80.比叡山修学の環境について

○修学の環境について

比叡山は、京都府と滋賀県にまたがる大比叡山(八四八.三b)と、四明岳(八三八b)の双耳峰で、東に琵琶湖を見下ろし西南に京都市を一望し、滋賀県からは坂本、京都からは八瀬から登ることができます。

比叡山は広大な寺領荘園をもっていたことと、商業行為に深く関係し宋船の往来貿易によって、宋銭を取得していましたので経済的に裕福であり、かつ、政治的な勢力を持ち続けていました。

宋は建隆元(九六〇)年に、趙匡胤(ちょうきょういん)により、開封を都として建国され、建炎元(一一二七)年には、北方民族の金に攻められ臨安府に都を移しました。遷都をする以前の宋を北宋といい、以後を南宋とよんでいます。祥興二(一二七九)年三月一九日、「崖山の戦い」により最後の皇帝衛王は宰相陸秀夫ととも入水し、名実ともに元によって南宋は滅亡します。

しかし、平安中期から鎌倉中期にかけ、日宋貿易により日本が受けた文化や経済などの恩恵は大きなものでした。平氏が滅亡したあとは、日宋間の正式な国交ありませんでしたが、民間貿易は認められており、鎮西奉行が博多を統治してからは、御用商船の通行が行なわれています。北条得宗家は禅宗を保護したので、渡来僧は貿易船に便乗して来日しました。

蒙古が南宋を攻撃している時期にも往来していたので、逃避して来日した禅僧がいたのです。この僧たちが、蒙古襲来にあたり幕府がとった政策に影響をあたえました。有名な禅僧に蘭渓道隆・大休正念・無学祖元がいます。

これらの宋船により、大陸の動向が日本に伝えられ、世界の情報を得る政治的な機関として機能していました。それら各国の情報や文化は、つねに比叡山にもたらされていました。そこで、日蓮聖人はこの情報網により蒙古の動向を感知しており、その情報をもとに蒙古襲来を、『立正安国論』に予言的に書いたと風評されたのです。

さて、鎌倉の修学を終え清澄寺に帰山した日蓮聖人でしたが、『戒体即身成仏義』から推察できるように、幼少のころに誓願した八宗十宗の肝要を究め、なにが真実かを解明するには至りませんでした。

『妙法比丘尼御返事』に、

「幼少より名号を唱候し程に、いさゝかの事ありて、此事を疑し故に一の願をおこす。日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習見候はばや。又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申宗どもあまた有ときく上に、禅宗・浄土宗と申宗も候なり。此等の宗々枝葉をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思し故に」(一五五三頁)

と、のべているように、同じ仏教の中に八宗十宗があり、どの宗派が釈尊の真意を説いているのかという、仏教の肝要を知ることが誓願でした。

清澄寺が天台宗であることから、『法華経』に帰納するような学問をされて、清澄寺に帰ったことは自然なことで、『戒体即身成仏義』における天台の法華教学の知識は、それを裏付けるものという見方もできましょう。さきにみたように、浄土宗や禅宗については一七、一八歳ころに修学できたと述べており、合わせて六宗を修学したことも『戒体即身成仏義』から窺えます。経論釈などの典籍を中心に勉学をし、深義を碩学に尋ねたと思います。ここに言えることは、鎌倉における修学において八宗の肝要を習得したということです。鎌倉において最初に浄土・禅を習得し終え、つぎに六宗を習得し、さらに、天台・真言に進んだのです。

 八宗・十宗のうち、倶舎宗・成実宗は小乗であり、日本では三論宗と法相宗の付属でした。律宗も平安の初期に最澄が大乗戒を立てたことにより衰微しました。叡尊ら四人が、東大寺大仏の御前にて自誓受戒し、律宗を再興したのは、日蓮聖人が一五歳のときでしたので、このころは、それほど盛んではありません。

法相宗と三論宗も権大乗の枠の中で、華厳宗は真言・天台宗から、第二の法と退けられていましたので、残るのは真言と天台の二宗の優劣ということになりました。

つまり、八宗を習得し残る天台・真言の修学が不十分であったのです。「理同事勝説」に傾向し、口伝法門とのべているのはその証左です。二一歳の青年僧として、高度な学問を欲するのはとうぜんです。また、修行を積み人々を教化する僧侶を目指すのは必然的なことです。

これらの意志は道善房にも伝えられ、清澄寺の後継者としての認許のもとに、日蓮聖人の心は日本仏教の最高学府であり、清澄寺の本山である天台宗の根本道場、比叡山延暦寺に向かったのです。日蓮聖人の兄弟子たちは鎌倉に遊学したでしょうが、比叡山への遊学はしていないようです。日蓮聖人が比叡山に遊学を希望し、清澄寺の執事はその手続きを取ったはずです。

比叡山は碩学の集まるところであり、多くの経典や論釈が所蔵されていました。日蓮聖人はさらに十宗の奥義を極めなければ、納得できないという求道心をもち、そこに、必ず求める真実の教えがあると確信し、また、極めることを使命としていました。その、日蓮聖人の最大の課題は、『法華経』と真言宗の追求といえます。

「真言の初門」とみなしている天台の『法華経』と、弘法大師の「真言密教」を研鑽しなければならなかったのです。つまり、日蓮聖人においては、『法華経』と「真言密教』の学究が最大の目的であり、あるいは、比叡山留学期に、円頓戒を受けたという説があるように(高木豊著『日蓮の生涯と思想』六二頁所収)、鎌倉時代においても、東大寺や比叡山で受戒することは僧侶にとっての目標であり、『戒体即身成仏義』をみるならば、日蓮聖人においても、比叡山で受戒することが、目的の一つの理由といえます。

日蓮聖人は「依法不依人」による、仏教の解釈法を早くから学んでいました。これは、天台の影響を強く受けたことを示します。比叡入山は清澄寺の本山という理由だけではなく、自ら「四宗兼学」のなかで、天台の法華教学と「真言密教」を学ぶことであったと思われます。

さて、『報恩抄』に「五畿・七道」(一二一八頁)の名称がみえるように、日蓮聖人は東海道を歩いて比叡山に向かったと思います。「伝記」によると安房から鎌倉に入り、東海道を歩まれたといいます。

東海道は「うみ(海)つみち(道)」というように、太平洋沿いの交通路(現在の国道1号線沿い)です。当時は足柄古道という神奈川県の山北から駿河小山,御殿場を越えて沼津に抜ける間道を通行しました。

頼朝は文治元(一一八五)年一一月二八日に、「駅路の法」を定め、鎌倉より上洛する使者のために、馬と食料の供給を路次の荘園に定めており、もとより東海道は人馬の通る要路でした。はじめは京都を起点として一方的に東国に向かう道路だったのが、鎌倉幕府が成立してからは朝廷・六波羅府との使者の差遣や、年貢輸送に直結する街道となります。 

このため、幕府は可及的に距離を短縮する必要がありました。建長四(一二五二)年四月に宗尊親王が将軍宣下を受けて鎌倉に下向したときに三十の旅宿をあげています。また、鎌倉中期の紀行文学『東関紀行』(一巻。作者未詳)によると、仁治三(一二四二)年、八月一〇日ころに京都を出発し鎌倉に向かいます。ちょうど日蓮聖人が比叡山遊学の年にあたります。

ここに、東海道の宿駅を記しています。京都から野路・守山・鏡・番場・柏原・垂井・赤坂・墨俣・黒田・下津・萱津・矢作・豊河・橋本・池田・菊川・島田・岡部・丸子(静岡)・手越・興津・由比・蒲原・黄瀬川(沼津)・関本・藍沢・酒匂・懐島(茅ヶ崎)・鎌倉の順になっています。所要日数は十余日といいます。

『海道記』『十六夜日記』などによると、通例、十五、六日の旅程になっています。最も早い記録は、『吾妻鏡』によると、後白河院の薨去・将軍の兄九条教実の死去・北条泰時の出家・北条経時の死去・北条長時の死去を知らせるのに三日。四日を要したのは「承久の乱」・北条義時の卒去・「三浦一族の乱」とあります。到着時間は深夜から早朝というので夜中も疾走したことになります。

鎌倉と京都の距離は約四八〇キロ強といい、途中、木曽川・大井川・天竜川・安倍川・富士川などの河川が多く、渡舟・舟橋渡河技術も低く氾濫がたえなかったといいます。また、事件発生の時刻により出発の時間の早晩があります。気象条件により橋の断絶、渡船の中絶、雨天による悪路、月夜と暗夜によっても馬の速度に日数に支障がおきます。

 通例、一日に進む距離は、「馬は五十キロ。人は三二キロ、車は二〇キロ」といいます。約四八〇キロの距離を一日三二キロ歩くと一五日になります。日蓮聖人もこの行程で歩まれたと思います。一遍が萱津宿の甚目寺に滞在しており、のちに日妙上人により妙勝寺と実成寺が建立されています。

日蓮聖人は大津から琵琶湖を右にして坂本に入り、ここから比叡山に入山したと思います。坂本には最澄の生家があり、比叡山を開かれたのちに、両親にたいする報恩のため生源寺を建立しています。

仁治三(一二四二)年、日蓮聖人二一歳のときは、最澄が弘仁一三(八二二)年六月に没してから、四二〇年の歳月がたっていました。さきにのべたように、比叡山は最澄のときに東塔と西塔を開き、円珍のときに横川が開かれており、これを叡山の三塔といいます。東塔の根本止観院、西塔の宝幢院、横川の楞厳院を三院とよんでいます。東塔の根本止観院は、延暦寺の本院とするので別に無動寺を東塔の代表としています。無動寺のあるところが無動寺谷といい東塔に属し、円頓房はここにありました。

 比叡山の教風について、鎌倉初期の文献に、「我が山の学徒は十五歳に得度受戒し、初めの七年間は性相の学をなび、その後の七年間は天台を学び、その後の七年間は専ら止観の行を修し、以上二十一年間の修学の後に、広学堅義の大業を遂業(合格)して(一人前の天台僧侶となり)、その後、地方に下って大乗仏教を弘通すべし」と、定められていたといいます。(『比叡山と天台の美術』山田恵諦、一九頁)。

 そして、特徴的なことは論議という法門の演習が試されていたことです。とうぜん、論議に参加できるのは優秀な者であり、長老的な学匠が論題を与え質疑応答がくり返されたのです。「四季講堂」を模範とした

この論議は、祖師や先達の命日に講堂に集まり、本尊供養の法要として厳粛に行われていました。この論議が比叡山の三塔十六谷の各所で行なわれており、比叡山全体では月に百回以上になるといいます。要するに、比叡山の学徒は論議により実力を試され、かつ、論議に長けた教育を受けていたということです。

日蓮聖人が入山したころの比叡山は、東塔・西塔・横川の三塔はかわらず、「三千の大衆相会して」(『本化別頭仏祖統紀』六七頁)と、いうように規模が大きなものでした。比叡山の根本中道や、大講堂・経蔵などの堂塔伽藍は甍をつらねていました。ただし、智証と慈覚の門徒の紛争により比叡山も焼き討ちにあい、慈覚の本尊大講堂は焼失し、中堂だけが残っていたと、『報恩抄』(一二二〇頁)にのべています。

 『真言七重勝劣』(二三一六頁、朝師本)に、「三塔事」としてふれています。

「 三塔事

 置止観遮那二業。本尊薬師如来

中 堂―伝教大師御建立 延暦年中御建立王城ノ丑寅ニ当ル

     桓武天皇御崇重。天子本命道場云 

止観院 天竺霊鷲山云振旦天台山云扶桑比叡山云 三国伝燈仏法此極

本院

     鎮護国家道場云。本尊大日如来

講 堂―慈覚大師建立 承和年中建立。止観院西置真言三部是東塔云也

総持院  伝教御弟子第三座主

西塔

釈迦堂―円澄建立

宝幢院  伝教御弟

 横川

観音堂―慈覚建立

楞厳院          

比叡山の住僧については、円仁門流の山門派がしめ、比叡山は一〇世紀の良源座主いらい、貴族の子弟が多く学んでいます。住僧の人数については平安末期の『二中歴』に、「天台三千人、今案ずるに東塔一八一三人、西塔七一七人、横川四七〇人、清水寺三三三人」と、記載されていることから、全盛期には三塔あわせて三千人の学僧や、沙彌などが居住していたといいます。(高木豊著「中世天台僧の学習」『鎌倉仏教の様相』所収二六九頁)。また、近世初期の僧坊の数は東塔七五坊、西塔四八坊、横川二七坊といい、平安期にはこの数を上回るといいます。(村山修一著「比叡山延暦寺の開創」『伝燈』所収一〇一頁)。これらの住僧は三塔のなかに散在している、院や房舎に所属し、「例僧帳」に記入され、政所に管理されていました。

比叡山の学匠については、『浄土九品之事』(二三一〇頁)に、

「     宗源法印――――証真の嫡弟  竹中法印  隆真法印

 証義者――  大和の荘   

      俊鑁(範)法印―三塔の総学頭       桓生(椙生)

           三千人の大衆        聖覚

                         貞慶(貞雲)

           五人の探題         竜証(隆承)」

と、ここに「五人の探題」・「三千の大衆」・「総学頭俊範」など、比叡山の証義者をあげています。探題というのは法華会や維摩会などにおいて、論議のときに論題を定め統括する立場の人で、勅命によって補任される重職をあげています。

また、『法門可被申様之事』に、

「叡山の三千人は此旨を弁えずして王法にもすてられ叡山をもほろぼさんとするゆえに」(四五〇頁)

と、ここにも「叡山三千人」という表記があるように、大勢の僧が住んでいたことがわかります。

また、三塔の宗徒が集まって僉義をしている様子が、『天狗草子』という鎌倉後期の絵巻に見られます。西塔・東塔・横川の衆徒全員が集まって比叡山の大事を決する、いわゆる三塔会合の僉義をしていますが、これは座主の権威を失墜させるに至った悪僧の出現によります。

 門跡座主の下で延暦寺を構成する組織は、院家・学生・堂衆・公人に区分されます。院家とは上級の公卿の出身者で、居住する堂舎を院と呼んでいました。学生は衆徒ともいわれ、下級公卿や地方の豪族の出身者で、身体を清浄にたもち仏道と学問に励む僧侶をいいます。いわゆる籠山修行をする正式の天台僧をいいます。堂衆は学生の下にあって、学生に従事する中間法師のことをいいます。諸堂の勤行をはじめ、仏事一般の業務や法要にたずさわっています。公人は法師原といわれ、剃髪して僧侶の姿をしていますが妻帯した者で、財物の出納や諸大寺の供物の調進、境内の警備などの諸般の雑役を担った住人のことをいいます。学生を上方、堂衆を中方、公人を下方(僧)という呼び方もあります。

大まかには、比叡山の住僧を衆徒と呼び、仏教を学ぶ学生を大衆、雑務を担当する堂衆とにわけます。学生は貴族出身で学匠や要職につく者と、教団の運営と軍事集団として、延暦寺の山徒を形成する者があります。また、これとは別に、三塔のなかに所属するいずれかの、院・房の院主・房主の僧に師事して寄住した者がいました。つまり、院や房舎のなかにも在住僧と寄住僧がいたことになります。

 堂衆はしだいに在家に金銭を貸し付け富裕化します。そして、下僧を金銭により僧兵として従え、学生と対抗する勢力をもちます。これにたいし、学生も派閥の争いや僧兵をたくわえ強訴をおこなっています。平安末期から鎌倉にかけての院政期には、堂衆が勤行全般をおこない比叡山内において権力をもつようになります。

 鎌倉初期の中世になると、九条兼実の実弟である慈円は、無動寺千日行、葛川に回峰修験を行い、かつ、勧学講を行って粛清をしますが、天台座主の権威が衰え、比叡山内における学生と堂衆の対立、三塔の抗争などが続きます。あわせて、山門派と寺門派の対立が絶えることなく、焼け打ちや強訴を繰り返しています。

このように、比叡山の住僧の中には身分の高い貴族出身の僧侶と、主に警備を担当するため、長刀などの武器をもつ下方の僧兵が往来していたのです。これについて、『破良観等御書』に、

「慈覚と智証との門家等、闘諍ひまなく、弘法と聖覚が末寺と本寺と伝法院、叡山と園城との相論は修羅と猿と犬とのごとし」(一二八三頁)

と、のべているように、日蓮聖人はこのような南都・北嶺の争い、山門派と寺門派の葛藤、諸大寺の紊乱と僧徒の堕落という、仏説における末法の様相をまのあたりにしたのです。また、法然の浄土教の影響は比叡山の中にも及んでいて、比叡山の経済的基盤である荘園が、浄土宗側に寄進されていたといいます。、仏教界・朝廷・幕府がそれぞれの思惑をもち、混濁した歴史的渦中に、仏教の真実を求めて入山されたのです。

山門には源信の恵心流と覚運の檀那流があり、恵心流は椙生流と宝地房流、檀那流は慧光房流と竹林房流と毘沙門堂流に分かれていました。慧心流は本覚法門といって、仏の境地から一切衆生はそのまま仏であるという教えを説き、これにたいし、檀那流は始覚法門といって、凡夫より次第に修行して仏になるという法論的な教えを説いています。

『浄土九品事』に挙げているように、当時の学匠に、三塔総学頭の俊範法印と学頭の乗願房宗源(一一六八〜一二五一年、竹谷義)がおり、学頭に西塔円頓房の貞雲法印・隆承法印・公性法印・顕瑜僧正・寂範僧都・浄遍僧都などがいました。日蓮聖人は俊範に師事したといいますが、受講者という立場であったといいます。

俊範の父は大納言法印範源、祖父は中御門基俊の子、皇覚といわれます。南都に六年間遊学し六宗を修め、父の範源から慧心流椙生の附法を受けています。皇覚の弟子に皇円おり俊範は皇円の法兄になります。皇円は『扶桑略記』三十巻を編集した史家でもあり、また、法然に天台学を教えたことで有名です。皇円の甥が法然の高弟で多念義をたてた隆寛です。

俊範は弟子のなかに檀那流の学匠がいるのことから、慧心・檀那の両流を修めていたといいます。また、坂本の自房に不動尊を祭る護摩堂があることから、台密の教義や行法に通じていたといわれます。この東坂本の大和庄は、俊範が山門の探題に任じられた翌、健保元(一二一三)年に、『愚管抄』の著者慈円から与えられた所です。

『華頂門主伝』によると、慈円が青連院を後鳥羽上皇の皇子である弟子、朝仁(道覚親王)に譲るとき、天台学の学匠として、法印円能・大僧都聖覚と俊範が指名されており、俊範はこのとき三一、二歳といわれます。

総学頭とは比叡山の学事を総括する重要な役職で、山門第一の学匠であったことがわかります。俊範の学風については、念仏・禅・真言は法華経に劣るという立場で、日蓮聖人は入山後、俊範に器許されて東塔の無動寺ヶ谷にある円頓房に住し、俊範の学風に影響を受けたといいます。(山川智応著『日蓮聖人研究』第一巻)。また、貞治二(一三六三)年の日大上人の『日大直兼台当問答記』によると、俊範法印のもとで高度な天台教学を学んだといいます。

無動寺ヶ谷には、信長の焼き討ち以前に八五房あり西方ヶ嶽には六房ありました。そのなかの南勝房が俊範の房で、円頓房はその直轄でした。日蓮聖人いごに、円頓房に住したのが、傍若無人の学匠といわれた阿闍梨慶深や、関東天台の開祖といわれる尊海僧正などの秀才でした。

山門に属し日蓮聖人と同学に、俊範の四天王という実報房範承・正観院経海・行泉房静明・華林房俊承や、ほかに、尊海の師、信尊が相承をうけた、燈明院承瑜・実乗房教深などがおり、朝廷の法会に勤仕しています。(高橋智遍著『日蓮聖人小伝』七四頁)。日蓮聖人はこれらの学匠から、慧心・檀那流の教学をうけ、山門の学生と研鑽に励まれたと思われます。

日蓮聖人は、その後、横川の樺房華光房(現在の定光院)に寄住したと伝えます。この香芳谷の定光院が比叡山修行中の居住のところとわかったのは、比叡山の室町初期の古い絵図に、「華光房の日蓮石塔」と記されていたことによります。華光房に入ったのは清澄寺が横川の末寺であった関係で、末寺からの徴収にたいしての見返りとして、ここに寄住僧を許していたという説や、地方末寺寺院の後継者にふさわしい者に限り、受け入れたともいわれています。また、尊海の紹介があったともいいます。

(日本天台宗系譜略図『比叡山と天台の美術』三八五頁、清原恵光編)

      恵亮―理仙     恵心流      杉生流

最澄―円仁―     ―良源―覚超―勝範―忠尋―皇覚―俊範―日蓮聖人

      玄昭―覚恵     川流

   ――信尊―――――――――――尊海

 俊範――静明(行泉房流)―心賀――心聴・・・・・・・天海

―政海(土御門流)

  ―日蓮聖人

 この略図から、日蓮聖人は、円仁(山門派)・覚超(恵心流、川流)・皇覚(杉生流)の系譜であることがうかがえます。また、日蓮聖人と同門に、信尊・静明がいたことがわかります。

 信(心)尊は寛元年中(一二四三〜四七年)に武州河田谷に泉福寺を建て、門人の尊海が正安三(一三〇一)年に、後伏見院の勅により仙波に無量寿寺を建て、関東天台の本山としています。初期は談義所とよばれた寺院が多く、学統はおもに恵心檀那流の口伝法門など、天台諸派に広がり複雑になります。

さて、比叡山には荘園などのほかに、有力な外護者があり、その布施により維持運営されていました。供養料や灯油料、籠山僧の供米料など、さまざまな名目の布施としての収入により、経済的な安定を維持していました。

また、比叡山の籠山僧は持参金を持って入山しますが、持参金が不足すると生活費を調達する方法が用意されていました。それは、法会の出仕や朝廷の仏事に出仕することなど、日常の法会の中からの報酬である布施から補われていたといいます。

日蓮聖人が弟子の三位房に宛てた『法門可被申様之事』(四四八頁)に、三位房が比叡山のある房に寄住していて、講師として法門を説いたことを自慢した、という箇所があります。これは、比叡山に寄住しながら、講師として奉仕をし名誉や謝礼を受けた立場をあらわしているといいます。

また、房のなかには房主が伝領した所領があり、その収入が経済的基盤になっていたといいます。日蓮聖人の比叡山における生活費については、得度寺としての清澄寺から送金されたか、大尼や富木氏などの支援者から送られたかは不明ですが、いずれにしても、純粋に修学の学生として、比叡山の行事などに出仕しながら責務をはたし、学生として修学に精励したと思います。

比叡山の自然環境は、衆徒の日常生活に厳しいものであったといいます。最澄の「臨終遺言」に遵守した住居とは、上級の僧は小竹の円房に住み、中級の僧は方丈の円室に住み、下級の僧は三間の板室としています。古来より比叡山の名物は、「論・湿・寒・貧」といわれており、山中は冬の寒気と夏季の湿気が烈しく、食生活においても戒律に準じた質素な粗食であったといいます。

とくに、横川は山深く自然が厳しいところでした。山中に自生する薬草に詳しい者から、施薬などの漢方医療を教わり、また、仏書を読むだけではなく、祈祷を修法する験者として、気力・体力を養うため山岳修行をしていたことでしょう。佐渡・身延期の強靭な身心は、この比叡山において培われたのです。