75.浄土僧の堕獄死                                 高橋俊隆
 ○ 浄土僧の堕獄死

日蓮聖人は、成仏の姿はこうあるべきという理想像と、そのためにはどのようにしたらよいのかと、幼少時より考えていました。それは、両親兄弟の家庭環境や、日蓮聖人自身の純粋であり、素朴な死生観にあったと思われます。日蓮聖人の純粋性は、仏教を信仰すれば必ず成仏できると確信していたことです。

 念仏を唱えれば阿弥陀仏の極楽浄土に往生できると信じていた、しかし、「この事を疑う」のは、「いささかのことありて」というできごとがあったからです。はたして、それはどのような事であったのでしょうか。

この疑問の最大の理由として挙げることは、念仏者が臨終のときに狂乱死したことを、見聞きしていたという事実です。それが、つぎの『当世念仏者無間地獄事』です。

「今云日本国中四衆人人形雖異替意根、皆行一法悉期西方往生。仏法繁昌国見処発一大疑事可仰念仏宗亀鏡智者達為念仏宗大檀那大名小名並有徳者、多分臨終不如思之由聞之見之(中略)而不作十悪五逆当世念仏上人達並大檀那等臨終悪瘡等諸悪重病並臨終狂乱不得意事也。而善導和尚定十即十生。又如定得往生等釈者無疑之処。十人九人雖往生一人不往生猶不審可発。何況為念仏宗長者、善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等、皆受悪瘡等重病臨終狂乱死之由聞之又知之。其已下念仏者臨終狂乱不知其数」(三一二頁)

ここには、善導が極楽往生のまちがいないことを十即十生」と説いているが、現実には念仏長者である善慧や隆観・聖光など、念仏上人とその大檀越たちは狂乱して死んでいると指摘しています。その臨終の姿は悪瘡などの重病に悩まされ、最後は狂乱死したことが、はたして、成仏といえるのであろうかと問い質したのです。

悪瘡とは梅毒の俗称で、全身の皮膚に紅斑や膿疱が出、年数を経るにしたがい臓器・筋肉・骨などに結節を生じそれが崩れて瘢痕となり、ついには脳などの神経も冒される重病です。

隆観や聖光などの上人や檀信徒が変死しました。有難い念仏を唱え、極楽浄土へ往生することを説いていた、頼むべき僧侶自体の死に方が、地獄の有様を示すような変死をしていたのです。

 念仏の教えでは、念仏を称名する者は臨終のときに錯乱せず、苦痛もなく往生すると説いていました。また、鈍根や悪人の者ほど往生できると説いていました。命終に臨んでの願生者の「臨終正念」は、臨終の瑞相を表出しなければ、民衆の支持を得ないのは至極当然のことで、日蓮聖人においては、化学の実験者の証明のようなものであったのです。ところが、それを説いていた念仏僧が錯乱し、苦痛の様相をもって死んでいったのです。日蓮聖人は念仏による往生の悪相を見て、念仏にたいする疑いをもったのです。

日蓮聖人は教導すべき僧侶の変死が気になりました。たしかに、僧侶が熱にうなされ体が火傷で焼け爛れたようになり、狂乱悶絶死したとすれば、仏教に疑いを抱くのはとうぜんです。日蓮聖人にとっては僧侶の死に方が、成仏か地獄へ落ちたかのかを判断するそのものだったのです。臨終の死相は教義という理を超えた、目視できる仏教の正邪の現証とうけとめていたのす。この浄土僧や信徒たちが、臨終に狂乱死したことが「一大疑事」であったのです。また、大阿が疾病にかかり日夜苦しみながら、体は小児のように縮みあがり、肌の色は真っ黒にかわって臨終のときに狂乱して悶死したということを聞きました。

このように、念仏の奥義を極め生き仏といわれる、浄土僧が地獄の悪相を示したことは、すなわち、念仏では救われないこと、成仏できないことを確信する現証であったのです。『日蓮聖人註画讃』によると、日蓮聖人は大阿弥陀仏に浄土を学んだが、大阿の臨終が狂乱叫喚して死んだので浄土の教えを捨てたといいます。

法然の死はどうだったのかというと、『愚管抄』の慈円は、往生を見ようと人が集まったが、確かなる往生の現証はなかったと書いています。法然の師匠である善導の死相はどうだったのでしょう。『下山御消息』(一三四〇頁)によると、現身に狂人となり柳にのぼって落ち、一四日のあいだ苦しみながら死んだとのべています。

法然の高弟たちの臨終についても、全ての弟子が悪相で死んだとのべています。『断簡新加二〇〇』(『念仏者臨終現悪相御書』)に、

「ここに第一の不思議あり。法然が一類の一向の念仏者法然・隆観・上光(聖光)・善恵・南無・薩生等、或二七日無記にて死者もあり、或は悪瘡、或は血をはき、或は遍身にあつきあせをながし、惣じて法然が一類八十余人一人も臨終よきものとてなし」(二九二五頁)

このように、日蓮聖人は臨終相をもって、仏教の正邪を判断としていたことがわかります。このこだわりは、成仏の確証を得ることにあったのです。仏教はほんらい一法であるべきという考え方は、仏教各宗の目的は成仏を求めているという、純粋な視座から見たものであり、それは、理解が深まることにより、成仏を可能にした教えは何かを追及することになり、教学としては教相による勝劣として取捨することになったのです。

『種々御振舞御書』に、清澄寺の道義房が念仏信仰をしていたことにたいし、法華謗法の罪により堕獄の苦をうけると訓諭したことをのべています。

「他人はさておきぬ。安房国の東西の人々は此事を信ずべきなり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房・清澄の西尭房・道義房・かたうみの実智房等はたうとかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。(中略)此人々の御臨終はよく候いけるかいかに」(九八三頁)

と、道善房のまわりの、念仏上人の臨終相はどうだったかを訊ねることにより、道善房の念仏信仰を覚醒させようとしたのです。道義房義尚は師匠道善房の兄で念仏を信仰していた人で、日蓮聖人はこの道義房の臨終の悪相を、清澄寺にいるときに見ていたといいます。((岡元錬城著『日蓮聖人』五一頁)。

『題目弥陀名号勝劣事』に、「臨終の思やうにならざるは」(二九六頁)、かならず原因があると考えるのは必然のことでした。日蓮聖人は立教開宗のおりに、道義房に向かって、謗法の罪により無間地獄に堕ちると言ったことが(『善無畏三蔵鈔』四七四頁)、事実として顕われたのです。

このように、僧徒の臨終の死相は、成仏を判断するための現証であったのです。日蓮聖人が文証・理証、そして、現証を重視していたことがわかります。羅什の翻訳と不空の翻訳をくらべたときに、羅什を信用する理由を『妙一女御返事』に、
「答云羅什には現証あり、不空には現証なし。問云其証如何。答云舌の焼ざる証なり」(一七八一頁)

と、羅什は「舌根不焼」であったことを、引用していることからもうかがえます。また、ここに、各宗派が依経とする経典の勝劣を立てたのです。

 日蓮聖人は仏教に違背する業因をつくり、その結果、悪道に堕ちることになると経文に説かれていることを知り、酒酔いがさめたときのように罪の意識が生じたとのべています。それが、念仏への改悔となりました。すなわち、天台宗に伝えられていた「観念念仏」そして、「口称念仏」を少時に疑問視したのです。