77.日蓮聖人の鎌倉遊学
第二節 鎌倉の遊学

○遊学の理由

日蓮聖人は清澄寺の経蔵を隅々まで探索し、全ての仏教書などを読破されたことでしょう。そして、智者を目指す向学心は仏教の理解を深め、清澄寺における修学課程を終えます。

『本尊問答抄』には、つぎのように述懐しています。

「生年十二同じき郷の内、清澄寺と申す山にまかりて、遠国なるうえ、寺とはなづけて候へども修学の人なし」(一五八〇頁)

と、のべているように、房総の清澄寺には、日蓮聖人の経論の解釈などの質問に答えてくれる学僧がいなかったのです。また、尋ねてくる碩学もいないので、新しい情報も入らず追求心を満足することができなかったのです。知者を志向し向学心の強い日蓮聖人が、遊学を志すことはとうぜんのことでした。

 日蓮聖人がもつ仏教についての疑問の一つは、さきにのべたように、八宗十宗の各宗の高祖が、自分の宗こそが第一としていたことでした。しかし、日蓮聖人は「国王は但一人」であるという倫理観の立場を遵守して、仏教も三界の主徳をもつ釈尊一仏に帰結すると考えました。その釈尊は入滅にあたり最後の遺誡である『涅槃経』に、「依法不依人」・「「依了義経不依了義経」の「法四依」を明白に説かれており、その釈尊の金口からすると、各宗の高祖の主張にまちがいがあるのではないか、それならば、「了義経」とはどの経典をいうのか、いずれの宗が真実に仏教の正統性を説いているのか、という疑問をもっていました。

 また、『法華経』の『無量義経』に、「四十余年未顕真実」と説かれているが、天台宗で取り入れている真言経の密教は「四十余年」の内に入るのではないか、そうすれば「未顕真実」となり、釈尊の「随自意」・真実の『法華経』には劣るのではないか、また、最澄は法華一経を依拠として天台宗を開創したのではないか、最澄の意思は専持法華にあるのではないか、というさまざまな難問を抱えました。これらの問いに道善房ほか誰も充分に答える者がおらず、日蓮聖人の疑問は積もるばかりだったのです。

このような悶々とする状態をいかに打開したらよいのか、それを兄弟子に相談したことでしょう。兄弟子は学僧が集まる中央にて修学することを勧め、道善師匠の許しを請うたと思います。そして、日蓮聖人は清澄寺の学生として、歴任元(一二三八)年の秋ころ、一七歳のときに鎌倉へ遊学のため清澄寺を離れたと伝えます。

ただし、昭和一〇年に金沢文庫から発見された、『授決円多羅義集唐決』の写本に、日蓮聖人は一七歳の一一月十四日に道善房東面にて執筆したとあります。

「嘉禎四年太歳戊戌一一月十四日。安房国東北御庄清澄山道善房東面執筆。是聖房生年一七歳。後見人々是無非謗

 嘉禎四年は一一月二三日に歴仁と改めます。この日以後に入鎌したと思われるので、晩秋の向寒の時期に鎌倉に向かったのでしょう。清澄寺入山の一二歳の時は父と青葉の深山を登りました。このときの霊山は紅葉に飾られ、希望に満ちた下山であったでしょう。

 政治の中心地である鎌倉出立には、先輩僧に伴われてか、清澄寺に滞在していた諸国遊行の行者と同道したのか、あるいは、道案内がいたのか、一人での旅であったのか、道中の行程は不明ですが、清澄山の山門を出て鎌倉へは陸路をとり上総から下総、そして、荒川・墨田川・多摩川をこえて、今の保土(程)ヶ谷に一泊したというのが陸路説です。

「帷子(かたびら)の里」にて一夜の宿を求めたという言い伝えがあり、その家の主に案内され仏間に入ると、釈尊の立像が打ち捨てられており、家人はその横で念仏を唱えたといいます。これを見た日蓮聖人は、釈尊を粗末にする念仏の教えでは成仏できない、と諭したという言い伝えです。

この陸路説にたいし、有力な見方に海路説があります。清澄をでた日蓮聖人は、長狭街道を通って房総半島を縦断し、内房の南無谷(なむや、南無妙法谷とよばれ、後に南無谷)に行き(現在の富浦町、古くは和泉沢)、そこから舟に乗って対岸の三浦半島相模の、米が浜へ渡ったという言い伝えです。この海路は古来より交通の手段として利用されていたところです。『伝記』においても日蓮聖人の着船のところ、と伝えていることから海路を進んだといわれています。

○遊学時の鎌倉市中

 「承久の乱」(一二二一年)後の政権は、朝廷から東国の源氏へうつり、さらに、源氏が樹立した幕府は、北条氏に実権が引き継がれます。仏教も寺院建設などの形をとって、鎌倉に進出していましたが、鎌倉の存在価値は政治機能の中枢都市であったことです。

日蓮聖人は歴仁元(一二三八)年に鎌倉に入り、仁治三(一二四二)年まで鎌倉に滞在し修学しています。このときの執権は三代目の泰時の晩年にあたります。日蓮聖人の視界に入った鎌倉は、『報恩抄』に、

「太政入道が国ををさ(押)え、承久に王位つきはてて、世東にうつりしかども」(五五歳・一二二三頁)

また、『祈祷鈔』に、

「既に世関東に移りし事なにとか思食しけん」(五一歳・六八一頁)

と、「承久の乱」において天皇の王位は滅尽し、日本の中心は京都から鎌倉に移ったことをのべています。日蓮聖人は天皇家の衰退を容認できないにしても、鎌倉は日本の行先を司るところであり、関心はその武家社会の情勢と内幕をみることにあったと思います。『一昨日御書』に、
方今、世悉く関東に帰し人皆、土風を貴ぶ」(五〇歳・原漢文五〇一頁)

と、わずか十数年のあいだに天皇の徳は尽き果て、年数を経ると王位も関東鎌倉に移り、鎌倉に政権があること自体がとうぜんのようになった事実に、人心の権力志向と民衆は生きていく糧をもとめて、活発に蠢いている、現実の社会状況をのべています。日蓮聖人は「立教開宗」後に、布教の拠点として選んだのは京都ではなく、鎌倉に決めたのは、国を動かす為政者の存在を、この鎌倉遊学において看取したからです。

 日蓮聖人が鎌倉にでた翌年の延応元(一二三九)年の二月二二日に、後鳥羽上皇が六〇歳にて隠岐で崩御します。この報せは三月一七日に鎌倉に届き、この訃報を聞いた泰時は、四月二五日に心中錯乱の病になり苦しみます。一二月五日には「承久の乱」のときに朝廷の勧告に逆らい、義時に加勢して東海道軍に従軍した、三浦義村が脳溢血で頓死します。それから四〇日ほど過ぎた翌年一月二四日に、同じく東海道軍の大将であった連署北条時房が、早朝に発病して夜半に急死します。そして、泰時は信州善光寺に六町六歩の水田を寄付して、弥陀に病気平癒を頼んでいましたが、それも虚しく錯乱は回復しないまま、仁治三(一二四二)年六月一五日、六〇歳にて没します。これに同調するかのように、同年九月一二日に佐渡に配流となっていた順徳上皇が崩御します。

日蓮聖人は「承久の乱」の、上皇方の惨敗を清澄入山の動機、出家の動機として抱いていました、奇しくも日蓮聖人が鎌倉に遊学した四年のあいだは、このように、「承久の乱」の正面軍の大将三人が、次々に変死したときに重なっていました。また、この鎌倉遊学期に首謀者達が変死し、それを目の当たりに風聞したことは、臨終相に堕獄や罪業意識をもっていた日蓮聖人にとって、大きな影響をうけたと思われます。

日蓮聖人は学問を目的に鎌倉をめざしましたが、もとより、「現世安穏」の国家を志向していたので、幕府内部の実情に注視したと思います。しかし、執権泰時は義時や時頼のように策謀家ではなく、日蓮聖人が鎌倉にいた四年間は、平穏なときであったといいます。

一八歳から二一歳までの四年の鎌倉在住において、鶴岡八幡宮の経蔵で一切経を閲読したといいます。また、仏教のみではなく政治・経済・文化の動向を見聞し、庶民の生活など、様々な知識を充分に得たことでしょう。日蓮聖人の「遺文」に、庶民文化にふれた教訓が多いのも、この青年時代に豊富に経験したことが生かされたといえましょう。また、向学心が強く仏道に精進したことが、のちに、鎌倉に拠点を求め協力者を得て、弘通を始めることに繋がっていくのです。

日蓮聖人が鎌倉に入ったころは、比叡山と園城寺の内部抗争はつづいていましたが、南都僧徒の強訴はおさまりかけたときでした。幕府は寺院の「師資相承の法規」を定め(歴仁元年一二月)、僧徒の武装や博奕、代官などの官位を競望することを禁止(延応元年四月)しています。これらは、比叡山・園城寺・興福寺・東大寺などに、武装化をさせないための対策でした。

また、翌延応元(一二三九)年五月に、幕府は人身売買を禁止しています。わが子などを売買するほど、庶民の生活が困窮していた世情をうかがえます。仁治元(一二四〇)年二月に、幕府は保奉行人をおき、市中の禁制を定めています。一〇月に巨福呂坂、一一月に朝比奈の切り通しを開削しています。また、辻に篝屋を設置し市中の治安に苦慮していました。

仁治二(一二四一)、日蓮聖人二〇歳のときに、鎌倉大地震がおきています。三月には大仏殿が上棟します。また、同月に鎌倉市中における僧徒の帯剣を禁止しています。没収した刀剣類は大仏に施入させたといいます。八藤原定家が八〇で没しています。

 幕府は頼朝が定めた年中行事を行なっていました。朔旦の鶴岡宮奉幣・正月八日営中の心経会・箱根の二所詣・八月一五日の鶴岡八幡宮の放生会などです。幕府は新たに寺院を建立していましたが、頼朝いらい鶴岡八幡宮を中心とした年中行事を執り行うことにより、御家人の統一を図っていたといいます。

鎌倉遊学時の執権は泰時でしたが、建長五(一二五三)年の立教開宗の時は、五代目の時頼が執権となっていました。その後、長時が四年ほど執権となり、政村が一二六四年から一二六八年まで、時宗がその後を引き継ぎました。

日蓮聖人が直接、関わりあったのは第五代の時頼から、政村・時宗でした。さきにふれたように、鎌倉遊学中に北条氏一族のなかの、「承久の乱」に関わる三人が急死や病没しています。北条一族と御家人の確執もつづき、日蓮聖人は天災の惨劇をじかに経験します。このような時代の節目となる、社会状況のなかに修学をしていたのです。

○鎌倉における修学 

日蓮聖人が鎌倉に入られた、暦仁元(一二三八)年三月に、遠州の僧浄(定)光が幕府の下知状を携え勧進しながら、八丈の木造阿弥陀大仏の坐像を深沢に安置したといいます。(『吾妻鏡』・『東関紀行』)。

『吾妻鏡』は治承四(一一八〇)年の源氏の挙兵から始まり、文永三(一二六六)年の宗尊親王の送還までを記録しています。この『吾妻鏡』によると、浄光は流浪の僧で諸国を勧進して歩き、三代執権の泰時の援助をうけて、歴仁元(一二三八)年三月から阿弥陀大仏と大仏殿を造り始め、五年後の寛元元(一二四三)年六月一一日に、開眼供養の落慶法会をおこなっています。泰時は完成を見ることなく前年の六月に六二歳にて没しています。

当初の大仏は木造で宝治元(一二四七)年九月一日の台風により大仏殿が倒壊しています。このとき「宝治合戦」で本堂に退避した武士が、崩壊とともに圧死しています。建長四(一二五二)年に、あらためて、木造に代えて金剛の大仏が造り始められ、完成は文応元(一二六〇)年から文永元(一二六四)年ころといわれています。一説に、当初の木造は現存像の鋳造原型ともいいます。

この大仏は歌人の与謝野晶子が、「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」と、詠んだ高徳院の大仏のことで、別名「鎌倉の大仏」といわれる、国宝の銅像阿弥陀如来坐像(像高一一.三九b)として有名です。

大仏殿の建物は室町時代の津波で海に流され、それいらい、長谷の高徳院の本尊として露座のまま今日に至っています。創建時は大異山浄泉寺といい、大仏の右ほほに金箔の跡があることから、創建のときは全身が金箔に覆われていたようです。大仏造立については不明なことが多く、一説に源頼朝の意思を稲多野局が計画したといいます。

一般的には北条得宗家を中心として造像されたといわれており、八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来とする本地垂迹思想をもとに、「王法仏法相依」の新たな鎌倉幕府を樹立し、武家政権の表徴としての大仏だったのです。また、大仏造立は西国にたいして、東国鎌倉の権力を誇示することになったのです。

これよりまえの、貞観元(一二三二)年に念仏者の住阿弥陀仏が、和賀江島を築いていました。和賀というのは材木座の古名で、材木の運送をしていた港のことをいいます。遠浅のため強風が吹くと難破船がでて難儀していたので、これを改善し諸国からの物資の搬入を容易にし、鎌倉を発展させる築堤がおこなわれました。平盛綱が監督となり七月一五日に起工し、八月九日に竣工しています。この和賀江島の修繕をするために、着岸する船から関銭を受け取ることを始めたのが忍性良観です。そして、極楽寺の長老がこの任についたのです。

このように、日蓮聖人が鎌倉に遊学された暦仁元年は、大仏の造立が始まったころであり、和賀江島が開港し鎌倉が活気に満ちたときでした。日蓮聖人は天台・真言、浄土宗の教義をはじめ、新たな禅について本格的に修学する目的をもって鎌倉に入りました。日蓮聖人はどのような心境で、この阿弥陀仏の大仏造立を見ていたのでしょうか。

日蓮聖人はこののち、鎌倉にて立教開宗の活動をはじめます。それは建長五(一二五三)年を過ぎですので、偶然とはいえ、鎌倉に入るときには大仏造立と重なっており、大仏造立については不明が多いこの事業を、日蓮聖人は眼前にあるそれを、どのように見られていたのでしょうか。

 鎌倉に建立されていた寺院は、頼朝が父義朝の菩提のために建てた南御堂勝長寿院と、戦没者の怨霊を鎮めるために建てた二階堂永福寺、実朝が父頼朝の報恩のために建てた大蔵大慈寺、政子が義朝の邸跡に建てた寿福寺、それに、鶴岡八幡宮がありました。

この当時、天台学の学匠には丹後律師頼暁・座心房円信・頓学房良喜・文恵房無本覚心(臨済宗)などがいました。天台宗台密では、功徳流の快雅・法曼、三昧両流の成源・小川僧正忠快、葉上流の栄西の弟子行勇などがおり、幕府の御用祈祷師となっていました。のちに、鶴岡八幡宮別当となった隆辨がいました。

真言宗東密では、忍辱流の定豪(東寺長者、一一五二〜一二三八年)と、その弟子の定清がいました。また、鎌倉の三大寺社といわれた勝長寿院(浄土宗)・永福寺・鶴岡八幡宮寺をはじめ、大蔵杉本寺(天台宗)などは、天台僧や真言師が進出してきて、別当や供僧となっています、また、京都からも鎌倉に往来していました。

法然門下の浄土宗については、さきにのべたように、隆寛の弟子智慶が長楽寺におり、日蓮聖人の「遺文」に智慶の名がみえます。聖光辨長の鎮西義や弁阿の弟子然阿良忠も進出していました。『浄土九品之事』(二三〇九頁)に、法然房源空の弟子として、隆寛・善恵(証空)・聖光(弁長)・法蓮・覚明(長西)・聖心・成覚(幸西)・法本の名前をあげているように、日蓮聖人が鎌倉に遊学したときは、法然の念仏信仰が台頭していたときにあたります。

 幕府は年間の仏教儀礼をいくつか行なっています。正月は幕府内で般若心経を読誦する心経会が行なわれ、幕府の安全を祈ります。鶴岡八幡宮の別当などが導師となり将軍が出席します。三月三日は鶴岡八幡宮で一切経会があり将軍も列席します。鶴岡八幡宮は源氏の氏神ですが、若干の神官と多数の倶僧がいました。これは、北条氏に実権がうつるに従い、幕府守護の公的な寺院に変わっていったためです。

毎年八月一五日に放生会をおこない、このとき将軍は多くの御家人を従えて参列します。八月一日から一五日までを殺生禁断とし、一五日の放生会に舞楽が行なわれました。これらの儀礼は、ほとんどが貴族社会から受け継いだものであったといいます。

日蓮聖人の鎌倉における細かな行動は不明です。清澄寺が天台宗の末寺であるので、天台系の寺院を紹介され、そこで学僧として待遇されたと思われます。長期にわたる遊学ですので、在院生として山内の奉仕にあたり、法座に出仕して生活費の支給をうけていたか、清澄寺を通して学費が送られていたことでしょう。また、どこで何を学ばれたのかも不明ですが、「祖伝」を参考に鎌倉在住についてみますと、日蓮聖人は鎌倉に入り、最初に鶴岡八幡宮に詣でたといいます。

鶴岡八幡宮は頼義が安倍氏攻撃のとき、源氏の氏神である石清水八幡宮の分社を、由比ガ浜の海辺に祭ったのがはじまりです。その子息の八幡太郎義家も、鎌倉に館をかまえており、頼朝が鎌倉入りを果たした時に、現在の地に移しています。『貞永式目』の第一条に、「神社を修理し祭祀を専らにすべき」ことを定めているように、幕府は神祇信仰を武家の心情としていました。

また、源氏の氏神としてだけではなく、武家の守護神であり関東の総鎮守と崇められほどの象徴となっていました。鶴岡八幡宮は元の名をを八幡宮寺といい、神道に仏教が混在していて、とくに、真言宗が勢力をもっていました。源実朝の発願により建暦元(一二一一)年一〇月一九日に、永福寺に宋本一切経五千余巻の供養があり、鶴岡八幡宮の経蔵には南宋版の一切経が収まっていました。また、宋本一切経と共に竹渓が来朝し、日本に居住して鶴岡八幡宮の経蔵の経司となって扇ヶ谷に住みました。その子孫は神尾伊織といい、日蓮聖人が鶴岡八幡宮の経蔵に入蔵したおりに、面識をもったと思われます。

このように、鶴岡八幡宮は神祇信仰と、八幡宮寺という寺院の性格を合わせもっていました。実態は密教の修法を行う仏教が主体で、東寺と園城寺の僧が別当や供僧をしています。鶴岡八幡宮は別当を上首として、供僧や神主が奉仕する宮司の制をもち、別当は寺門の三井寺系が継いでいました。別当や供僧が神主よりも上位にあったのです。巨福呂坂を入っていくと、御谷(おやつ)という谷戸(やと)に、供僧が住む房が二五房ありました。明治の廃仏により、神仏分離のため仁王像は寿福寺に移され、手足の関節が鎖につながれた、弘法大師の鎖大師像は青蓮寺に移され、仏像・仏具・経巻なども処分されています。

日蓮聖人は『諫暁八幡抄』に、八幡大菩薩の本地について、

本地は不妄語の経の釈迦仏、迹には不妄語八幡大菩薩也。八葉八幡、中台は教主釈尊也。四月八日寅日に生、八十年を経て二月十五日申の日に隠させ給。豈教主の日本国に生給に有ずや。大隅正八幡宮石文云昔在霊鷲山説妙法華経今在正宮中示現大菩薩等云云。法華経云今此三界等云云。又常在霊鷲山等云云。遠は三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近は日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也。今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉やうにもてなし、釈迦仏をすて奉、影をうやまつて体をあなづる。子に向て親をのる(罵)がごとし。本地釈迦如来にして月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説給、垂迹日本国生ては正直の頂にすみ給」(一八四八頁)

と、のべているように、釈尊の化身として八幡大菩薩を尊崇しています。「正直の頂にすみ給」と純粋に受容している日蓮聖人にとって、八幡大菩薩は特別な存在であったので、鶴岡八幡宮に参詣して仏道成就を祈られたことでしょう。

この鶴岡八幡宮寺の別当は、創建のときに園城寺系の円暁が補任し、このあとの五代まで園城寺が別当についています。六代は勝長寿院の別当であった定豪が就きます。定豪は東寺系の僧で、このあと八代まで東寺系の僧が選ばれています。(『鶴岡社務職次第』)

 (日蓮聖人の当時の別当職)

  六代  定豪  東寺出身  一二二三〜二四年補任

  七代  定雅   々    一二二四〜二九年補任

  八代  定親   々    一二二九〜四七年補任

  九代  隆弁  園城寺   一二四七〜八三年補任

 このように、東寺と園城寺が別当に就き実験を握っていました。清澄寺は山門派に属しますが、日蓮聖人は、比叡山にいたおりにも園城寺に出入りしているので、鶴岡八幡宮にも自由に滞在できたと思います。

 この八幡宮の九代になる別当が隆弁です。隆弁は三七年という長い在任でしたので、まさに日蓮聖人と同時代に生きた僧といえます。『吾妻鏡』(建長三年五月一五日条)によると、隆弁は時頼の正室の安産祈願をし、時宗の誕生日を当てたといいます。これにより時頼の信頼を得ました。

隆弁は三井の寺門派の僧ですから、比叡山の山門派とは対立した立場でした。鶴岡八幡宮に補任されていたこのときの供僧は二七人おり、内訳は寺門派二〇名、東寺六名、山門派はたった一名といいます。幕府が重用したのは寺門派と東寺の密僧であったことがわかります。しかし、山門派をまったく拒絶したわけではなかったのです。

これは、幕府と比叡山との関係を知る手がかりとなります。天台僧として正統天台への復帰を心がけ、鎌倉を弘経の拠点とした、日蓮聖人の立場にも影響を与えていたことがわかります。

ただし、日蓮聖人の天台僧としての立場は山門にありながらも、三井園城寺にも赴いて修学をしていたことから、鎌倉市中の天台僧とは円滑であったという意見もあります。この根拠は天台僧から経論章疏を借り出していることや、法華八講の日取りを問い合わせているところにあります。(高木豊『日蓮ーその行動と思想ー』増補改訂版四八頁)。

さて、さきにものべたように、日蓮聖人は課題をもって鎌倉に入っています。それを、のべたのが『妙法比丘尼御返事』です。

「幼少より名号を唱候し程に、いさゝかの事ありて、此事を疑し故に一の願をおこす。日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習見候はばや。又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申宗どもあまた有ときく上に、禅宗・浄土宗と申宗も候なり。此等の宗々枝葉をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思し故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至まで二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習回り候し程に、一の不思議あり。我等がはかなき心に推するに仏法は唯一味なるべし。いづれもいづれも心に入て習ひ願はば、生死を離るべしとこそ思て候に、仏法の中に入て悪く習候ぬれば、謗法と申す大なる穴に堕入て、十悪五逆と申て、日々夜々に殺生・偸盗・邪婬・妄語等をおかす人よりも、五逆罪と申て父母等を殺す悪人よりも、比丘比丘尼となりて身には二百五十戒をかたく持ち、心には八万法蔵をうかべて候やうなる智者聖人の、一生が間に一悪をもつくらず、人には仏のやうにをもはれ、我身も又さながらに悪道にはよも堕じと思程に、十悪五逆の罪人よりもつよく地獄に堕て、阿鼻大城を栖として永地獄をいでぬ事の候けるぞ。譬ば人ありて世にあらんがために、国主につかへ奉る程に、させるあやまちはなけれども、我心のたらぬ上、身にあやしきふるまひかさなるを、猶我身にも失ありともしらず、又傍輩も不思議ともをもはざるに、后等の御事によりてあやまつ事はなけれども、自然にふるまひあしく、王なんどに不思議に見へまいらせぬれば、謀反の者よりも其失重し。此身とがにかかりぬれば、父母兄弟所従なんども又かるからざる失にをこなはるる事あり。謗法と申罪をば、我もしらず、人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思て候程に、此人も又此人にしたがふ弟子檀那等も、無間地獄に堕る事あり」(一五五三頁)

日蓮聖人の課題は、仏教の宗派はたくさん林立しているが、所詮は一法で一つの教え、すなわち、一経に集約されるものではないのか、しかも、仏教を正しく理解しなければ、悪道に進み地獄に堕ちると説いているのは真実なのかということでした。

また、『破良観等御書』に、

「日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此願を立。其所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其後、先浄土宗・禅宗をきく。其後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども、我身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何の宗なりとも偏党執心あるべからず、いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用べし。論師・訳者・人師等にはよるべからず。専経文を詮とせん。又法門によりては、設、王のせめなりともはばかるべからず。何況其已下の人をや。父母師兄等の教訓なりとも用べからず。人の信不信はしらず。ありのまゝに申べしと誓状を立しゆへに」(一二八三頁、五五歳)

と、それらの不審を払拭するために、最初に浄土宗と禅宗の教相から学び始めたとのべています。

『註画讃』によると、最初に浄土宗の大阿について学んだといいます。しかし、説法を聞いた程度であるともいい、確かなことではありません。大阿は法然が比叡山に出した、「七箇條起請文」の一八九名の署名中、四八人目に数えられる人物ですが詳細は不明です。

また、聖光門下の関東浄土宗の大家で、法然の孫弟子になる然阿良忠が、材木座佐介谷の蓮華寺において念仏を広めていたので、その然阿に念仏を学んだともいいます。その良忠から『撰択本願念仏集』を与えられ、念仏の本義を学んだともいいます。

いずれにしても、浄土宗の教学は『南条兵衛七郎殿御書』に、

「法然善導等が書きおきて候ほどの法門は、日蓮等は十七、八のときより知りて候き。このごろの人の申すもこれにすぎず」(三二六頁

と、浄土の元祖の教えは、この鎌倉遊学の一七、八歳のときに全てを理解したとのべています。そして、その弟子たちが鎌倉にて念仏信仰を説いているが、元祖法然や善導たちの浄土教の教理を超えたものではないと喝破したのです。

 禅宗については、さきにのべたように、鎌倉遊学時は禅と密教を兼ねた、「禅密兼修」の祈祷僧に近い存在でした。栄西に関して「遺文」に記載がないのは、栄西が天台密教葉上流の開祖で、密僧とみていたという指摘があります。鎌倉の寿福寺で禅を学ぶとしたら、栄西の弟子退耕行勇(一二四一年示寂)か、その弟子の了心ですが、両者ともに学問的な理解は浅いものでした。日蓮聖人が批判した禅宗は大日能忍の達磨宗でした。能忍の没後は弟子の覚晏が継ぎ、大和の多武峰で禅を教えています。蘭渓道隆はまだ鎌倉に来ていません。

日蓮聖人は鎌倉に学問を修めに来ましたが、日蓮聖人の成仏にたいしての質問に答え、疑問を解決してくれる碩学はいなかったといえましょう。遊学中の鎌倉における仏教界は、北条氏も庶民も念仏を唱え浄土宗が興隆していたときで、禅宗はまだ盛んになっていませんでした。旧来の天台宗や真言宗の祈祷仏教も台頭していましたが、幕府は教団としての比叡山や、興福寺などの僧徒に苦慮していたときでした。

遊学中の日蓮聖人は、さきにのべたように、幼少いらい疑問をいだいていた浄土宗を修学し、禅宗の教義にも到達しています。鶴岡八幡宮や寿福寺などの諸寺院に入蔵して、仏教を研鑽されたと思われます。『本化別頭仏祖統紀』によると二〇歳のときに鶴岡八幡宮の経蔵に入り、一切経を閲読したとあります。一切経は約五千巻ありますので、これを熟読し終えるには相当の年数が必要と考えられます。また、『元祖化導記』の「御学問発心」のところに、

「ある記にいわく初めに浄土宗を習うて本山に還り寺僧等にこれを教う。その後、念仏者の臨終において不審ありて浄土宗を捨つ。又、諸国を廻りて律宗を習い給へり、しかるに三衣一鉢を帯び律義を守ると雖も小乗戒においては成仏の道なきの間、すなわちこれを捨ておわんぬ云々」

と、浄土宗・禅宗ののちに律宗や法相宗などの、旧仏教についても学ばれたことが記載されています。好奇心の旺盛な青春期にあった日蓮聖人は、仏教いがいの分野においても視野を広げたことでしょう。

さて、仁治三(一二四二)年六月一五日に、「承久の乱」の総大将をした泰時が没します。時を同じくして、日蓮聖人は鎌倉遊学の期間が四年と定められていたのか、自分の判断によったかは分かりませんが、鎌倉における一定の成果を得て帰路につく決心をします。鎌倉の各寺院にて修学した経歴と実績をもって、故郷の人々が期待を持って待つ清澄寺に帰山されたのです。

そして、清澄寺に帰った半年後に、鎌倉遊学の成果として、『戒体即身成仏義』を著述します。奥書に、「安房国清澄山住人蓮長撰」と、蓮長の名で書かれています。日蓮聖人が最初に書かれた著述となります。