83.比叡山遊学                         高橋俊隆

・三一歳
建長四(一二五二)年、忍性が関東に下向し常陸国清涼院に住しました。幕府は二月に将軍頼嗣を廃し、宗尊親王を奏請し、頼嗣は四月に京都へ移っています。のちに対立する東条景信は、清澄寺の飼い鹿を狩り、同寺の房僧たちを念仏者の所従にする動きがありました。

 比叡山では六月二六日に寂守が無動寺谷の検校に補せられ、九月一日に後嵯峨天皇が日吉社を御幸されています。高野山の道範が七五歳(『日本仏教史辞典』七八五頁)にて没しています。

日蓮聖人は八月に、三塔の師友に多年の学業を感謝し、惜別の情を持ちながらも仏子の責務を懐いて、比叡山を出山します。そのあと三井寺に入り修学されたといいます。

・三二歳 建長五年(一二五三年)

建長五(一二五三)年一月に、三井寺の修学を終え安房に下向します。清澄寺に帰り六十路の道善房に会い、法兄の浄顕房・義浄房をはじめ、山内の親しい人々と再会したと伝えます。

同年一月に、道元は『正法眼蔵』九五巻を完成します。比叡山では二月一五日に良伝が没しています。二月二五日に地震があり、以後、毎年のように自然災害がおきます。

日蓮聖人は四月二二日、山内の一室において三昧に入られ、そして、四月二八日に、清澄寺において「立教開宗」をされます。日蓮聖人が清澄寺に入られてから二〇年の歳月を経てのことでした。

「立教開宗」以後の仏教界は、七月五日に空海が請来した三鈷が、嵯峨二尊院から高野山に返納されています。浄土宗の湛空が七月二七日に没し、七月に弧雲懐奘が永平寺第二世となり、道元は波多野義重のすすめで病気治療のため上京しますが、八月二八日、京都高辻西洞院の俗弟子覚念の邸宅にて、五四歳で没します。九月二二日に東塔の五仏院・実相院、法華堂が焼けています。高野山では一〇月に『三教指帰』が開板され、高野版の出版がはじまります。

一一月二五日に北条時頼が発願した建長寺が完成し、宋より来朝した蘭渓道隆を開山として落慶供養が行なわれました。さきにのべたように、建長寺の禅宗建築は宋を模したもので、日本に新しく移入された建築様式でした。唐様といわれたのを改称したのは唐時代の様式と誤認しないためです。建長寺以後の主な寺院に

長野安楽寺八角三重塔(一二九〇年)・京都南禅寺(一二九一年)・岐阜永保寺観音堂(一三一三年)・山口功山寺仏殿(一三二〇年)・京都大徳寺(一三二五年)・東京正福寺仏殿(一三二七年)・山梨清白寺仏殿(一三三〇年)などがあります。

禅宗寺院が建てられることは、それに関連した技能者が鎌倉に在住し、職人たちの住居も建てられることになります。武士の屋敷も建築され、鎌倉の人口はふえていくことになります。

○比叡山遊学について

日蓮聖人における山門派に身をおく比叡山の一二年間は、専ら経論釈疏を閲読し三塔の学匠の教育をうけ、

同門の学識者と学解を深めたと思います。また、「遺文」には各地の主だった碩学を訪ね、各宗の教義の疑問を呈し、また、秘伝書を書写していたことをのべていました。

ここでうかがえたことは、日蓮聖人が希求したことは仏教の真実でした。その真実とは「成仏」にありました。もっとも単純素朴なスタートであり、生涯の最後まで「成仏」を説き続けました。

 比叡山における、この間の歩みについては言い伝えが多く、それぞれの伝記に違いがみられます。『日蓮上人伝記集』には、さきにあげた八著述のうち、『元祖化導記』・『日蓮聖人註画讃』・『元祖蓮公薩埵略伝』・『法華霊場記冠部』・『本化別頭高祖伝』・『高祖年譜攷異』の六著述の頁の一覧があり、これをもとに各祖伝を比較することができます。また、『本化別頭仏祖統紀』(本満寺発行)を、これらに重ねていくと伝記の系脈がみえてきます。さらに、『新編日蓮宗年表』(影山尭雄編)は、日蓮聖人誕生から昭和二〇年にいたるまでの、日蓮宗の足跡を綴っています。このなかに見られるように、過去の先師はこれらの伝記をもとに、祖伝を学ばれたことを、認識する必要があると思い羅列しました。

現代に言えることは、信徒の確保と信仰の高揚は、多少、脚色された日蓮聖人像のほうが、優位であるということです。また、今日の日蓮教団は、日蓮聖人いらい先師の不惜身命の布教によって、形成されてきたことを学ばなければならないのです。

 さて、日蓮聖人は比叡山をはじめとして、「園城・高野・京中・田舎等」において研鑽され、立教開宗されるまでの一二年間を経たことは間違いないことです。この一二年という年数は、最澄が比叡山の修行の規範とした、『山家学生式』に一二年の篭山が制定されており、この年限に従ったとしますと、日蓮聖人はもとより一二年間の在山を覚悟のことであったと思われます。

山内に篭っていたのではなく各地の寺々を歴訪し、参篭して修行と学問の二道を研鑽されています。その時期は不明です。しかし、一二年を前後六年ずつに分けて、「初めの六年は聞慧を正となし思修を傍となす」と、あるように、前半の六年は聞慧を主体として学ぶという指針が制定されていることから、六年間は比叡山にとどまり、仏教の典籍を読破して高度の教学と最新の学風を磨かれたと思われます。

 一般に智慧を磨くといいますが、この智と慧は区別されます。慧遠(三三四~四一六年)の『大乗義章』によれば、智を照見、慧を解了とします、つまり、智は真理を知ることであり、慧は出世間的な第一義の事実を照見し体達することです。また、慧は聞慧・思慧・修慧(「聞思修の三慧」)の三段に深化します。これを、聞所成慧、思所成慧、修所成慧といいます。はじめは聞いて覚え、つぎに思考し、さらに実際に修行することにより、本当の智慧が成就すると教えています。

日蓮聖人が各寺々へ遊学を開始されたのは、後半の六年の指針である「思・修」、すなわち、「後の六年は思・修を正となし聞慧を傍となす」(六条式・八条式)に、あったと思います。そうすると、二六歳後半から比叡山を下山して、各地への遊学が始まったと思われます。しかし、『年譜』や『別統』は二五歳のときに南都に遊学したとあるので、強ちに『山家学生式』を踏襲せず、日蓮聖人の卓越した能力を窺知すべきと思います。

 これまでみてきた伝記によると、日蓮聖人は京都から奈良に向かい、東大寺・唐招提寺を経て、紀州路から高野山の金剛峰寺、磯長の聖徳太子廟、大阪四天王寺を歴訪して、宇治から京都へ戻る経路をとっていました。京都にては、日蓮聖人を支援された五条油小路に住む、天王寺屋浄本のもとに滞留していました。そして、比叡山一〇年目の建長三年一一月二四日、浄本邸から近い五条坊門で、『五輪九字明秘密釈』を書写していることが確認されています。

比叡山から京都は目の前であり、園城寺(三井寺)にも修学に行かれたことは首肯できます。むしろ、さきにのべたように、対立した山門派の日蓮聖人が、寺門派に入り修学に就けたことに着目できます。

鎌倉の遊学は「先ず浄土宗・禅宗をきく」というように、念仏・禅の学習が主な目的でした。比叡山においては、更に八宗の肝要を学習し、のこる二宗を極めることが目的でした。

比叡山の学風には、宝池房証真の文献と教相を継ぐ学び方と、中古天台の本覚思想を学ぶ両者があります。これに、「四宗兼学」と密教の修法などが加わり、各分野においては専門的に研究されていたといえましょう。

比叡山での学習は、特に師匠とすべき学匠がいなかったようです。

ただし、日蓮聖人の『注法華経』に、天台座主の勝範の『蓮実房口伝』の一説が注記されています。勝範の流れが俊範に繋がっていることから、日蓮聖人は俊範に師事されたと言われています。『注法華経』は経論章疏を法華経の経典に注記して、一代仏教の要点を捕捉したものです。日蓮聖人の「遺文」からは、俊範いがいに特筆する学匠の名は見当たりません。

とうじの比叡山には、天台・伝教大師の誓願というべき、純粋な『法華経』は伝承されていなかったといえます。むしろ、「真言密教」の影響は台密化を強くしており、「浄土信仰」が天台宗の内部まで浸透している状態でした。

そこで、日蓮聖人は比叡山を拠点として他寺の遊学にでました。『破良観等御書』に、

「其後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども、我が身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何れの宗なりとも」(一二八三頁)

と、他宗である八宗、そして、「真言密教」の教えを問い質して、自宗の『法華経』に勝れた教えがあるのかを、偏頗心を捨てて遊学したとのべています。

また、幼少からの疑問である各宗の教義について、「所詮肝要を知る身とならばや」という学究心は、納得できる答えを求めて、「国々寺寺あらあら習い回り」、「随分に走りまわり」とのべているように、かなりの範囲を尋ね歩き修学したとのべています。旅中の宿舎や食事は天台系寺院に給仕をうけ、旅中の移動時間が思索の時間でもありました。

日蓮聖人は仏教を極めるため様々な努力をしました。しかし、自己がいだく疑問を解決できない自己への苛立ちと、その疑問に納得のできる解答をする学僧がいない虚しさが交互していたのです。書籍を読むだけでは習得できない、実際にその寺々に行かなければ体得できない、というのが『山家学生式』の規範でした。『神国王御書』に、

「随分に顕密二道並に諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と聞き見し、勘へ見て候へば、故の候けるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし」(八八五頁)

と、顕密二道や諸宗の教えを碩学に習い、自ら各地の寺寺を歴訪して、論釈の講義を見聞し修学したとのべています。しかし、思うような結果が得られなかったことを、『本尊問答抄』に、

「然而(しかるに)、随分諸国を修行して学問し候しほどに我身は不肖也、人はおしえず、十宗の元起勝劣たやすくわきまえがたきところに」(一五八〇頁)

と、のべたことにうかがえます。これはなにを意味しているのでしょうか。『妙法尼御前御返事』に、インド・中国の主要な論釈章疏の典籍を、数多く収集したことをのべています。

「一代聖教の論師・人師の書釈、あらあらかんがえあつめて、此を明鏡として」(一五三五頁)

比叡山に所蔵されていない秘蔵の書籍が他所にあり、日蓮聖人は各地に赴いて、それら秘蔵の典籍を閲覧し『宗要集』を作成していたことがうかがえます。日蓮聖人が一七歳のときに書写した『円多羅義集唐決』の筆跡や、『注法華経』のように、大小さまざまに書き入れられた経論釈の運筆から、叡山遊学期においては、かなりの速さでの筆写を重ねていたことがわかります。

また、日蓮聖人の読書範囲は、浅井円道先生が指摘したように、広範囲にわたっていました。「遺文」に故事として引用された文献についても、鎌倉修学期とどうように、比叡山においても読破していたと思われます。「日本第一の智者」(『善無畏三蔵鈔』四七三頁)になるには、これらを含め多くの経論章疏をマスターする必要がありました。

そして、日蓮聖人はこれらを「明鏡」として、自身の能力に応じて極めなければならないと決断したのです。なぜなら、日蓮聖人の学解がすべての碩学の知識を越えたからです。「我が面を見る事は明鏡によるべし」(『神国王御書』八八五頁)とのべた「明鏡」とは、日蓮聖人が収集した『宗要集』であり、それは、仏説に判断を委ねることでした。すなわち、「法四依」の領域に達したのです。

建長三年一一月末に、『五輪九字明秘密釈』を書写し、それから、建長五年一月(三月)の下山までの一年ほどが、この「明鏡」と対峙した段階であり、最後の難関である「真言密教」の研究に没頭されていた時期となります。

 鎌倉の仏教界は、北条氏は中国の文化をとりいれ、臨済禅が武士の精神性に支持をうけるようになっていました。