84.「法四依」と「人四依」 高橋俊隆 |
◆第三節 継承天台伝教○「法四依」と「人四依」日蓮聖人は『破良観等御書』に、 「本よりの願に、諸宗何(いずれ)の宗なりとも偏黨執心あるべからず。いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用(もちう)べし。論師・釈者・人師にはよるべからず。専(ら)経文を詮とせん」(一二八三頁) と、のべているように、長年の修学の結果として、先師の論釈章疏や学匠の言葉はあくまで参考であって、仏教の真実を究明するには、仏教を説いた釈尊の教えに従うべきであるという原点に帰りました。仏説を「明鏡」として、自身の疑惑を解明する方法を用いたのです。 日蓮聖人は釈尊の遺言という『涅槃経』の「法四依」の文を依拠とします。『涅槃経』は、釈尊が涅槃に入る一日一夜に説かれた遺言的な教えで、在世に授記を受けなかった衆生を救済する「捃拾教」(『法華玄義釈籖』)といわれます。『涅槃経』の「法四依」とは、「依法不依人・依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経」を、いいます。 『涅槃経』の「法四依」について、『報恩抄』につぎのようにのべています。 「我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云、依法不依人等云々。依法と申は一切経、不依人と申は仏を除き奉て外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸人師なり。此経に又云、依了義経不依不了義経等云々。此経に指ところ了義経と申は法華経、不了義経と申は華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり」(一一九四頁) この「法四依」にいたるまでには、十宗それぞれの宗派の教義を研究し、諸所の学匠に学んできました。しかし、日蓮聖人が持っていた疑問は、自分でその答えを探さなければならなかったのです。そこに、天台・最澄が指針とした、『涅槃経』の「法四依」の文がありました。これよりは、自らに蓄積された知識をもとに、純一無雑の心境で文理現の三証が具足した宗旨を選定します。 『開目抄』に、 「宗々、互に権を諍う。予、此をあらそわず。但、経に任すべし」(五七九頁) と、自己の見識や自宗に執着することは誤りであり、経文に全権を委任すべしという基準に立つことが、これまでに修学してきた最後の結論であり、それを、『開目抄』に、 「上にあぐるところの諸師の釈、皆一分々々経論に依て勝劣を弁やうなれども、皆自宗を堅く信受し先師の謬義をたださざるゆへに、曲会私情の勝劣なり。荘厳己義の法門なり」(五八四頁) と、各宗は「曲会私情」であると判断されました。すなわち、各宗の先師は経論を正しく修学したうえで、仏教の勝劣を判断したように言っているが、内実は意図的に自分の宗を最上の教えとすることに、固執しているだけのことであると見做しました。 日蓮聖人は「曲会私情」・「荘厳己義」のない、公平な修学にすすまれたといえましょう。その結果、釈尊が説かれた経典に直接、真実を求めることとなりました。そして、ここから結論として導かれた釈尊の了義経とは『法華経』であったのです。ゆえに、『報恩抄』に、 「されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。随て法華経の文を開き奉れば、此法華経、於諸経中、最在其上等云々」(一一九四頁) と、のべているように、『法華経』を「明鏡」として解釈すれば、一切経が整然として『法華経』に収まってくると理解したのです。つまり、日蓮聖人が「明鏡」として選ばれたのは、「真言密教」ではなく『法華経』だったのです。 『神国王御書』に、 「而に日蓮此事を疑しゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並に諸宗一切経を、或は人にならい、或は我と開見し、勘へ見て候へば、故の候けるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ことは仏鏡にはすぐべからず」(八八五頁) と、さきにのべたように、日蓮聖人は充分に思索し最終的な判断を自ら決したのです。 この「明鏡」に顕された真実を知る方法が「法四依」で、これは経法を採択します。これと同じく、経法を伝える者を指定しているのが「人四依」です。 この「人四依」は、釈尊滅後の「正像末三時」にわたる「付法蔵」を基本とします。つまり、釈尊の真実の正法を伝弘する者のことです。『法華経』には、神力品の「別付属」と、嘱累品の「総付属」が示されています。この『法華経』の「総別付属」を知るには、「人四依」の理解が必要です。 「人四依」とは、図録二十二『一代五時鶏図』(二三五八頁)に、 「初依の菩薩――天台・南岳等位――凡師 第 二 依――竜樹菩薩等――――聖師 第 三 依 第 四 依――普賢・文殊師等 」 と、図示されています。ここに、日蓮聖人は「初依の菩薩」に天台大師を挙げています。そして、天台大師を智者第一として日蓮聖人の教学を形成したことを指摘します。また、「三国四師」の系譜に、釈尊・天台・伝教、そして日蓮聖人を系統として、『法華経』の正伝者としたことを踏まえなければ、日蓮聖人が『法華経』を選択した理由が明確になりません。ここでは、日蓮聖人が天台と最澄の教えを継承していることを指摘します。 さて、「法四依」に準拠して仏教を学び、教法選択の指針を得て『法華経』に到達しますが、その過程において、天台教学が大きな師範となっていたのは周知のことです。それは、「遺文」の処々に天台・妙楽の釈文を引用し、日蓮聖人の教学の補強とされたところにうかがえます。「人四依」のなかの初依の菩薩に、天台を挙げた理由はどこにあったのでしょうか。 日蓮聖人が比叡山の修学で得たことは、『法華経』こそが最勝の教えであるということでした。なにをもって最勝と判断されたのか、といいますと、一切衆生が成仏するには『法華経』でなければならないということでした。そこで、『法華経』の教えを継承する仏使は誰かとみたときに、すでに没していた天台・伝教だけであったのです。 しかし、その天台・伝教の『法華経』を、釈尊の真実の教えとして継承する人は誰かと鑑みたときに、とうじの比叡山には、その『法華経』を持つ者はいなかったのです。比叡山の結論は、釈尊が説かれた『法華経』を広めなければならないということであり、仏弟子として今、釈尊の遺訓をまもるにはどうすべきなのかと考えられました。 日蓮聖人の「立教開宗」は、それを使命とうけとめたところにありました。比叡山の結論として導き出されたのは「附随天台」という立場を継承した法華経観でした。つまり、日蓮聖人の仏教理解は、天台大師の『三大部』を基本として受容されたのです。法然は「偏依善導」と言われるように、善導の著述により浄土宗を開きました。どうように、日蓮聖人は天台の『三大部』により「立教開宗」を決意したと言えるほど傾倒しています。 「法四依」のなかの「依義不依語・依智不依識」の文に即応して、天台『三大部』を『法華経』の正確な解説書としています。のちにのべるように、釈尊・天台・伝教に続く「法華経の行者」として、日蓮聖人を位置づけた「三国四師」の系譜の理由がここにあります。 『三大部』とは、『法華文句』・『法華玄義』・『摩訶止観』の三つをいいます。そして、『波木井三郎殿御返事』に、 「但、仏滅後于今二千二百二十二年也。正法一千年、龍樹天親等為仏御使弘法。雖然但弘通小権二教実大乗未弘通之。入像法五百年、天台大師出現漢土破失南北邪義立正義。所謂教門五時観門一念三千是也」(七四七頁) と、のべているように、「法華最勝」を論じた教相論が、「一代五時」・「五時八教」であり、観心論として「一念三千」が確立していました。 日蓮聖人はこのなかでも『摩訶止観』を重視されています。『兄弟抄』に、 「天台大師の摩訶止観と申文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡て五百余年、南北の十師智は日月に斉く、徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候しが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給のみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取出して、三国の一切衆生に普く与へ給へり。此法門は漢土に始るのみならず、月氏の論師までも明し給はぬ事也。然れば章安大師釈云、止観明静前代未聞云云。又云天竺大論尚非其類等」(九三一頁) と、「妙法蓮華経の五字」、「一念三千」が説かれていることに注目しています。これらの重要な教義は、のちにのべるように、「五義」の教判に準拠して、「末法正意」の法華経観としてのべられてきます。 |
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