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◆第二節 比叡山の修学○比叡山一二年比叡山に入った日蓮聖人は、始めに浄土院の奥に佇む最澄の御廟に詣でて、報恩感謝の供養をされたことでしょう。 日蓮聖人は比叡山において、一二年の修学をされましたが、その行動についての詳細は、ほとんどが不明といえます。比叡入山の目的は「諸宗の肝要を知る」こと、つまり、学生としての立場から、学的研鑽に精励することでした。比叡山は、「広学竪義」の学風を遵守して学生を指導し、天台宗を興隆させるための教育を目的としていました。優秀な学生には特別な配偶がなされていたと思われます。 また、比叡山では仏教学いがいにも、多岐にわたる講習がおこなわれていました。最澄の弟子、仁忠(一乗忠)の『叡山大師伝』に、最澄は若年において陰陽・医法・工芸を研鑚したことが記されています。さらに、天台宗の百科事典といわれる光宗の『渓嵐拾葉集』は、応長元(一三一四)年から貞和四(一三四八)までの、天台の行事や作法、口伝法門を集録した著述で、このなかに、医法・俗書・歌道・兵法・術法・作業・土巧・算術などが、行法聖・公慶僧都・義憲法印・智乗大徳などにより、専門的に研究されていたことが記されています。 このことから、比叡山における教育の領域は広く、卓越した知識を所有していたことがうかがえます。衆徒は自由に専攻して能力を生かしたことと思われます。裁判訴訟についても、専門部署があり常に稼働していたことが推測できます。日蓮聖人が領家と東条景信の訴訟を扱ったのは、父親の教育を受けたのではなく、比叡山において専門知識を学んでいたとも考えられます。 日蓮聖人は比叡山を中心に、三井園城寺・高野山・四天王寺・京都諸宗寺院などを巡歴し、学問を追求していたことが、つぎの『妙法比丘尼御返事』にうかがえます。 「所詮、肝要を知る身とならばやと思ひし故に、随分にはし(走)り、まは(回)り、十二、十六の年より三十二に至るまで、二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々、寺々あらあら習い回り」(一五五三頁) ここに、一二歳とあるのは、清澄寺入山のときであり、一六歳は出家の年齢をいいます。その後、一七歳から鎌倉遊学、そして、二一歳から比叡山遊学になります。天台僧として京都・三井園城寺・高野山・四天王寺などの寺院を歴訪し、碩学の教化や経蔵の典籍を研鑽されたのです。 『破良観等御書』には、田舎などに散在した寺院を歴訪し、各宗の学問を研鑽したことをのべています。あるいは、比叡山の心尊が寛元年中(一二四三~四七年)に、武州河田谷に泉福寺を開き、田舎天台といわれる談義所のもとを作っています。これらの法門の談義をする各地の寺院にも足を運び、修学を重ねていたことがうかがえます。すなわち、 「日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此願を立。其所願に子細あり。今くは(詳)しくのせがたし。其後、先浄土宗・禅宗をきく。其後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども」(一二八三頁) 日蓮聖人の学的追求は、一二歳の清澄寺入山から始まっています。比叡山はその延長であり課程にあるという意識ですので、学問を修学した経歴をいうときには、清澄寺を起点としてのべます。つぎの、『本尊問答鈔』にも、 「生年十二、同郷の内清澄寺と申山にまかりて、遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども修学人なし。然而随分諸国を修行して学問し候しほどに我身は不肖也、人はおしへず、十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して、一切経論を勘て十宗に合せたるに」(一五八〇頁) と、修学については、清澄寺を起点として各地へ歴訪したことをのべ、末法救護の碩学を尋ねたが、誰も日蓮聖人の疑問に答えることができなかったことをのべています。 これらのように、叡山在中に各地を歩き、大勢の碩学といわれた学僧をたずね歩いたとのべていることから、多くの碩学の講義を聞かれ、先師の注釈書を読まれたことでしょう。しかし、日蓮聖人が訊ねた田舎の寺院名や、その年次については不明です。 これは日蓮聖人みずから語る「遺文」がすくなく、地名をあげれば主要な寺院は限られており、ここに在住した個々の碩学の名前までは、語らなかったのかもしれません。換言すれば、日蓮聖人に影響をあたえるほどの碩学がいなかったのです。しかし、そういう一つ一つを綿密に訪ね、これらの学究を経て出された結論が「立教開宗」であったのです。 日蓮聖人が目を通された経論釈の数や、その書写数の多さと、日蓮聖人が諸国の田舎寺院を、あらあら走り回って法門を尋ねたということは、比叡山における修学は、ほぼ完璧な成果をえた証拠といえましょう。比叡山における活動の一端として、『定遺』第三巻の図録や、『註法華経』にみられるように、要文の書き出しである文献書写をし、壮烈に資料を作成していたことがわかります。また、書籍の収集をしていたことは、後年の身延においても、引き続きおこなわれています。 比叡入山について『本化別頭仏祖統紀』には、寛元元(一二四三)年二二歳と書かれており、ほかの、『高祖年譜』などの所伝の二一歳とは違っていますが、日蓮聖人は二月生まれですので、二二歳を迎えたころは比叡山に入られていたと考えることができます。また、比叡入山を志向したきっかけを『高祖年譜』には、「事があって鎌倉に来ていた尊海と出会い比叡山に倶にのぼった」(取意)と、あります。これについては異説があり、二人の尊海を立てる説があります。(山川智応先生)。 また、比叡山に在山しながら、近辺の諸大寺を遊学するのは安易なことですが、遠方になりますと、徒歩ですので、そうとうの日数と費用がかかります。従者を連れて書籍や仏具を運んだことが考えられます。そうしますと、比叡山の住僧の経済的基盤の問題が指摘されます(高木豊先生)。 あるいは一二年の在山を、籠山六年、自由な遊学六年と分けて、日蓮聖人の比叡山の行動範囲を指摘(岡元錬城著『日蓮聖人』六四七頁)することも考えられます。このことは、最澄が弟子を養成する規範として制定した、『山家学生式』の一二年の篭山行にしたがったと考えることができます。この一二年のうち、初めの六年は聞慧を中心として経論釈を学び、後半の六年は思慧・修慧という実習的な学問をすることを勧めているので、日蓮聖人もこの規範に順じていたともいわれています。 中尾尭文先生は、伝統的な籠山行にしたがって、比叡山の枠からあまり離れずに仏典の読破をはじめ、聖教の筆写と抄出に全勢力を傾けていたはずと推察しています。これは、膨大な一切経を読破できた時期は、比叡在山中のみと考えるからです。(中尾尭著『日蓮』42・48頁)。 たしかに、それを解義し、要点をまとめながら読破するには、そうとうの年数を要したと思われます。中尾先生は、天台教学の要点を抜書きした『宗要集』は、比叡山の修学の機会に完成されたことなどを根拠にしています。また、法務のため京都などにでる機会があり、この地域は比叡山内の枠に入るという見方をしますと、籠山の捉え方がかわります。このばあい「京中」の文言に抵触します。 これらの諸説は新しい見解で、過去の伝記は早い時期から遊学していたとしています。さきにのべたように、祖伝の史料は多く、どの史料を選択するかによってかわってくる箇所があります。また、その史料のなかには疑義を呈するものがあります。比叡山遊学においても師友や、所在などが定まっていません。およその伝承によって一定の基準を設けなくてはならようです。そこで、これらの祖伝を参考として、先師はどのように理解したのかを概観してみたいと思います。 さて、いくつもの伝記があり、ある部分においては一定していないことと、信心勧奨を目的として脚色していることをふまえて、六牙日潮上人(一六七四~一七四八年)の、『本化別頭仏祖統紀』を参考にし、『新編日蓮宗年表』に沿って、二一歳から三二歳にいたる一二年間の修学の過程をみていきたいと思います。 伝記の曖昧ななかにも、その場所に霊跡寺院が建立され、石標や地名、言い伝えが残っています。文献的な精緻さよりも信仰的な日蓮聖人像を模索しますので寛容な理解を願います。 ・二一歳 日蓮聖人は仁治三(一二四二)年の春に、清澄寺に帰省し『戒体即身成仏義』を著しています。この年は、一月二八日に道元が山城興聖寺に『正法眼蔵』を示し、三月五日、京都の本願寺が焼かれています。そして、六月一五日に執権泰時が六〇歳で没し、そのあとを経時が継ぎ四代執権となります。九月一二日には順徳上皇も四六歳にて佐渡に没しています。延応元(一二三九)年に後鳥羽院が没しており、「承久の乱」の当事者が没し朝廷の権威がうすれていく時代でした。 日蓮聖人はこの年の秋に、比叡山に留学するため清澄寺を出立しました。月日については不明ですが鎌倉に入られ、ここから比叡山に向かわれました。とうじの東海道は六十三次があり、日蓮聖人もこの街道をとおり、天台寺院などを宿所として歩まれたと思われます。 稲村ヶ崎の海岸ぞいに片瀬をへて懐島に一泊し、平塚・大磯・国府津をへて酒匂から足柄路を選び、関本・竹之下をへて、黄瀬川(大岡)にでて箱根路と合流したと思われます。それから、車返をとおり、富士川・安倍川を渡って藤枝をとおり、大井川を渡り初倉に入り、菊川・中山・見附に出て、天竜川を渡り池田から橋本をとおり三河に入ります。豊川・赤坂をすぎて境川を渡り尾張に入ります。萱津から北の美濃路(不破路)を進み、黒田・小熊・不破関・柏原・小脇・鏡をとおり近江に入り、野路の追分で鈴鹿路と合流します。西に向かい勢多橋を渡って大津に出ますと、右折すれば比叡山の入り口は間近です。滋賀の里をとおり坂本に向かい、ここより比叡山の聖地である、根本中堂を目指して登られました。 青年僧の日蓮聖人の健脚は、またたくまに眼下に湖水を見渡し、樹木の間を抜け登られたでしょう。根本中堂に額ずき、大講堂に飛び交う法論問答に胸をはずませ、三塔三千の学僧大衆の激しい鼓動を感じたことでしょう。求道に満ちた日蓮聖人を、比叡山は待っていたのです。 これより、入山の手続きをされ、同行の学僧の指導を受けて、宿所や堂舎の掃除をはじめ、三千の大衆が並びいる比叡山の清規を学びます。比叡山には尊海・心賀・静明・心聴・政海などの英才がいました。「日本第一の智者」の成就が近づいたと感じたでしょう。 しかし、その反面、比叡山の中には貴族出身の僧侶が、学生の身分でありながら修行もせずにはびこり、また、弓矢や長刀を手にした僧兵が跋扈している時勢でした。学風も最澄の「専持法華」から、空海の影響をうけた密教が主流をしめていました。広大な寺領荘園をもつ比叡山は、白河法皇をして、自分の意思どおりにならない、加茂川の水、双六の賽の目、そして、比叡山の山法師と言わせたほどの権力をもっていました。 ・二二歳 翌、寛元元(一二四三)年の秋ころに、日蓮聖人は横川に住み、俊範法印の会下に身を投じて学問に励まれたといいます。俊範法印は坂本の南勝房と無動寺に住しており、ここで学ばれたと伝えています。(山川智応。高木豊著『日蓮とその門弟』三二頁)。また、『日大直兼十番問答記』(貞治二年一三六三年、日蓮聖人の滅後八三年後に成立)によれば、日蓮聖人は三塔の総学頭であった俊範に師事し、天台の奥義を相伝し、日大も俊範法印の護摩堂において相伝をうけたと記しています。 さきにのべたように、俊範法印は『愚管抄』の著者で、天台座主を四度務めた慈円に認められた学僧でした。天台法華を重視し、真言・禅・念仏には批判的な立場であったということから、日蓮聖人は俊範の学風を学び、他宗批判をしていったと推察する説があります。日蓮聖人は『浄土九品之事』などに名前を挙げていますが、学問の師弟などの関係についてはふれてはいません。これは、比叡山の学僧には出自や門閥があって、学問では優秀であっても、階級制に阻まれて師事する立場になかったといわれています。ぎゃくに、特定の教えに束縛されることがなく、自由に視野を広げられる面においては有利であったといえます。 この年の四月に、幕府は鎌倉の市中の禁制を定め治安に力を注いでいます。六月一一日に浄光発願の大仏と大仏殿が落慶しています。七月六日に、座主慈源が天変御祈のため、禁裏にて北斗法を修法しています。同月に、道元は波多野義重のすすめにより、越前に移り吉峰寺に入っています。『正法眼蔵』の主要部分を著します。8月に円爾弁円が九条道家の庇護をえて東福寺の開山となっています。 ・二三歳 寛元二(一二四四)年四月二八日に、北条時頼は将軍を頼経から頼嗣に代えています。七月一八日には越前の大仏寺に道元が入っています。日蓮聖人は九月一七日、『色心二法鈔』(一九四七頁)一巻を著したといいますが、同書は偽書とされています。座主慈源は、一一月に閑院殿にて七仏薬師法を修し、一二月には法性寺にて不動法を修しています。同月、幕府の政所が焼失し、前将軍の頼経の上洛が延期になっています。 ・二四歳 寛元三(一二四五)年に、日蓮聖人は能力を認められて、西塔から峰にそって四キロほど山道を行ったところにある、華光芳(樺芳)谷の横川定光院(華光房)に住み、さらに、南勝房の直轄の寺であった東塔の円頓房をあずかり、東塔円頓坊の主座となります。とうじは派閥の力ではなく、学解の深さによって人材が登用されたといわれています。このことからして日蓮聖人の学問の深さがうかがわれます。四月六日に、名越朝時が五三歳で没しています。六月七日に幕府は保奉行に命じて、家ごとに松明を備えさせています。七月七日、浄土宗の証入が没し、二六日に京都で大地震がおきています。一〇月に座主良禅が鎌倉で舎利講を修しています。 ・二五歳 寛元四(一二四六)年三月二三日に時頼が執権となり、閏四月一日に北条経時が三三歳で没しています。同月に座主尊快法親王が没し、山徒の争いがおきています。五月二四日に、名越光時が前将軍の頼経と謀って、北条時頼と対立した宮騒動がおき、六月一三日に光時は伊豆に流罪となり、越後守を罷免されています。このときに光時に仕えていたのが四条金吾の父で、光時に従い伊豆に供奉した忠義の家来といわれるのはこのためです。そして、頼経は七月一一日に京都に追放されています。八月一五日に、道元は大仏寺を仏教が伝わった年号にちなみ永平寺と改称し、僧名も希玄とかえます。時頼の招きにより、蘭渓道隆が宋より博多に来日し、泉涌寺来迎院に住みます。 日蓮聖人はこの年の夏ころに、園城寺を訪ねたといいます。園城寺は三井寺ともいい、三井寺という由来は、天智・天武・持統の三天皇の、産水に用いられた井戸があるところから名付けられました。始めは御井の寺といわれ、それがしだいに、三井寺と呼ばれるようになったのです。 園城寺は大友氏の氏寺でしたが、ここを延暦寺の別院として再興したのは、慈覚大師のつぎに座主になった、第五代座主智証大師円珍でした。比叡山を山門派と呼び、三井寺を寺門派と称して分派し対立します。三井寺は延暦寺とならぶ天台密教の拠点で、日蓮聖人は円珍の請来した目録を見て、秘蔵された典籍を閲読するために尋ねます。 『円珍青龍寺目録』は、密教関係の目録で、経典や曼荼羅・法具を列記しています。これは、善無畏の弟子で密教の正系を継ぐという法全から、直接伝授したものでしたので、寺門派の誇りでありました。日蓮聖人は円珍が中国から持ってきた、密教に関する、それらの典籍を学習するために、碩学の允許をうけ学生の立場として入蔵を許可されたと思われます。 山門派と寺門派の教義には違いがあります。爾前の円と、法華の円を区別する、「法華超八」の学問傾向は妙楽が論じ、寺門派の開祖である円珍が、『授決集』で述べたものでした。智証大師の教義を究めるために、三井寺を尋ね、経蔵に入って秘蔵とされる古書や秘書を探したといいます。このことからして、日蓮聖人の勉学が台密・東密奥義に深く達していたことがうかがえます。また、日蓮聖人の『唱法華題目鈔』著述に影響があったといわれています。 このあと、道隆が宋より来朝し泉湧の来迎院にいたので、日蓮聖人は聞法に行ったという説があります。ここには、招来の書籍がたくさんあったといいます。さらに、奈良に向かい元興寺に入り倶舎を学ばれたといいます。比叡山の領地は鎌倉幕府よりも多く全国にあったというので、道中の寄宿は天台寺院を巡ったと思います。このころを、南都遊学の時期と伝えます。 ・二六歳 宝治元(一二四七)年、「遺文」に「南都」の地名は書かれていませんが、四天王寺や高野山に行かれる道中に南都を巡教したといいます。奈良に蓮長寺があり、もとは天台宗と伝えています。興福寺で法相宗、東大寺で華厳宗、法隆寺で三論宗、唐招提寺と西大寺で律宗を学ばれ、薬師寺に入り一切経を閲覧したといいます。 南都で発行された春日版系法華経を、このころに買い求めたともいいます。日蓮聖人は南都で発行された法華経を所持していました。この経本を南都遊学のときに自分で求められたかは不明ですが、春日版系の法華経の経本に、論釈などが克明に書き入れられていることからも、日蓮聖人の修学の態度がうかがえます。このころは、諸経の経典や章疏から、必要なところを抄出し要文を書き残された時期といえましょう。 南都遊学について、倶舎宗の小乗の範囲における教えや、唯識宗の五性各別論は、すでに、一乗思想にて裁決されていたので、あえて、南都六宗を巡歴したことを、のべなかったといいます。また、南都には学ぶ典籍を所蔵する寺院や、日蓮聖人が関心をもつ法門について、極めていた学僧がいなかったので、歴訪はしていないという説もあります。日蓮聖人の関心が「真言密教」にあったことから首肯できます。 しかし、奈良は元明天皇より七代、七〇年の仏教隆盛をきわめた平城京です。また、時は南都仏教の復興期にあたっていました。ここには、七大伽藍が配備され、いわゆる、南都六宗の大寺が存していました。興福寺は法相宗になり、玄奘三蔵から伝来した経巻がありました。東大寺は華厳宗で、天平一七(七四五)年に、聖武天皇の勅願によって建てられ、二年後の九月から大仏の鋳造がはじまります。勅命によって良弁僧正が唐から伝承したという華厳経があります。 薬師寺は天武天皇の勅願によって、皇后不予により、天武八(六八〇)年一一月に建てられ、一切経が所蔵されていました。養老二(七一八)年に現在のところに移り、興福寺と二大法相宗の本山となります。唐招提寺は中国の四分律宗南山系を伝える、日本最古の律宗寺院で、唐の鑑真和尚が聖武天皇の招きによって、天平宝字三(七五九)年八月に創建しました。日蓮聖人が国賊とした律宗は、叡尊・忍性らの西大寺流の南京律で、現在の真言律宗にあたり、現在の唐招提寺を本山とする律宗ではないといいます.。(尾崎綱賀『日蓮』現世往成の意味。一六頁)。 法隆寺は飛鳥時代の推古一五(六〇七)年に、推古天皇と聖徳太子が創建しました。日本最古の木像寺院で、東大寺・薬師寺とともに法相宗の三本山となります。日蓮聖人は仏教伝来と聖徳太子を偲び、参篭されたことでしょう。東大寺戒壇院には円照(一二二一~一二七七年)がいました。円照は東大寺新禅・真言院を再興した聖守の実弟になり、比叡山などで学び、良遍に法相、叡尊に律、円爾弁円に禅、定舜に北京律を学び、律宗に属しながら「禅教律の一体」、三論を説き、南京二京にわたって多彩な活動をしています。凝然など多数の弟子を育てています。 この年の三月に、道覚が天台座主となっています。六月五日に「宝治合戦」があり北条時頼は三浦泰村を討っています。これにより三浦氏は亡びました。同月に、隆辨が鶴岡八幡宮の別当になっています。八月に鎌倉市中の浮浪者を追放し、同月三日に時頼は道元を鎌倉に招いています。(『永平広録』。 浄土宗においては、四月に幸西、一一月に西山義の派祖、証空が没しています。臨済宗の栄朝が九月に没しています。一一月七日に鎌倉の寿福寺が焼けたといいます。同月に、山徒が興福寺を攻撃しており、争いが続いています。一一月二六日に鎌倉に大地震がおきています。 ・二七歳 宝治二(一二四八)年、この年から籠山六年を終え、諸寺諸山の見学がはじまるともいいます(日蓮宗テキスト年表では三〇歳からとしています)。まず、京都にでられて五条油小路の書店、天王寺浄本を宿としています。のちに帰依した夫妻の手厚いもてなしを受けて、高僧をたずねたといいます。 さて、『本化別頭仏祖統紀』などには、このころに、奈良の六宗を学ばれるため、鑑真和尚が伝えた東大寺の戒壇院を詣で、元興寺・興福寺・西大寺・大安寺・薬師寺・法隆寺などの、七大寺の諸寺を遊学されたといいます。薬師寺には一切経が所蔵されており、三回目の入蔵をされたともいいます。この間、油阪の蓮長寺に長く滞在していたといいます。そして、閏一二月に南都奈良の修学を終えて、法隆寺から紀州の高野へ向かわれ、ついで、東寺・仁和寺を歴訪したといいます。 高野山は日本総菩提所といわれ、弘法大師空海が開山した、真言密教の総本山金剛峰寺があります。嵯峨天皇から一万町歩の寺領を賜り、かつては、七千七百の坊があったといいます。鳥羽天皇の皇后である美福門院が寄進した、紺紙金泥の一切経が納められていました。また、冷泉為家に歌道と書道を学ばれたといいます。 さきにのべたように、空海没後は東寺・高野山・高雄山寺が独立し、野沢十二流に分派します。高野山は 良禅の本寺方の金剛峯寺と、覚鑁の伝法院流に分かれ根来に入ります。覚鑁の弟子頼瑜はこのころ高野山大法院で修学中です。良禅の中院流は兼賢に継がれ、ほかに、基舜・行恵・教覚がおり、兼賢の弟子に心蓮・房光・教覚・理賢がいます。 日蓮聖人が遊学されたのは、金剛峰寺の手前にある高野山の一心院谷といいます。大正の末期に発見された五坊寂静院には、「日蓮聖人遊学の遺跡」と書かれた石碑があります。日蓮聖人はここで弘法大師空海が唐から伝来した、経巻などを読破したといい、ここに一年ほど滞在して、「真言密教」を学んだといいます。しかし、ここで誰に従い修学したかは不明です。真言宗では、三月に良恵から行遍に一長者がうつり、一二月二九日に、金剛峰寺・大伝法院の衆徒が合戦し、実賢が一長者に補せられています。 ・二八歳 宝治三(建長元一二四九)年五月、高野山の道範(一一七八~一二五一年)が、金剛峯寺と伝法院の抗争で讃岐配流(一二四三年一月)から赦免され帰山します。建長四年五月に没しますが、鎌倉時代を代表する学匠で、高野山八傑の一人です。正智院に住み尊海の「不二門思想」を継承し、『秘密念仏鈔』を著し覚鑁の「真言念仏」を継いでいます。 日蓮聖人は、この高野山にての学問を終え、こののち、泉州の江川太郎左衛門吉久宅に数日滞在し、法要をおこなったといいます。(のちに豆州に住み日久と名のります)。そして、八宗兼学の道場である、大坂の四天王寺に入蔵したといいます。「遺文」に南都の遊学が見えないことから、この四天王寺で百済より渡来した経論や、聖徳太子の著述などを読み、南都六宗を修学したともいいます。 しかし、とうじは、浄土教が主流となっており、四天王寺の西門は極楽浄土に通じる所として、春秋の彼岸には西門から夕日を拝む信仰が流行し、大勢の信者が参詣していたといいます。 ついで、宋から来ていた円爾弁円を、稲山の普門寺(滋賀湖西)にたずねたといいます。さきにのべたように、円爾はのちの聖一国師で臨済宗をひろめ、京都寿福寺を創建しました。九条関白道家や後嵯峨上皇、亀山上皇、鎌倉では寿福寺で北条時頼にも禅門菩薩戒を授けたといいます。 つぎに、泉湧寺の来迎院(京都東山)に、蘭渓道隆が来朝していたので、たずねて禅を聞いたといいます。泉湧寺は禅・真言・浄土の四宗兼学の寺で、開基のときに、学僧の俊芿が三四歳のとき宋にわたり、請来した経文を所蔵していました。このおり、宋の仏教界が禅宗に変っていることを知り、中国に行って学問することの無用さを知ったともいいます。 時頼は蘭渓道隆を迎え、一一月に鎌倉に建長寺を落慶し、禅門の宗徒から帰依を受けていくことになります。のちに、日蓮聖人を排斥した一人となります。日蓮聖人はこの年に比叡山に帰り、浄光院に住したといいます。 幕府は六月、西国に大田文を調進するように命じています。これは、荘園に課税できないので、国衙領の農地などの面積を把握して、徴税の資料としたわけです。これが、大田文といわれるもので国府が台帳を作成していました。また、幕府は一二月に引付衆を設置します。 一月に道元は『永平寺衆寮箴規』を著します。比叡山においては、八月一四日に四天王寺の別当職を、園城寺に付したことを訴え、九月五日に座主の道覚親王が辞任しています。鎌倉の永福寺の落慶供養が一一月二三日に行なわれています。時頼よりの発願により建長寺が創建され、南浦紹明が受戒しています。 ・二九歳 建長二(一二五〇)年、日蓮聖人は京都に入ります。佐渡塚原のことを「京の蓮台野」に譬えているのは、日蓮聖人が京都(「京中」)の蓮台野を歩いて見知っていたからです。平安時代の葬送地として、鳥辺野(とりべの・東山)、化野(あだしの・西山)、蓮台野(れんだいの・洛北)の三つがよく知られており、佐渡の塚原も葬送地であることから、どのようなところかを知らせたのでしょう。 京都では、天王寺屋浄本の世話になり、儒学と歌道を修めたといわれます。浄本は五条あたりに住んでいたといわれ、日蓮聖人は浄本の家に止宿されていたといいます。浄本は本屋であるという説と、難波の天王寺の役をしていたという説があり、浄本を介して天王寺の秘笥を披いたのはこの年ともいいます。妻の妙蓮とともに、日蓮聖人と親交を深め、弟子の礼をとって日蓮聖人に仕えたといいます。のちに、自宅を寺として本蓮寺と名付けましたが、天文法難のときに焼き討ちにあい消滅してしまいます。浄本と妙蓮の墓は御所に仕えていた妙尭禅尼が、子供の菩提を弔うために、御所の西方に建てた妙尭寺にあります。 東山にある東福寺には「日蓮柱」と書かれた石碑が建っています。臨済宗の円爾弁円と交流があった日蓮聖人が、弁円が東福寺を造るときに困っていたことを聞き、一材を寄進されたと伝えています。 科長(磯長)の叡福寺は聖徳太子の御廟があり、最澄や空海、法然・親鸞も参篭したといい、日蓮聖人も磯長(しなが)の聖徳太子廟を拝し御廟に入ったといいます。そして、七日間の報恩の行に入られ、七日目の満願の日に、夜通し法華経を読誦していますと、衣冠を正した太子が現れて満面に笑みを浮かべたと伝えます。 伊勢神宮にも詣でたといいます。『本化別頭仏祖統紀』(七九頁)に、伊勢(勢州)にいき、四月二八日に天照大神が宝殿に座しているのを拝見した、という記載があります。とうじは、伊勢大廟といいました。日蓮聖人の生まれた安房を、天照大神の「御厨」と尊崇していることから、大廟に参詣し修学の報告をし、そして、仏国思想が強いことから国家守護を祈ったと思います。 大廟には天照大神のほかに、八百万の神が祭られています。この地を定めたのは、はじめ、一〇代崇神天皇(前九七~三〇年)の六年に、祠を大和笠逢の里に遷座し、その後、景行天皇(七一~一三〇年)のときに、大和媛尊が神勅を受けて、勢州渡会郡(わたらえ)の五十鈴川の水源に、安置したのが起源といいます。 伊勢大廟を参詣したあと、内宮と外宮の間にある間山(あいのやま)浄明寺に参篭したと伝えています。浄明寺は天台宗の寺でしたが、現在は廃寺となっています。ここに、「誓いの井」といわれる井戸があり、日蓮聖人が三大誓願を立てたときに、水垢(みずこり)をされた所といわれます。 さらに、伝記には武州の河越に貫名の余類で、父の旧友夫妻を訪ねたと伝えています。ここでは、夫妻の厚い好情があり、日蓮聖人の父母のことを委細に聞いたといいます。また、駿州富士郡沼津に、父の旧好の夫妻がいることを聞き尋ねたといいます。ここでも、小湊の両親のことを聞かれ、日蓮聖人はこれらの人の現況と伝言を、父母に伝えると約束します。降雪の寒い気候なので、旅支度を休めここで越年したといいます。 幕府は、三月に権門による寄沙汰行為を禁止し、六波羅探題に山僧や悪党の乱暴を取り締まらせ、四月には民衆が武装する行為を禁止しています。 寄沙汰行為は当面の訴訟を有利に運ぶため、寺社に土地の寄進をするものですが、土地証文を偽造して有力者に寄進することが多かったのです。とくに比叡山は寄沙汰の対象として選ばれたといいます。この背景には寺社が法知識をもち、かつ、武力をもっていたから可能だったのです。しかし、これは、後白河院政の終盤に発布した「建久の公家新制」で、悪僧・神人や武勇の輩への私領の寄与を禁止したことが、引きつつづき行われていた幕府の内情を認めたことです。 浄土宗の良忠は二月一一日に『浄土大意抄』を著しています。親鸞は一〇月一六日に『唯心鈔』を注釈した『唯心鈔文意』を著しています。道元はこの年、『正法眼蔵洗面』を著し、後嵯峨天皇より紫衣を賜っています。 ・三〇歳 建長三(一二五一)年、春の暮れに河越に行き父の旧友に再会します。そのときに、日蓮聖人の父親が、昔日とかわりなく崇仏しているかと聞きます。日蓮聖人の父親は篤信の仏教徒であり、祖先を敬っていた人物であることがうかがえます。この霊跡は、のちに、蓮信山妙養寺となっています。 七月に、日蓮聖人は小湊に向かい、父母と会い清澄寺に登山したといいます。このときに、二人の兄弟子のほかに、道義房、青蓮房・明心房・実城房・浄円房(日在)・円頓房・西尭房・円密房・観智房・実智房・円智房・雛僧・雑児など、衆徒が集まったといいます。小湊へは陸路か海路を利用されたかは不明です。 清澄寺を出立して鎌倉に入り、ここで、大学三郎に会ったといいます。大学三郎は本名を比企能本といい、若いときは東寺のかたわらに住み、のちに、朝廷に仕え儒学者としてはとうじの権威者でした。このころは、幕府の要人となっていました。日蓮聖人は年を越さず京都に入ります。 京都に入った日蓮聖人は一一月二四日、新義真言宗の祖である覚鑁の、『五輪九字明秘密釈』一巻を、四九紙の表裏に書写しています。これは、真言の注釈書ですが、弥陀浄土に関連した教学をのべています。真言密教に関連した文献を書写し、資料を収集していたことがうかがえます。本書に日蓮聖人の署名はありませんが、法華経寺に伝来していることから、富木氏の手に渡り管理されたことがわかります。この、『五輪九字明秘密釈』は、同書の最古の写本といわれています。この文献が残ったことにより、日蓮聖人がこの年の、この時期に、京都に在住していたことが確実となりました。 幕府は一二月に鎌倉市中に置ける商売の区域を決めます。また、了行法師らが謀反を計画したとして追捕しています。時頼よりは蘭渓道隆をむかえて海晏寺を開創しています。北条長時は浄光明寺を建て開基を執権の時頼として、法然流の念仏者である真阿を住持にしています。比叡山では、三月四日に東塔の北谷と東谷の堺を争っています。五月二六日に慈源が大僧正を辞任し、一一月二八日に寂守が大僧正に任じられます。浄土宗では、二月に良忠が礼阿念空に『末代念仏授手印』を授与し、親鸞は九月二〇日に、常陸における他力の法門とは違う、有念・無念の論争につき書状を送付して制止しています。 |
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