85.日蓮聖人の最澄観                            高橋俊隆

○日蓮聖人の最澄観

日蓮聖人が入山されたとうじの比叡山は、どのような状況かといいますと、さきにのべたように、最澄が、「仏説に依憑して口伝を信ずることなかれ」と、仏説の誡めを守り、経文に忠実であるようにという遺誡を守らず、時代の流行であり民衆が好みとしていた、真言の口伝を倣い写し、浄土信仰や禅を許容していました。

最澄の事跡については、さきにのべたので、ここでは、比叡山の開祖である最澄を、日蓮聖人はどのように理解し、どのような影響をうけていたかを、概略ながら「遺文」にもとめてみます。

まず、日蓮聖人が最澄について引用する特徴の一つに、南都六宗の碩学である勤操・長耀などを論破したことをあげて、『法華経』の優位性をのべる証拠としたことがあげられます。ここに、日本に仏教が伝来して、それを大成したのを最澄とし、その到達点から、末法に使命を受けた、日蓮聖人の『法華経』が展開していくといえましょう。

つぎの、『安国論御勘由来』の文は、最澄の功績をよくのべています。

「日本国天神七代・地神五代・百王百代始于人王第卅代欽明天皇御宇自百済国仏法渡此国至于桓武天皇御宇。其中間五十余代二百六十余年也。其間一切経並六宗雖有之天台真言二宗未有之。桓武御宇山階寺行表僧正御弟子有最澄小僧。[後号伝教大師]已前所渡六宗並禅宗雖極之未叶我意。聖武天皇御宇大唐鑑真和尚所渡天台章疏経四十余年已後始最澄披見之粗覚仏法玄旨了。最澄為天長地久延暦四年建立叡山。桓武皇帝崇之号天子本命道場。捨六宗御帰依一向帰伏天台円宗。同延暦十三年遷長岡京建平安城。同延暦廿一年正月十九日於高雄寺召合南都七大寺六宗碩学勤操・長耀等十四人決断勝負。六宗明匠不及一問答。閉口如鼻。華厳宗五教・法相宗三時・三論宗二蔵三時所立破了。但非破自宗皆知為謗法者。同二十九日皇帝下敕宣詰之。十四人作謝表奉捧皇帝。其後代々皇帝叡山御帰依孝子超仕父母勝恐黎民王威。或御時捧宣明。或御時以非処理等云云」(四二二頁)

 つまり、南都仏教の六宗七大寺などの、碩学の十四名が最澄によって論破され、最澄の法華宗に帰依したと捉えていることは、日蓮聖人にとって、最澄は南都仏教の総まとめをしたと受けとめます。最澄の天台法華宗が最高の宗派として、新たに平安仏教の始まりであったと裁断されていたことです。

『撰時抄』の問いのなかに、この桓武天皇の高雄山での宗論についてふれ、善議などの帰伏状を載せて「法華最勝」をのべています。

「去延暦二十一年正月十九日高雄山に桓武皇帝行幸なりて、六宗七大寺の碩徳善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人、最澄法師と召し合せられて宗論ありしに、或一言に舌を巻て二言三言に及ばず、皆一同に頭をかたぶけ、手をあざ(叉)う。三論の二蔵・三時・三転法輪、法相の三時・五性、華厳宗の四教・五教・根本枝末・六相十玄皆大綱をやぶらる。例せば大屋の棟梁のをれたるがごとし。十大徳の慢幢も倒にき。爾時天子大に驚かせ給て、同二十九日に弘世・国道の両吏を敕使として、重て七寺六宗に仰せ下れしかば、各々帰伏の状を載て云、窃見天台玄疏者 惣括釈迦一代教悉顕其趣無所不通 独逾諸宗殊示 一道。其中所説甚深妙理。七箇大寺六宗学生昔所未聞曽所未見。三論法相久年之諍渙焉氷釈照然既明猶披雲霧而見三光矣。自聖徳弘化以降、于今二百余年之間 所講経論其数多矣。彼此争理其疑未解。而此最妙円宗猶未闡揚。蓋以此間群生未応円味歟。伏惟聖朝久受如来之付深結純円之機 一妙義理始乃興顕六宗学者初悟至極。可謂 此界含霊而今而後 悉載妙円之船 早得済 於彼岸。乃至 善議等 牽逢休運乃閲奇詞 自非深期何託聖世哉等[云云]」(一〇二七頁)

 ここで日蓮聖人が示しているのは、最澄の「法華一乗」の教義が、それまで日本仏教を支配してきた南都仏教の教義を打ち破ったということです。日蓮聖人の日本仏教史観は、聖徳太子によって興隆した仏教が、鑑真などを経て最澄に開花したと捉えます。結論をいえば、それは『法華経』の一乗思想の教えであったのです。

その影響として、自分は最澄の門人であり、時を隔てた弟子として受けとめたことに現れます。この呼称が、『立正安国論』に「天台沙門日蓮勘ふ」(二〇九頁、脚注)とあるように、天台宗の教えを受け継ぐ受戒僧であると表明され、さらに、その自覚を『法華題目鈔』の冒頭に、つぎのように署名しました。

「根本大師門人。日蓮撰。南無妙法蓮華経」(文永三年正月六日、四五歳、三九一頁)

この自称は、「比叡山根本中堂の開祖である根本大師最澄の直弟」である、という強い日蓮聖人の意識が表れたものです。最澄の呼称については、叡山大師、山家大師、そして、伝教大師の諡号を賜っていますが、日蓮聖人は本書に根本大師の呼称を用いられました。

また、『開目抄』に、

「日蓮云、日本に仏法わた(渡)りてすでに七百余年、但伝教大師一人計、法華経をよ(読)めりと申をば諸人これを用ず」(五四九頁)

と、最澄を「伝教大師」と呼称したのは、『法華経』の体得者・行者としての最澄を、師匠とした自覚をのべています。ここに、最澄いごの天台宗にたいしての評価が加えられることになります。すなわち、同じく『開目抄』に、

「日本国に此(この)法顕(あらわるる)こと二度なり。伝教大師と日蓮となりとしれ」(五八三頁)

と、『法華経』を定着した最澄と、『法華経』を広める自分という、特別な立場から最澄をのべていきます。最澄の遺誡である『法華経』の弘通を、そのまま引き継ぐ者という、正当継承者「三国四師」の意識をうかがえます。のちに、鎌倉で弘教した「復古天台」の原点といえましょう。

ここには、日蓮聖人の用例の特徴というべき、「法華経の行者」としての最澄観があります。つまり、『撰時抄』など諸所にのべている、

「もし経文のごとくならば日本国に仏法わた(渡)て七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし」 (一〇一九頁)

と、「法華経の行者」として規定された最澄観です。日蓮聖人が最澄を伝教大師と呼称される背景には、「法華経の行者」という見解があったことです。「法華一乗」・「大乗戒壇」を建立したところに、像末における法華弘通の責務を果たしたと認め、「法華経の行者」としての最澄をあらわした呼称でした。すなわち、『報恩抄』に、

「我師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立べしという不思議さよ。あらをそろしをそろしとのゝし(罵)りあえりき。されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立させ給ぬ。されば内証は同けれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超させ給たり」(一二四七頁)

と、「円頓戒壇」を建立したところに、最澄に天台大師を超えた功績と、超勝性を認めたことが理解できます。

ここで、うかがえることは、日蓮聖人は比叡山の修学において、最澄を法華弘通の正統な仏教者として認識していたことです。これは、「真言密教」にたいし、「法華最勝」の見解に到達したことであり、最澄の「専持法華」の遺誡にしたがって研鑽していたからです。

日蓮聖人は釈尊の経文に、成仏の現証を求めました。日蓮聖人の仏教を理解するための指針は、「法によって人によらざれ」という、『涅槃経』の「法四依」を遵守して、仏教を理解することが正しいと考えました。

この経文遵守の視点から、『無量義経』の「四十余年未顕真実」、『法華経』のなかに「已今当の三説」と説かれたところを、釈尊の真実の教えと受けとめました。確かに、仏教は釈尊の教えであることから、釈尊の仏説に忠実に従うことが基礎といえます。

日蓮聖人は一切経をもとに、たくさんの仏教経典、論・釈などを読破し、充分に考えられその結果として、天台大師の教判により『法華経』が最も勝れた教えであり、末法時の私たちのために説き置かれた、成仏の教えであることに到達しました。(「法華至上」・「法華最勝」・「末法救護」)。

そして、師範の書籍になったのは天台大師の三大部で、いわゆる、天台教学にありました。また、それを継承していた最澄の法華思想でした。天台大師の教判は、『法華経』が最も勝れた教経であることをのべています。日蓮聖人にとっては、釈尊の一代仏教の教判を知ることが大事な課題であり、仏法の道理である理証、経文の証拠である文証、そして、国家社会の史的現実である現証を直視することでした。この「文・理・現の三証」を具備する教えはなにか。そして、「顕密二教」の教えに勝劣はあるのか、という課題がありました。

ここに到達するまでには、最澄と空海の両者における、『法華経』と「真言密教」との勝劣論があったことが重要です。日蓮聖人は、ここにおいても、最澄の思想を継承していく姿勢をとります。

このなかの課題の一つは、「如来の秘密」の教えにあります。日蓮聖人は釈尊の「秘密経」とは真言の密教ではなく、『法華経』のことであると論じます。その根拠としたのが、『法華経』の法師品の「秘要の蔵」、同じく、安楽品の「秘要の蔵」、そして、寿量品の「如来秘密」、神力品の「秘要の蔵」の経文でした。

最澄の仏教受容における密教とは、宗派としてではなく、一つの仏教を理解する権経という意識がつよかった、というのは周知のことです。止観業と遮那業を修学させたのは、この理由といいます。日蓮聖人は、『開目抄』に

「伝教大師は日本顕密の元祖」(五七九頁

と、のべているのは、最澄は「顕密の二教」を体得し、「顕勝密劣」の教義における、密教の限界を心得ていたとうけとめています。そして、『報恩抄』に、最澄の結論は「勝法華・劣大日」であると判断された典拠をあげ、つぎのようにのべています。

「但、依憑集と申文に、正く真言宗は法華天台宗の正義を偸とりて、大日経に入て理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落たる宗なり。いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入てありしに、龍智菩薩に値奉し時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ、邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ。月氏へ渡し給と、ねんごろにあつら(誂)へし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかた(語)れるを、記の十の末に引載られて候を、この依憑集に取載て候。法華経に大日経は劣としろしめす事、伝教大師の御心顕然也。されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は、一同に大日経等の一切経の中には法華経はすぐれたりという事は分明なり」(一二一一頁)

日蓮聖人は最澄が著した、『依憑天台集』などの著述のなかに、真言は天台宗に依憑したという、密教の虚偽が説かれており、密教は『法華経』に及ばないことを認知しています。『報恩抄』に『依憑天台集』を、「一巻の秘書」(一二一五頁)とのべて、空海を批判した理由はここにあります。

日蓮聖人は、その結果、天台大師・伝教大師が真実教とした『法華経』に帰結します。日蓮聖人の法華経観は、天台大師の法華教学を継承するものであり、どうじに、天台教学を基盤とした、最澄の法華教学を継承するものです。

また、最澄の末法観は、日蓮聖人において塾生され、釈尊の「未来記」の法華経として影響を受けていきます。『守護国界章』のなかで、安楽行品の「末世法欲滅時」を、「正像稍(やや)過ぎ已(おわ)りて末法太(はなはだ)近きに有り。法華一乗の機、今正しく其時なり。何を以て知ることを得る、安楽行品の末世法滅の時なることを」と、最澄は『法華経』の弘通は、末法の始めにあると解釈しました。日蓮聖人は『観心本尊抄』に、最澄が述懐した言葉をうけて、

「末法太有近の釈は我が時は正時に非ずと云ふ意也」(七二〇頁、原漢文)

と、最澄の像末時は時機未熟であり、釈尊が予言された未来の法華弘通は、今時の「悪世末法時」にあると受容しました。つまり、最澄は釈尊が付属した「後五百歳広宣流布」の遺戒をまもり、末法の始めにあたる日蓮聖人の時こそが、本当の法華弘通の時であると理解していたことをのべたのです。

ここには、日蓮聖人独自の法華教学があります。『法華経』の勧持品・不軽品には、「不惜身命」という独自の行者思想が説かれています。のちにのべるように、末法という時代によって、『法華経』の広め方が異なるという理解のもとに、天台教学の「一念三千」を理とし、日蓮聖人の仏使意識と、色読という行者意識に、「事の一念三千」となる末法思想が介在していたのです。最澄はそれを知って、「末法太有近」とのべ、後事を日蓮聖人に委託したとのべたのです。

日蓮聖人は天台沙門として最澄の「法華一乗」を受け、「末法正意」の「本門法華」という、独自の法華思想を展開し、その結果として『顕仏未来記』(五二歳)の、「三国四師」の系譜が成り立ったのです。

比叡山において修学された結果、日蓮聖人は「師資相承」・「三国四師」(「外相承」)の独自の系譜を立てます。あきらかに、最澄の教えを正統にうけつぐ者としての自覚であり、『法華経』を広める行者としての自覚であったのです。

日蓮聖人は『法華経』の行者意識をもたれて比叡山を下山します。比叡下山の覚悟は『法華経』を色読して『法華経』を実証することにあったのです。『開目抄』の、「三大誓願」を心に刻みながらの清澄寺帰山であったのです。