76.遊学期の禅宗                            高橋俊隆
○遊学期の禅宗

禅の教えは、飛鳥時代に法相宗の道昭が伝え、奈良時代には大安寺の道璿が律・華厳(初伝)と禅(第二伝)を伝えます。これを行表が習い最澄に繋がります。最澄は入唐して禅林寺の翛然(しゅくねん)から牛頭禅を相承しています。嵯峨天皇の檀林皇后により、唐僧の義空(―八三五年―)が、檀林寺に住して禅を広めようとしました。この檀林寺は日本の禅林の最初とされます。のちに、火災により廃絶しますが、同地に建立されたのが天竜寺です。

日蓮聖人が鎌倉へ出て遊学していたころは、さほど興隆していないときでした。日蓮聖人が鎌倉で学んた禅宗は臨済系のもので、新渡来の禅宗が流行し始めたころですが、師と仰ぐべき禅の碩学はいなかったようです。

比叡山の覚阿(一一四三年~?)は承安元(一一七一)年一〇月に入宋して、杭州霊隠寺(りんにんじ)の仏海禅師、瞎堂慧遠(かつどうえおん)に印可をうけ、臨済禅の楊岐宗を伝えます。『嘉泰普燈録』・『五燈会元』に、覚阿が長江の岸で鼓声を聞いて大悟し、それを偈にして慧遠に呈した事跡が記載されており、日本の禅僧のなかで唯一人、中国の燈史文献に名前が残りました。

しかし、帰朝後、高倉天皇に召されて禅の要旨を問われたとき、笛を吹いて教示しましたが、理解されなかったといいます。これ以後、時機未熟なることを察して、ふたたび叡山に帰り隠棲しています。

とうじの鎌倉は、大日房能忍(~一一九五?)や、仏地房覚晏(不詳)が禅を広めたあとでした。能忍は独学で禅の悟りを得たといい、摂津水田(大阪)に三宝寺を建て、日本達磨宗の開祖となりました。しかし、正当な相承がないこともあり、文治五(一一八九)年に、弟子の練中と勝弁を入宋させ、浙江省の阿育王山

の拙庵徳光に面会させます。臨済宗楊岐派の拙庵徳光に、自身の悟道の書簡を見せて印可を得ます。そして、これより、禅の教えは「仏祖不伝」・「不立文字」・「教外別伝」であり、「直指人心見性成仏」の宗派であるとし、日本達磨宗と名のって禅の教義を広めますが、建久六(一一九五)年ころに、誤解をうけて甥の平景清に殺害されたといいます。

日蓮聖人が批判した禅宗は大日能忍ですが、同じ禅を説く栄西においても、『興禅護国論』の中で、能忍を「禅宗を妄称し祖語を曲解して破戒怠行にはしり、その坐禅は形ばかりである」と批判し、自宗との相違をのべています。日蓮聖人は能忍を法然と並んで、民衆を惑わした「悪鬼」と批判したように、とうじの能忍の影響力が大きかったことをうかがわせます。

この達磨宗も叡山や南都の宗派に排撃されます。比叡山などから排撃されたのは、教団として台頭し勢力をつけたためといえます。朝廷は建久五(一一九四)年に達磨宗の布教を禁止しましたが、比叡山の出身で顕密を学び、仁安三(一一六八)年から二度の入宋をし、虚庵懐敞(えしょう)の法灯をえていた栄西(葉上房・明庵一一四一~一二一五年)の強い影響により、禅は広まっていきました。

能忍の没後は弟子の覚晏が継ぎ、大和(奈良県)の多武峰(とうのみね)で、道元の永平寺を継ぎ曹洞宗二世になった孤雲懐装(一一九八~一二八〇年)などの弟子を訓育しています。自分の死後は道元の教えに参禅するようにとすすめています。

禅の教えは平安時代に伝えられましたが、一般に日本への禅の初伝は、台密の葉上流の開祖栄西により伝えられたとします。日本に臨済禅を伝え台密葉上流の祖となっています。その教えは、能忍の滅後に禅の教えをついだ覚晏を批判するもので、『興禅護国論』のなかにおいて「暗証・悪取空の徒」とし、「不立文字」・「即身是仏」をたてて、「円観」・「律行」を重んじないのは「仏法の賊」であると批判します。そして、栄西こそが伝教大師の伝えた禅を広める者であり、四宗相承を受け継ぐ者であると表明しました。

栄西は叡山で天台宗を学び、伯耆大山寺の基好のもとで台密を学んでいます。二七歳と四七歳(一一八七年)の二度入宋しています。最初は天台座主の明雲の後援により入宋し、そのおりに、重源と知り合い天台山・育王山を巡りますが、とうじは禅が流行しており、五ヶ月で帰国します。帰国後に密教を学び葉上流の一派を開きます。

二度目の入宋のときは、天台山・景徳禅寺・万年寺で、黄竜派第八世の虚庵懐敞について、臨済宗の黄竜宗(おうりょう)の禅を学びます。虚庵懐敞が天童山の住持となり、栄西も随従して五年の修行を経て印可を受けます。このころ、大日能忍の弟子が拙庵徳光に面会しています。栄西は建久三(一一九一)年七月に、明庵(みんなん)の号を授かり、袈裟と大乗菩薩戒血脈をもって帰国します。そして、博多に聖福寺と報恩寺を建て『出家大綱』を著し、そして、『興禅護国論』を著し最澄と同じ「禅戒一致」の禅であることを説きます。

つまり、戒体を守り禅の修行による「即身是仏」を説き、これに準拠して天台の鎮護国家を再興することを理想としました。その理由は、栄西の禅が比叡山に伝わっていた、安然の仏心宗を基としていたからです。

しかし、『吾妻鏡』によると、鎌倉においては密教僧として修法を行なっています。栄西の二度の入宋は聖地巡拝を目的としていたもので、帰国後の活動も密教僧であり、勧進僧としての役割であったといいます。京都においては禅や戒をもって、天台宗の再興を図ろうとした入宋僧でしたが、鎌倉にては祈祷を主として、傍らに禅を広めた僧で、はじめは、他の宗派と兼修でした。伝えによると、栄華を求めた僧で清貧の僧ではなかったといいます。しかし、幕府は新しい宗教者として歓待します。

栄西が入唐して学んだ禅宗が、鎌倉時代になって流布してきます。正治二(一二〇〇)年に、源頼家・政子が開基となる、鎌倉五山の一つの寿福寺の開山となります。この寿福寺と建仁寺を、比叡山の末寺とした理由はここにあります。開創当寺の寿福寺は小規模な寺であったようで、二度ほど羅災し体裁が整えられたのは、弘安元(一二七八)年と考えられています。

また、頼朝の一周忌の導師をし、建仁二(一二〇二)年に、将軍頼家より土地の寄進を受けて京都に建仁寺を建てます。建仁寺は幕府の文化的な力を示す意図がありました。しかし、叡山の反対があったため、天台・真言・禅の三宗兼学の寺として朝廷の勅許を得て、比叡山の別院として位置づけられるようになります。

建永元(一二〇六)年に、重源のあとを継いで東大寺勧進識となり、東大寺の復興にも貢献します。鎌倉と京都に建てた寺院は、禅宗のその後の展開に意義をもちますが、栄西の禅宗は純粋禅ではなく、台密を兼学していたため数代で絶えます。

また、栄西は煎茶道の茶祖となり、煎茶道に影響を与えています。実朝のために著したのが『喫茶養生記』二巻です。本書は喫茶による健康をのべたもので、日本に喫茶の風習を残しました。茶種を持ち帰り、肥前の背振山に蒔き育てたのが石上茶の起源となりました。

弟子には栄西の跡を継いだ退耕行勇(一一六三~一二四一年)や、栄朝(一一六五~一二四七年)がいます。日蓮聖人が鎌倉の寿福寺で禅を学ぶとしたら、退耕行勇(一二四一年示寂)か、その弟子の了心であり、両者ともに学問的な理解は深くないといいます。また、日蓮聖人の「遺文」に、栄西に関するものがないのは、栄西が天台密教葉上流の開祖で、密教の僧侶とみていたという説があります。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』六一頁)。つまり、このとうじの禅宗・禅僧は、禅と密教を兼ねた「禅密兼修」の祈祷僧に近かったのです。

退耕行勇は、はじめ鶴岡八幡宮の供僧でしたが、師のように祈祷師をし頼朝や政子に用いられます。建久一〇(一一九九)年四月二三日の、頼朝百箇日忌には導師となったことをはじめ、幕府と密接な関係を結び、政子が頼朝の供養のため、高野山に金剛三昧院を建立すると開山となっています。また、実朝の帰依を受けて寿福寺を継ぎ、建仁寺の住持をつとめます。建永元(一二〇六)年に、栄西のあとをうけて東大寺勧進職となり、貞応二(一二二三)年に高野山金剛三昧院をひらき、禅と密教の兼修道場としました。

のちに、泰時が創建した鎌倉の浄妙寺と東勝寺の開山となり、仁治二(一二四一)年七月五日、七九歳にて没します。この東勝寺は元弘三(一三三三)年五月二二日、新田義貞に攻められた北条高時一族が立てこもり、火を放って最後をとげた鎌倉幕府滅亡の所となります。

栄朝(釈円一一六五~一二四七年)は栄西の高弟で、台密の学識にくわえ禅密を兼修しています。上野世良田に長楽寺を建て、関東地方に臨済宗黄竜派の禅をひろめていました。行勇と栄朝の門に円爾弁円と、心地覚心(無本、一二〇七~一二九八年)がいます。弟子の円爾弁円(一二〇二~八〇年)には台密を教え、鎌倉の寿福寺の住持だった蔵叟朗誉には禅を教えています。宝治元年九月二六日に八三歳で没しています。また、門下に明全がおり高弁も印可を受けたといいます。

弁円は、駿河に生まれ、はじめ、三井寺にて寺門派の天台を学び、のちに、栄西の弟子である栄朝とその弟子の行勇に参じ黄龍派の禅を学びます。鎌倉の寿福寺にて大蔵経を学んでいましたが、鶴岡八幡宮の法華講に参会したおりに、楞伽経の講義を聞いて「今、東方の学者は了心を以って魁とす、その浅易かくのごとし」と、教学の未熟さに嘆いて鎌倉を去る決心をします。栄朝の許しを得て嘉禎元(一二三五)年に入宋し、径山(きんざん)の無準師範について学びます。とうじ、中国の主流であった揚岐派の印可を受け、臨済宗虎丘派の法灯を継ぎ仁治二(一二四一)年七月に帰国します。

帰国後は博多の大宰府に崇福寺を建て、のちに、寛元元(一二三五)年に、九条道家の帰依を受けて京都に入り、東福寺・普門寺を建てます。後嵯峨上皇や時頼に禅戒を授け、鎌倉においても臨済宗を広めます。円爾弁円は宋の永明延寿の『宗鏡録』、(法相・三論・華厳・天台を禅に融合させた書)や、圭堂の『大明録』(儒・仏・道の三教一致を禅の立場から説く)を用いて禅を説くという、教禅兼修的な「教禅一致」を唱えました。

しかし、臨済禅をひろめるかたわらに、真言・天台と禅を兼修し、栄西と同じように密教の修法をしています。諸宗の学僧が教えを聞きにきたのはこの後のことで、その折に比叡山遊学中の日蓮聖人も聴講したといいます。寿福寺に日蓮聖人が寄付したという柱が伝えられているのは、このときの縁であったといいます。弁円には『聖一国師語録』があり、弘安三(一二八〇)年一〇月一七日、七九歳にて没しています。弁円は臨済宗聖一派の祖となり、聖一国師という国師号を受けた最初の僧となっています。

 弁円の弟子に無関普門(一二一二~九一年、臨済宗聖一派)がいます。無関普門は信州の生まれで、建長三(一二五一)年に入宋します。断橋(どんぎょう)妙倫に印可を受け、弘長二(一二六二)年に帰国します。そして、亀山上皇の帰依により離宮を南禅寺とします。

心地覚心は密教を学び、のちに、行勇・栄朝・道元の門に参じています。入宋して無門慧開の教えを受けて帰国します。心地覚心の禅も密教を取り入れたものであり、一遍との交流があり時宗とも関係がありました。開山した西方寺が熊野詣での詣路にあったため、多くの参詣者を集めます。また、日本における近世の臨済宗の一末派である普化宗の祖として、妙光寺の門に「本朝普化古道場」の看板が掛けられています。京都十刹のひとつ建仁寺の開創となっています。

道元(一二〇〇~五三年)についての記事は、「遺文」のなかにみられません。道元が在京中は日蓮聖人が比叡山に入られたころで、道元は寛元元年(一二四三年、日蓮聖人二二歳)に一門とともに深草を去り、越前の波多野義重の庇護により大仏寺(のちの永平寺)を開きました。

蘭渓道隆(一二一三~一二七八年)は、まだ鎌倉に来ていません。道隆は西蜀(四川省)の生まれで、一三歳のときに出家し無準師範に学びましたが、無明慧性について悟りを得たといいます。泉湧寺俊芿の弟子の、月翁智鏡との交流から日本への関心をもち、寛元四(一二四六)年に日本に向かい博多に着きました。

のちに、鎌倉の寿福寺に来ますが、時頼が建長寺を建てて開山とするのは、建長五(一二五三)年のことで、ちょうど、日蓮聖人が立教開宗をされた年にあたります。このときの寺の敷地は、刑場や墓地であったといいます。

道隆は座禅の作法を厳しく指導したので、正しい作法が流布したといいます。のちに、京都の建仁寺に移りますが、文永九(一二七二)年ころに比叡山の反抗を受け、甲州などに逃れながら鎌倉の寿福寺に帰り、弘安元(一二七八)年に没しています。日蓮聖人は蘭渓道隆を、魔の沙門と批判しています。(『真言諸宗違目』639頁)。『開目抄』(五九六頁)には「鎌倉には良観ににたり」と述べ、このなかに道隆を含めて「三類の強敵」としています。

円覚寺の開山無学祖元(一二二六~一二八六年)が来日したのは、弘安二(一二七九)年六月のことで、時宗は建長寺に招き元寇の対策を相談したといいます。円覚寺は「弘安の役」で戦死した、敵味方の冥福を祈るために建てられ、時宗は供養のため地蔵菩薩千体を安置しています。無学祖元は弘安九(一二八六)年に没し仏光禅師といいます。

また、一山(一二四七~一三一七年)・慧日(一二七二~一三四〇年)と日蓮聖人は、事跡を照合すると直接関わっていないと思われます。

 さて、このように、主に日本僧がもたらした禅の土壌のうえに、北条氏が宋朝の純粋の禅を受容し、寺院を建立したことが、鎌倉の禅宗の特徴でした。

まず、鎌倉幕府は蘭渓道隆を受け入れました。道隆は浙江省の天童山に住し、栄西が没してから三〇年ほどを経た寛元四(一二四六)年に、門弟の義翁紹仁らを伴い商船に便乗して来朝し、時頼の帰依を得て建長寺の開山となります。道隆の宋風純粋禅を学ぶために大勢の門下が集まり、建長寺には二百名の弟子がいたといいます。道隆の系統を大覚派といい、弟子の中でも約翁徳倹が勝れています。

 つづいて、兀庵普寧(一一九七~一二七六年)が、東福寺の円爾の招きにより、文応元(一二六〇)年に来朝します。無準師範の四大高弟の一人で、時頼の帰依をうけて建長寺の二世となります。しかし、普寧の臨済宗楊岐派の禅は受け入れられず、時頼が弘長三(一二六三)年に没して、文永二(一二六五)年に帰国します。日本に禅を伝えた期間は六年という短いものでした。

時宗の招きをうけて文永六(一二六九)年四月に、大休正念(一二一五~一二八九年)が来朝します。正念は霊隠寺の東谷妙光に師事し、のちに、石渓心月に法を嗣いでいます。さきに帰朝していた無象静照は同門であり、静照が時宗に推薦したもので、道隆にも厚遇をうけています。

正念は禅興寺・寿福寺・建長寺・円覚寺に歴住し、浄智寺を開創し大休派(仏源派)の祖となっています。時宗のほかに、貞時や時宗の弟宗政とも交渉をもち、鎌倉武士に多大な感化を与えたといいます。

さらに、無学祖元(一二二六~一二八六年)が、弘安二(一二七九)年六月に、覚円とともに来朝し建長寺に入ります。弘安四(一二八一)年に、時宗が円覚寺を建てると開山となります。とくに、時宗の蒙古対策に対して大きな影響力を持ち、鎌倉武士に与えた禅の教えは大きなものでした。

また、幕府が求めたのは仏教のみではなく、建築技術の導入にありました。堂塔建造の技術は石垣普請・庭園築造にあらわれますが、鎌倉市中においては道・橋・水路・堤防・邸宅・築城などに応用され、弓矢の製造などの軍需産業にもおよびました。

これら、宋から来た禅僧は、蒙古襲来と深い関係があります。時宗が対蒙古に強硬政策を策動した背景に、正念と祖元がいました。ともに南宋から招いた渡来僧で、時宗はこの二人を相談役としました。二人の蒙古に対する情報は、南宋遺臣などや祖国を失った渡来僧から収集したもので、憎嫉にかたまった感情が主であったといいます。つまり、蒙古の侵略を見聞した当事者であったのです。国書の末尾にある「不宣」という語句は、侵略を意味するのではなく円満な国交を望むことといいます。

祖元は弘安九(一二八六)年九月に没します。弟子に高峯顕日(一二四一~一三一六年)がおり、その弟子に夢窓疎石(一二七五~一三五一年)がいます。日蓮聖人は、このうち、祖元・一山・慧日とは直接会っていません。

また、南浦紹明(なんぽじょうみん、大応国師、一二三五~一三〇八年)が入宋し、文永四(一二六七年)に帰朝して楊岐宗を日本に伝えます。

中国の禅宗は「五家七宗」があり、そのなかの一つが楊岐宗です。栄西は黄竜宗の禅を伝えましたが、他の禅は全て臨済禅になります。南浦紹明が伝えた臨済禅は、宋の松源崇岳の一派で、道隆や正念もこのなかに入ります。南浦紹明は大応派をつくり、大徳寺・妙心寺にこの教えが栄えます。そして、宗峰妙超(大燈国師、一二八二~一三三七年)・関山慧玄とつづく、いわゆる、「応・燈・関」の林下派の法系を後世に伝えることになります。

つまり、同じ宋の臨済禅で、そのなかの、曹源道生の門に一山一寧と東里弘会がいて、破庵祖先の門に無学祖元と兀庵普寧、それに円爾弁円がいたのです。すなわち、鎌倉時代に日本に伝えられた禅は、この楊岐派の臨済禅であったわけです。ちなみに、日本に今日まで受け継がれた臨済宗は、おもに楊岐派の禅宗です。「日本禅宗二四流」といわれるなかで、この楊岐派に属さないのは導元の系統と、慧日の東明派、永璵の千光派だけです。

道元も入宋して天童山の長翁如浄(一一六三~一二二八年)について三年間学び、景徳禅寺で「身心脱落」(『宝慶記』)を悟って、安貞元(一二二七)年に帰国しました。建仁寺で『普勧坐禅義』を著述しますが、比叡山の末寺になっていたため、これを起因として比叡山から追放されることになります。建仁寺は栄西が開いたところですが、道元の「只管打坐」による「修証一如」の座禅義は、栄西の多義的な兼修禅とも相違していたのです。

比叡山を去り、深草に隠棲したのは三一歳のときで、このころから『正法眼蔵』に着手したといいます。そして、興聖寺を開きますが、洛南の東福寺に聖一国師が入り、比叡山と東福寺に阻まれて北陸に下向します。そして、越前に永平寺を開創することになります。日本達磨宗の開祖、能忍の弟子である仏地房覚晏たちは、仁治二(一二四一)年に師命と、教団の結束をはかるため道元の下に入ります。

道元の弟子に懐敞がいて永平寺二世となります。懐敞のあとを徹通義介(一二一九~一三〇九年)が継ぎ三世となりますが、徹通義介は同門の義演・寂円と対立し、永平寺を去り加賀の大乗寺に入ります。瑩山紹瑾(一二六八~一三二五年)は義介とともに大乗寺にうつり、ここに、永平寺と大乗寺に分派します。この大乗寺の系統が総持寺派となります。

永平寺は義演が継ぎますが、寺内の疲弊と波多野氏の外護を得られないため閑居し、永平寺も衰退し無住状態になったといいます。正和三(一三一四)年に義運が入り、このときに義介が三世と認められます。この長い永平寺の紛糾を「三代相論」といいます。

寛喜元(一二九九)年に、一山一寧(一二四七~一三一七年)が元の使節として来朝し、建長寺などに住しますが、後宇多上皇に招かれて南禅寺三世になります。この門流から「五山文学」ができます。また、貞時の請来により延慶二(一三〇九)年に、東明慧日(一二七二~一三四〇年)などの禅僧を招来しました。慧日は鎌倉の禅興寺に住し、延慶四(一三一一)年に円覚寺に移っています。

(鎌倉初期の禅宗)

栄西・弁円(聖一)・心地覚心(法燈)の入宋僧―― 建仁寺

  道隆・祖元の中国禅―――――――――――――――建長寺・円覚寺

応・燈・関―――――――――――――――――――南禅寺

道元――――――――――――――――――――――永平寺

 (臨済宗)

栄西――建仁寺派――建仁二年(一二〇二年)――京都建仁寺

  弁円――東福寺派――嘉禎二年(一二三六年)――京都東福寺

  道隆――建長寺派――建長五年 (一二五三年)―――鎌倉建長寺(大覚派)

  祖元――円覚寺派――弘安五年 (一二八二年)―――鎌倉円覚寺

    普門――南禅寺派――正応四年(一二九一年)――京都南禅寺

 (曹洞宗)

  道元――――――――寛元二年(一二四四年)――福井永平寺

 (普化宗)

 覚心――――――――建長六年(一二五四年)――和歌山興国寺