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○『五輪九字明秘密義釈』本書は別名『頓悟往生秘観』といい、覚鑁が永治元(一一四一)年に執筆した理由は、浄土教の影響が高野山にもおよび、盛んになった浄土信仰に対処するためです。覚鑁は密教のなかに浄土教を包摂して融合することを考えました。 本書は「十門」を挙げ、そのうち大日如来の三昧耶曼荼羅の「五輪」(地水火風空の五大。種子ア・バ・ラ・カ・キャ)と、阿弥陀如来の九字真言である九字(オン・ア・ミリ・タ・ティ・セィ・カ・ラ・ウン)の、両界曼荼羅観を引き、弥陀は大日如来の一門の仏として、大日・弥陀の一体平等である「大日即弥陀」を説きます。また、大日の密厳浄土と極楽浄土も同処であると説き、真言即念仏の視点から真言の三密行の救済をのべます。覚鑁は密教と浄土信仰の融合を図ったもので、この思想は中世の真言念仏や秘密念仏の原点となります。 ところで、この写本が中山に現存し、表紙に「常忍」と書かれていることから、日蓮聖人が富木氏にこの写本を送付し、富木氏が所持されていたと推測されています。(寺尾英智「日蓮書写の覚鑁『五輪九字明秘密義釈』について」、『鎌倉仏教の思想と文化』所収)。これが事実なら、富木氏との関係と富木氏の仏教理解の深さがうかがえます。『五輪九字明秘密釈』の写本は、金沢文庫本など十数本が伝わっています。このなかで、日蓮聖人が書写された本書を最古とします。 高木先生は、日蓮聖人の自筆の写本ではないとする、疑問点をあげています。それは、日蓮聖人の初期の写本として、真筆の判断が難しい点にあるとのべています。しかし、中山に伝来した典籍であることは、富木氏が管理したことであるので、信頼性が高いという視点にたち、旧来の伝承にしたがって親筆とします。 同書の奥書に、書写した場所が記されています。 「建長三年十一月廿四日卯時了(おわんぬ)。五条之坊門、富小路。坊門ヨリハ南。富小路ヨリハ西」(二八七五頁) 五条坊門の所在について、高木先生は『鎌倉仏教の様相』所収の「日蓮のなかの鎌倉仏教・中世天台僧の学習―青春の日蓮と重ね合わせてー」(二七九頁)のなかで、書写識語についてのべています。そして、書写などをする檀所があったといい、『求聞持法儀軌』と関連してのべています。 また、この場所を特定するのは難解であり、洛内に寺院の建立を認めるのは後のことで、寺院と確定できないとのべ、この地域は特定貴族の邸宅が存した所、と指摘されていることからすれば、空閑地か特定貴族の邸宅の一隅であろうといいます。とうじは、こういう場所に壇所が設置され、ここで書写をしていたのではないかとのべています。 真蹟は「富小路」と「坊門ヨリハ南、富小路ヨリハ西」の間に、「西面」と書き二重線で消しています。このように、道案内のように細かな道筋を記したのは、迷いやすい狭い所であったことを示唆します。あるいは、法勝寺の西門の法雲寺とする説があります。(『日蓮聖人遺文辞典歴史篇』三七六頁)。この場所にて、午後七時から九時ころに書写されています。 壇所とは檀を設らえて、密教の修法を行なうための道場をいいます。ここに着目すれば、「求聞持法」のなかの書写識語につながり、日蓮聖人はここで書写されたと考えられます。高木豊先生は、「寺院ではない壇所の設定は、特定の僧と在家の、師檀関係の設定のなかで行なわれたと考える」、また、「その壇所の主が東密系の僧とは限らない」(二八〇頁)と、指摘しています。 あるいは、高野山覚鑁系の僧が、屈請・公請のため京都に上京したおりに、宿泊する里房ではないかともいいます(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇三六〇頁)。日蓮聖人は覚鑁の弟子頼瑜と同年代で、頼瑜は建長初年(一二四九年〜)に東大・興福寺に遊学しているので、可能性として交流があったといえます。 日蓮聖人は同じころに、醍醐寺理性院の血脈を相承して、東密を摂取したといわれています。昭和五年八月の金沢文庫復興のときに、称名寺の塔頭光明院の本堂奥から、宋版一切経三千五百巻をはじめ、鎌倉から室町の古刊など九千巻が発見されました。そのなかに、『円多羅義集』と、称名寺四代目の実真が書いた、『理性院血脈』が発見されました。 この相承の中に「日蓮」の名前がありました。『本朝高僧伝』に、大和国金剛王院の住僧として重如(一二二二〜一二九九年)がおり、字を「日蓮」といいました。小野・広沢両流を学んだことから、理性院血脈の「日蓮」は重如ではないかという疑問が起きました。これが、「二人の日蓮」を提起した戸頃重基先生の説です。 これにたいし、大事な相承に字は使わないことと、実真が血脈を書いたころの日蓮教団は、鎌倉に比企谷妙本寺など十数ヶ寺、京都に勅願寺の妙顕寺などがあり、日蓮聖人は宗祖としての知名度があるので、蓮長を「日蓮」と書き改めたことも、空海を弘法と書き換えた用例と同じと推察されました。なによりも、『本僧高僧伝』中の重如の資料不足を弱みとしました。 ところが、これを否定した高木豊先生により、戸頃重基先生の説を支持する説が出されました。これは、新たに『東大寺円照上人行状』のなかの、「重如日蓮伝」を探し得たことによります。これにより、重如の存在が明らかになり、日蓮聖人の比叡在山や生涯における『理性院血脈』の相承は、除去されなければならないとしたのです。(高木豊『日蓮その行動と思想』増補改訂版二二九頁)。 ただし、『不動愛染感見記』(建長六年)に、日蓮聖人は大日如来より二三代の相承を受けているとのべています。 「生身愛染明王拝見。正月一日日蝕之時。大日如来より日蓮にいたる二十三代嫡々相承」(一六頁) 『理性院血脈』に日蓮聖人は二五代目の相承とあり、これについて山中喜八先生は『日蓮聖人真筆の世界』(下)に、「金沢文庫に『理性院血脈』という古文書が残っております。これは金沢称名寺の第四世の実真が書いたもので、この『理性院血脈』によりますと聖人は密教の相承を木幡の真空から受けておられる。大日如来から二十五代目の相承を受けておられる。そういう記録が金沢文庫にあるのであります。ところで建長六年に聖人の書かれた『不動愛染感見記』が現存していますが、これには大日如来から数えて二十三代と記されてある。理性院血脈は二十五代、感見記は二十三代、数字が合わないのであります。これはいろいろ調べてみますと、聖人が二十三代と数えたのは台密のほうの相承であります。海雲血脈によると円仁が十一代、それから安恵長意、相応、遍豪、長宴というように数えて、俊範が二十二代、聖人が二十三代であります。そこで聖人は、東密と台密の双方の相承を受けておられたと推量しても、差支えないと思うのであります」(取意)。と、解説しています。 『五輪九字明秘密釈』は真言宗の秘蔵の書には違いないので、本書を書写できる資格も制限されていたとすれば、日蓮聖人は理性院血脈の相伝を受けていた証拠となります。 称名寺は北条実時の持仏堂が始まりといわれ、念仏の寺だったのを叡尊の感化により、真言律宗に代えています。元弘三(一三三三)年に金沢北条氏が滅亡し、四代実真はこのあとの住持になります。 さて、日蓮聖人はこのころ比叡山を出て、諸宗の経典や論疏の書写をして研鑽していたというのが今日の定説です。宗派や寺院、在家の枠にはまらずに、諸宗を研鑽できるこのような行動は、とうじとしては通常のことだったという説、また、法然上人が『選択集』を、門人にたいしても容易に許さなかったというように、一宗派の教学を形成する大事な典籍であることから、限られた学生のみが写本を許可されたとも考えられます。 とくに、比叡山終盤のころは真言密教を修学しており、比叡山遊学の本目的である、『法華経』と「真言密教」の優劣問題に絞まれ、血脈を相伝されたことからも、奥義にまで達していく様子がわかります。台密・東密の密教があり、清澄寺は台密を相承しており、両者の教学を重ねあわせ、比較して考えなければなりません。 これについて、日蓮聖人は『法華経』と「真言密教」とを比べ、択一するところまでは至っていない、と指摘する説があります。『善無畏三蔵抄』に、 「日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて、我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候て、真言の秘教をあらあら習ひ、此事を尋ね勘るに、一人として答をする人なし」(四七一頁) 日蓮聖人がどこまで「真言密教」を習得したかは不明です。立教開宗の後にも密教の受容があると指摘をうけています。ただし、「顕密二道」の勝劣、「真言の秘教」における成仏論の質問に、答えることができる真言僧がいなかったということは、日蓮聖人の真言理解はすでに深いところまで習得されていたことであって、真言の限界がそこにあったということに他ならないと思います。すなわち、日蓮聖人の教学的知識を上回る学僧がいなかったということです。 このあと、日蓮聖人は「京中」の修学として、東寺の真広法印(法華堂の別当)の紹介により、東寺と仁和寺の書籍を閲読し、空海の支流、小野・広沢の両流を学んだといいます。東寺で学んだときに居住していた道場が法華寺といいます。 日蓮聖人は京都の修学から、ふたたび比叡山の定光院にもどります。そして、これより比叡山を出られるまで、『摩訶止観』の研鑽に入られたといいます。 |
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