後、鎌倉に寺を開創するにあたり、京都長楽寺の寺名をそのまま使用しています。この時期は建長以前といわれ、長楽寺にて弘経をしたといわれています。日蓮聖人の「遺文」に智慶の名が散見できます。 とくに、聖光弁長の鎮西義をはじめとした法然門流が鎌倉に入り、活発な布教活動をし寺院を建立していきました。弁長は法然の正嫡を自任し、北九州を中心に専修念仏を広めたので鎮西派の祖といいます。 然阿良忠(一一九九〜一二八七年)は法然の高弟弁阿の弟子で、仁治元(一二四〇)年二月に悟真寺に入り、三月に北条経時が蓮華寺(寛元元年一二四三年に光明寺と改称)を建てて迎えています。後嵯峨上皇に円頓戒を受戒し、この鎮西派が栄えつづけ、現在の浄土宗の母体になります。 長西(ちょうさい。一一八四〜一二六六年)は、洛北九品寺に住して念仏を説いたので九品寺義(流)といいます。「諸行本願義」を立て、諸行を肯定する立場をとり存続をはかりますが、のちに絶えてしまいます。長西の弟子に道阿道教(〜一二八七年)がいます。 証空(一一七七〜一二四七年)は、慈円の西山往生院、三鈷寺に住したので西山派といいます。証空から弟子の聖達、その弟子に時宗を開いた一遍(一二三九〜一二八九年)がでます。この西山義が後世に残っていきます。 幸西(こうざい。一一六三〜一二四七年)は「一念義」を立てます。これは「専修念仏」の易行性を主張したもので、旧仏教が最も警戒した教えで、法本とともに弾圧を受けていました。「嘉禄の法難」にも流罪され、のちに絶えますが、この「一念義」は親鸞に受け継がれます。 親鸞(一一七三〜一二六二年)は九歳のとき叡山の慈円に就いて得度し、常行堂の堂僧を勤めていました。二九歳のときに叡山を降り法然の門に入ります。このとき綽空の名前で「七箇条制誡」に署名したといいます。都にいた三一歳の時に肉食妻帯して善鸞を儲け、興福寺の強訴による「承元の法難」(一二〇七年)に値ったのは三五歳の時でした。流罪地の越後で恵心尼と結婚し、三九歳のときに赦免されますが、法然没後(一二一二年)の四〇歳ころにに関東に移ったといいます。親鸞はこれより非僧非俗の立場をとります。 常陸の稲田に約二〇年間、伝道します。このときに弟子となった下総の性心と、下野高田の真仏は有力な伝道をします。この期間、親鸞は五二歳の元仁元(一二二四)年に、『教行信証』を著述し、浄土真宗が開宗されます。これら法然門下にたいして、旧仏教から弾圧が激しくなっていました。六二歳のとき京都に念仏宗弾圧があり、その余波が関東に及ぶことにより迫害を受けます。このとき親鸞は京都にもどります。 帰洛後は善鸞との義絶問題、恵心尼が信蓮房明信などの子供を連れて越後に帰ります。洛中での二七年間の生活は貧しかったといわれます。門下との関係は消息によって続けられ、『教行信証』・『愚禿鈔』二巻、『浄土和讃』などの著述を残し、九〇歳(一二六二年一一月)にて、舎弟尋有の善法院にて没します。 臨終に立ち会った高田の顕智は、遺骨を大谷に埋葬します。これが「本願寺の濫觴」です。覚如は親鸞を「本願寺聖人」と称します。これが後に大谷本願寺として発展していくことになります。 (親鸞没後の浄土真宗) 真仏・顕智――高田門徒 性信―――――横曾根門徒 順信―――――鹿島門徒 如信―――――大網門徒 ※ 如信は親鸞の孫 大谷本廟――覚信尼創立―覚慧―覚如ー ※ 覚信尼は親鸞の子、留守職は子孫が当たる 法然門下にたいする迫害は、このような「承元の法難」にみられる教団への迫害のほかに、教学的に批判をしたのが、さきにのべた、栂尾(とがのお)の華厳宗の明恵房高弁です。明恵は建永元(一二〇六)年に、後鳥羽上皇から山城国栂尾を下賜されて、高山寺を開山し戒律を重んじ、顕密の学問に励んでいました。とくに、法然の浄土宗を教学的に批判します。 『選択集』は法然の存命中には印行されませんでしたが、没後まもなく開版され、これにたいしての批判書がでました。まず、明恵は、『催邪論』三巻と、ついで、『邪論荘厳記』を著して、『選択集』に反論しました。 また、三井の公胤が元久(一二〇四年)ころに、『浄土決疑抄』三巻、定真は嘉禄(一二二六年)年間に、『弾選択』二巻を著して『選択集』を批判したといいますが、この二つの書籍は現存していません。しかし、日蓮聖人の『浄土九品之事』の図録に記述していますので、日蓮聖人の当時は存在し読まれていたことがわかります。 法然浄土宗にたいしての排撃はその後もつづき、叡山徒のために『選択集』の版木の消去(一二二四年)、さらに、法然滅後に「嘉禄の法難」(一二二七年)が六月にが起きます。これは比叡山の衆徒が「専修念仏」の隆盛を訴え、法然の大谷の墓を破却するという暴挙にでます。七月には院宣、御教書をもって「念仏停止の令」があり、法然の高弟、隆寛と甲西は流罪され、隆寛は奥州からのちに対馬に流罪されるなど、一門にたいして激しい弾圧がありました。 しかし、これらの過程を経て新たな浄土教が展開され、念仏宗の隆盛は平安から鎌倉仏教の主役になりつつあるほどの展開をみせていました。 また、一遍は一〇歳のときに天台宗継教寺で出家し、一三歳のときに法然の孫弟子、聖達に師事して西山流を一〇年ほど学びます。文永一一(一二七四)年に、弥陀の名号をしるした算(ふだ)を配って、阿弥陀仏と結縁させ極楽浄土に導くという布教をしました。これを「遊行賦算」といい、弟子たちと連れ立って、一所不住の遊行回国をしながら念仏勧進をしました。このときから一遍と名乗り、神勅相承のときを時宗開宗の年とします。 この「遊行賦算」の同心の集団を、一遍は「時衆」と呼んでいました。この名称は善導の『観経疏』にある、「道俗時衆等、各無上心を発す」の文を引用したといいます。思想的には良忍(一〇七三〜一一三二年)の「融通念仏」の勧進と共通し、とくに、神祇信仰を認め念仏との融合を試みています。 弘安二(一二七九)年に信濃で踊り念仏を始ますが、これは空也(九〇三〜九七二年)に倣ったといいます。『一遍聖絵』(聖戒編)に、一遍が四四歳の弘安五年二月下旬に鎌倉に入ろうとして、役人に足止めされている図があります。市中には入れないまま、片瀬にて四ヶ月のあいだ布教をしています。弘安五年は日蓮聖人が寂した年で、当時の鎌倉においての新宗教にたいする施策がうかがえます。弘安七年に上洛し、四条京極の釈迦堂に入り各地で「踊り念仏」を行い、その後、弘安九年に四天王寺、書写山、厳島神社などを巡行し、正応二(一二八九)年に、摂津の観音堂(真光寺)にて五〇歳にて没します。一遍の「一所不住」の教えは、二歳年上の弟子、真教に受け継がれ時宗の信徒が増えていきます。 さて、日蓮聖人は浄土宗をどのように理解されたのでしょうか。日蓮聖人の当時にあって、これら念仏の活躍は道阿道教、然阿良忠が、鎌倉にきて念仏を広めていたときにあたります。 日蓮聖人は、このような浄土宗の発展を許したのは、さきの明恵房たちの『選択集』批判が、肝心なところを論破していなかったからだとのべています。すなわち、『破良観等御書』に、 「古の人々はただ法然を難じて善導・道綽をせめず。又、経の権実をいはざり(言わない)しかがこそ念仏者はおごりけれ」(一二八四頁) と、法然の「専修念仏」について論じるのみで、肝心な浄土宗の派祖の教義についての言及と、教義としては権実論からの批判をしていないから、根本から論破することができなかったとのべ、かえって、念仏者を 増長させてしまったと、その損失をのべています。 日蓮聖人は浄土宗にたいする疑問を、幼少のころからもっていたことは既にのべました。日蓮聖人は念仏信徒の臨終相を見て、「鈍根悪人破壊の者こそ往生できる」と説くのに、なぜ狂乱死するのかという疑問でした。 この疑問を浄土の学僧に質問しても、満足に「答える人なし」(『当世念仏者無間地獄事』三一三頁)という有態でした。つまり、日蓮聖人の念仏にたいしての疑惑をはらす、学僧はいなかったのです。この念仏信徒の臨終往生の悪相は、念仏信仰者だけに向けたのではなく、すべての仏教宗派に向けた課題でした。日蓮聖人は幼少のときに、どの宗派でもよいとするのは、無分別なことであると知ったのでした。 それは、日蓮聖人も念仏を唱えていた原体験があったからです。仏教はどの宗派も真実であり名は違っていても功徳は同じと思って、正行は称名、雑行は千中無一の教えを信じていたからでした。 しかし、一七歳のときに鎌倉にでて一年ほどで浄土宗の教えを習得します。 |
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