79.比叡山遊学ー三塔の学風

■第五章 比叡山遊学

◆第一節 三塔の学風

○三塔の成立について

比叡山は延暦七(七八八)年に最澄が建てた一条止観院がはじまりで、とうじは薬師堂とよばれ右に文殊堂、左に経蔵を建て、これを総称して比叡山寺といいました。五代円珍が仁和三(八八七)年に九間四面の堂に建てなおし、正面中央の五間を薬師堂とし、その南側二間に経蔵、北側を文殊堂とします。寛文年間(一六二四~一六四三年)に改築されますが、この型式は現在に伝わっているといいます。日蓮聖人が比叡山に入られたときは、このような根本中堂であったと思われます。

最澄の没後、弘仁一四(八二四)年に、嵯峨天皇より延暦寺の寺号が下賜され、これより比叡山延暦寺と呼称されます。寺名よりも比叡山の山号の呼び名が通称として使われることが多いといいます。

 さて、最澄は弘仁九(八一八)年に日本の六所に宝塔院を建てました。これを「六所宝塔」といい、東方安鎮の上野宝塔(上野国緑野郡)、南方安鎮の豊前宝塔(宇佐郡)、西方安鎮の筑前宝塔(筑紫郡)、北方安鎮(下野宝塔(都賀郡)、それに、畿内の山城宝塔(比叡山上、山城国境)と、近江宝塔(比叡山上、近江国境)をいいます。比叡山の山城と近江を「叡山の東西両塔」と称し、のちに円仁(第3世 慈覚大師)がが横川に根本如法塔を造り、これらを東塔・西塔・横川と呼び、比叡山の三部組織へと発展します。

 また、最澄は比叡山に「九院の制」という伽藍配備を立てました。最澄の存命中にできたのは、止観院(根本中堂)・八部院(妙見堂)・山王院(千手堂)の三院で、残りの六院(安心院・総持院・四王院・戒壇院・西塔院・浄土院)は、滅後四〇年間に建立されています。この九院が発展して「十六院の制」となりますが、実際は九院と重なる五院は建立されませんでした。

 止観院の堂内については、鎌倉後期とされる『山内堂舎記』や『叡岳要記』『九院仏閣抄』によりますと、

最澄が虚空蔵尾の峰の霊木で造った、五尺五寸の薬師如来と、六代座主の惟首の造った同高の像、ほかに二尺の七体の仏像が安置されていたといいます。

 十六院いがいに大講堂が建てられており、九間の建物で八尺の毘蘆遮那仏が安置されています。また、五間一面の経蔵があり、ここには、最澄が書写した一切経や最澄の資具が納められ、とくに、八幡神から賜ったという「紫の衣」が納められていました。

 西塔には二代円澄が建てた釈迦堂があり、三尺の半金色の釈迦仏を安置しといます。これが西塔中堂となります。また、最澄が法華経を納経したという四尺五寸の相輪橖があります。

 横川に円仁が七間の根本観音堂(首楞厳院・横川中堂)を建てます。一八代良源のころは火災が頻繁に起き、根本観音堂も火災のため再建しています。また、楞厳三昧院(横川講堂)を建て、良源の住房である定心房には弥勒菩薩を安置しています。良源はこの房舎において毎年四季にわたって講義を行っています。そして、横川の学生を集めて議論をさせ、優秀な者には階程を定めて学問を奨励しています。これにより「四季講堂」とよばれました。良源の没後は良源の影像を安置し横川大師堂と称されました。

 東塔には無動寺の創建がありました。円仁の弟子の相応が不動明王を祀り、回峰行修験の本拠となります。のちに天台別院となり、延喜一五(九一五)年に無動寺大堂が寄進されています。

このように、三塔九院十六谷とは東塔に五谷、西塔に五谷、そして、横川地区の六谷をいいます。これらは行政的に区分され比叡山の重要な組織となっていました。そして、延暦寺本院の主となるのが天台座主で、座主は三院の検校から選ばれていました。

比叡山と朝廷とのつながりは深く、比叡山には天皇の一身を守るための、護持僧が選ばれていました。学徳にすぐれ祈祷の修法にも勝れた僧が護持僧となります。常に清涼殿の二の間に伺候して、天皇の一身を護持することから夜居の僧ともいいます。

清和天皇の護持僧には、慧亮和尚(八〇一~八六〇年)・慈覚大師(七九四~八六四年)・相応和尚(八三一~九一八年)がおり、智証大師(八一四~八九一年)は陽成天皇を護り、増命僧正(八四三~九二七年)は宇多天皇を、尊意僧正(八六六~九四〇年)は朱雀天皇を護るために祈祷に専念した護持僧でした。そのなかでも名声が高かったのが、東宮護持僧の良源(九一二~九八五年)で、慈恵大師・元三大師といわれ比叡山中興の祖師と仰がれています。

良源は承平七(九三七)年、興福寺維摩会での論議において、威儀僧として興福寺の義昭と対論し説伏しました。これに不満をもった興福寺の僧が、裏頭帯杖して良源をおどしたというように、この時代には私兵としての僧兵が多数みられます。座主在任中に、さきに挙げた根本観音堂をはじめ、大講堂や文殊楼などが炎上しましたが、山門の綱紀粛正をはかった二十六条式の制定をおこない、旧観以上の再建をしたことで尊敬されています。天暦八(九五四)年の楞厳三昧院の建立など、これらの復興は、右大臣藤原師輔(九〇九~九六〇年)などの藤原摂関家の援助を仰いだもので、良源はこの支援により「三塔鼎立」の体制を確立していきます。

とくに、「広学堅義」の宣下を賜ったことは、比叡山に大きな恩恵をもたらします。堅義とは国家試験のことで、この堅義に合格することにより、僧侶が諸国の国師や僧綱に任じられました。とうじは、一年に三回行なわれ、審議の場所は興福寺・薬師寺・大安寺に決められていました。しかも、堅義に参加できる人数も限られ、ほとんどが奈良の諸大寺に所属する僧侶に限定されていました。

良源はこの堅義を、比叡山においてもできるように申請し、康保三(九六六)年に許可をえました。この「広学堅義」を新設したことにより、住僧はみずから学問と修行に励み講義や談義など、実践的に法論をかわし天台宗の興隆に励んだといわれます。また、「勧学講」を開き学問僧の養成に貢献しています。これにより全国から比叡山に多くの修学僧が集まり、三千坊といわれるほどの学山になり仏教が興隆したのです。

また、良源と法相の仲算との「応和の宗論」(九六三年八月二一~二五日)は、宮中の清涼殿にておこなわれ、「一切成仏」と「「二乗不成仏」を論じます。この問答はすでに最澄と徳一の間でおこなわれていましたが、規模と論戦の激しさで有名です。この宗論は決着せずに、仲算は六宗の長官となり、良源は内裏に入り座主に補せられていきます。このころから比叡山に皇族や公家の子弟が入山するようになり、門跡寺院を形成していく端緒になり、智証門徒との紛糾を来たします。

また、良源は天延二(九七四)年に、祇園感神院を延暦寺の別院にしようとしており、それまでは奈良興福寺の末寺であったので、感神院の別当は興福寺と結託して反対しました。良源は武芸第一といわれた睿荷に命じて、武力で興福寺方の別当を追放しています。これが延暦寺の僧兵の始まりといわれます。その後も延暦寺の僧兵は、嘉保二(一〇九五)年にはじめて、日吉社の神輿を担ぎだして入洛強訴をしました。

専制君主といわれた白河上皇(一〇五三~一一二九年)も、「南都北嶺の強訴」といって恐れたように、延暦寺や園城寺、興福寺・東大寺など権門寺院間の紛争や訴訟は、殺人や放火などを伴う戦争そのものでした。建保二(一二一四)年に、延暦寺の衆徒が園城寺(三井寺)を襲撃放火し、その翌年には、園城寺軍が延暦寺東坂本を襲撃放火し、幕府軍も参戦して一般住民にも被害が及んでいます。

中世社会では政府や警察の力が弱体であったため、紛争は当事者どうしが実力と相対で解決し、それでも解決しない場合に検非違使や、守護・幕府に犯人をひきわたすという手続きがおこなわれていました。これを自力救済といいます。そのため喧嘩両成敗の均等の原理が重視されていました。このように、中世社会では国家や社会などの公権力が弱かったので、紛争や利害対立がおきると、公権力による裁判で決着するよりも、当事者の実力によって決着をみる、自力救済が優先する社会でした。それゆえ、寺院も戦闘集団そのものであったのです。僧兵や衆徒にみられる紛争の原因は、宗派そのものの確執よりも、社会の歴史的性格に起因するもののほうが大きかったと言います。

良源には恵心院源信・檀那流覚運・多武峯の僧賀(増賀、九一七~一〇〇三年)・僧都禅瑜の四哲を始めとして、ほかに、第一九代座主、藤原師輔の子息である慈忍和尚尋禅(飯室座主、九四三~九九〇年)・兜率院覚超、書写山性空(九一〇~一〇〇七年)などの優秀な門下が輩出し、比叡山の発展に寄与します。

このように、良源の比叡山における経済的な貢献は大きく、また、学生の綱紀の粛正や学問の奨励をしますが、一方、さきにふれたように、尋禅を後継者としたことから、これらの権門子弟は各自に院坊を建て、特別待遇をうけ綱紀を乱していきます。背景にある権威は政治経済界にも波及するので、この特別な待遇が門跡を形成し、この門跡から天台座主に上る傾向になります。この門跡寺院は中世になると洛中洛外に移転し、代表となるのが天台宗の三門跡寺院とよばれる、青蓮院(粟田御所)・円融房(梶井殿、梶井門跡、梨本門跡、三千院)・妙法院です。これに、毘沙門堂と曼殊院(竹の内門跡)を加えて天台宗五門跡・京都五箇室門跡といいます。

また、比叡山は「四宗兼学」であり、それぞれの部署に専攻分野を持つ、記家・経家がありました。とくに、比叡山の中興といわれ、三門跡のうち青蓮院の座主慈円(一一五五~一二二五年)は、天台座主に四度就任し、建久四(一一九三)年一月四日に後鳥羽上皇の護持僧に補せられていました。後鳥羽上皇の挙兵に反対し、『愚管抄』はそのために書いたといいます。「承久の乱」に朝廷の守護を密教によって祈祷し、『愚管抄』(「よのうつりゆくどうり」)を著して、天台宗興隆のため僧侶の育成をはかったといいます。(高木豊著「中世天台僧の学習」『鎌倉仏教の様相』所収二五〇頁)。門跡寺院の青蓮院は書道にすぐれ、三千院は声明音律を高めて文化的な貢献を、今日に伝えています。

一方、比叡山のなかには、慈覚・智証により広められた真言密教が盛んになります。山門派の横川兜率院覚超に始まる川流の密教と、東塔南谷の皇慶に始まる谷流の密教とが競われるようになり、比叡山中には真言口誦や身口意三密瑜伽の行法が、絶え間なく行なわれている環境でした。

さきにのべたように、良源の門弟である顕教の恵心・檀那の二流派が中世には八流派となります。これを、慧檀八流といいます。真言の密教の影響をうけたニ流は、十三流に分派して活況を呈したといえます。これを、最澄・義真の山家流をふくめて台密の十三流ともいいます。

 ルイスフロイスがHistoria de Iapam」にて比叡山を「日本の最高の大学」といい、また、中世テクノポリスといわれた環境を母体として、法然・栄西・親鸞・道元・律を相伝した俊芿、そして日蓮聖人を輩出し、鎌倉新仏教を開拓していくのです。