91.従地涌出品~不軽品               高橋俊隆

◇ 従地涌出品第十五

本品の前半は本門の序分で、後半の弥勒が釈尊と地涌菩薩との、師弟関係を問う「動執生疑」から本門の正宗分となり、「略開近顕遠」といいます。

 此土の菩薩が滅後の弘教を発誓すると、それを見た八恒河沙を越す他土の菩薩は、釈尊が許されるなら娑婆世界の弘教を請います。そのとき釈尊は、これらの菩薩の請いを制止します。(「止善男子」)。そして、この娑婆世界には本来、六万恒河沙の菩薩がいて滅後に『法華経』を説くことを告げます。この言葉と同時に大地が振動し、無量の菩薩が出現します。

 この菩薩は娑婆世界の地下の空中におり、釈尊の言葉により出現します。相好は釈尊と同じように高貴な姿をしています。これらの菩薩を「地涌の菩薩」といいます。上首を上行・無辺行・浄行・安立行菩薩といい、「四大菩薩」と呼称します。この「四大菩薩」は釈尊を恭しく問訊しました。

 会座の八恒河沙の菩薩は未見の「地涌の菩薩」に驚き、弥勒が代表してこの因縁を釈尊に問います。また、十方分身の諸仏の侍者も各自の仏に問います。分身仏は、釈尊に授記され仏となる弥勒菩薩がすでに問うているので、釈尊の返答を待つようにと告げます。

釈尊は弥勒に堅固の意をもって聞くことを訓誡し、答えたのが久遠から教化してきた弟子「本化の菩薩」の実在でした。すなわち、伽耶近成の垂迹仏を方便として、「久遠本仏」を「開近顕遠」する「一大事因縁」の説示をします。

 しかし、菩薩たちには少時における教化の実態を理解することは難解なことでした。そこで、弥勒たちの菩薩は、釈尊が成道して四十余年の間に、如何にこれらの大菩薩を教化されたかを問います。この不信をのべたのが「父少子老」(例えば二十五歳の青年が百歳の老人を我が子なりと言い、老人も青年を我が父なりと言うように、道理では信じ難い)、の問いです。つぎの如来寿量品に入って真実(「久遠実成」)を説きます。

―主要経文―

「止善男子不須汝等護持此経。所以者何我娑婆世界自有六万恒河沙等菩薩摩訶薩」(『開結』三九三頁)「如来不許」

「有四導師一名上行二名無辺行三名浄行四名安立行。是四菩薩於其衆中最為上首唱導之師」(『開結』三九七頁)「「四大菩薩」

「我於此衆中乃不識一人」(『開結』四〇二頁)「弥勒不識」

「我従久遠来教化是等衆」(『開結』四〇八頁)「久遠弟子」

「仏昔従釈種出家近伽耶坐於菩提樹爾来尚未久此諸仏子等其数不可量久已行仏道神通智力善学菩薩道不染世間法如蓮華在水従地而涌出皆起恭敬心住於世尊前是事難思議云何而可信仏得道甚近所成就甚多願為除衆疑如実分別説」(『開結』四一一頁)「動執生疑」

◇ 如来寿量品第十六

 弥勒から地涌出現の因縁を問われ、これに答えたのが本品です。弥勒の疑問に対し、釈尊は三度にわたり如来の真実の言葉を信じるように告げ、弥勒たちも三度にわたって信受することをのべ、真実を懇請します。この「三誡三請重請重誡」の儀式を経て、釈尊は伽耶城において始成正覚した新仏を方便説と答えます。これを「開近顕遠」「開迹顕本」といいます。すなわち、「五百億塵点」の譬えをもって「久遠実成」を顕します。

 釈尊は久遠の過去から娑婆や他土において、衆生教化をされたことを説いていきます。これを「三世常住」といいます。その間に燃灯仏と出現し、種々の仏として十方世界に教化してきたことを説きます。これを「「六或示現」といいます。そして、「良医治子」の譬えをもって、この化導について説き、本品において仏身の常住、国土の常住、娑婆即寂光を示しています。

釈尊の教えの肝要がこの如来寿量品に説き明かされています。日蓮聖人は如来寿量品の、「過去常」の大事なことを『開目抄』に、つぎのようにのべています。

「寿量の一品の大切なるこれなり。其後仏寿量品を説云 一切世間天人及阿修羅皆謂今釈迦牟尼仏出釈氏宮去伽耶城不遠坐於道場得阿耨多羅三藐三菩提等[云云]。此経文は始寂滅道場より終法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり。然善男子我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫等[云云]。此の文は華厳経の三処の始成正覚、阿含経云初成 浄名経の始坐仏樹 大集経云始十六年 大日経我昔坐道場等 仁王経二十九年 無量義経我先道場 法華経の方便品云我始坐道場等を、一言に大虚妄なりとやぶるもん(文)なり。此過去常顕時 諸仏皆釈尊の分身なり。爾前迹門の時は諸仏釈尊に肩並て各修各行の仏。かるがゆへに諸仏を本尊とする者釈尊等を下す。今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏皆釈尊の眷属なり。仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪取給き。今爾前迹門にして十方を浄土とがう(号)して、此土を穢土ととかれしを打かへして、此土は本土となり、十方浄土は垂迹の穢土となる。仏久遠の仏なれば迹化他方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり。一切経の中に此寿量品ましまさずば天無日月 国無大王 山河無珠 人に神のなからんがごとくしてあるべき」(五七六頁)

―主要経文―

「汝等諦聴如来秘密神通之力。一切世間天人及阿修羅皆謂今釈迦牟尼仏出釈氏宮去伽耶城不遠坐於道場得阿耨多羅三藐三菩提。然善男子我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫。譬如五百千万億那由佗阿僧祇三千大千世界仮使有人抹為微塵過於東方五百千万億那由佗阿僧祇国乃下一塵如是東行尽是微塵」(『開結』四一六頁)「断疑生信」「広開近顕遠」「「五百塵点久遠」

「或説己身或説佗身或示己身或示佗身或示己事或示佗事」(『開結』四一九頁)「「六或示現」三世益物」

如是我成仏已来甚大久遠寿命無量阿僧祇劫常住不滅諸善男子我本行菩薩道所成寿命今猶未尽復倍上数」(『開結』四二〇頁)「本因菩薩行」

「色香美味皆悉具足擣篩和合」『開結』四二三「妙法五字」

毒気深入失本心故」『開結』423「失本心の末世衆生」「仏種喪失」「逆縁下種」

是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差作是教已。復至佗国遣使還告」『開結』四二四「地涌付属」

◇ 分別功徳品第十七

 釈尊の寿命長遠(久遠実成)を聞いた菩薩たちは、法の利益を得ます。この「聞法の功徳」を十二段階に分別して説いています。これを分別功徳といい、迹門において授記を得なかった菩薩たちは、久遠実成を聞いた功徳により、弟子も久遠に達し未来成仏を果たすことが説かれています。これを本門の法身の記といいます。

 迹門の「二乗作仏」は二乗が菩薩と同じように成仏ができることを説きました。これは未来の成仏を保証しますが、現実には理の成仏といいます。本門本品の授記は、「久遠実成」を開顕した本仏が授記されたところに、迹門の授記との相違があります。ゆえに、久遠実成を聞いた弟子も久遠であることを悟り、現実に未来成仏の段階を昇ったと説いています。ゆえに、法身の授記を得た菩薩たちは歓喜し、瑞相を示して会座を荘厳します。そして、弥勒は領解をのべます。ここまでが本門の正宗分です。

 これより常不軽菩薩品までは、『法華経』を弘通する功徳が広大であることを説いていきます。これを「功徳流通」といいます。本品にはこの功徳を、釈尊の在世と滅後にわけて説いています。つまり、「現在の四信」と「滅後の五品」として説いています。これを「四信五品」といいます。「久遠実成」の本仏釈尊から発せられた言葉として意義を持ちます。

日蓮聖人は、四信の第一「一念信解」と、五品の第一「随喜品」を依拠として、「以信代慧」「信心為本」の修行を立て宗旨となります。このように、滅後における『法華経』弘通を主体的に説いています。

―主要経文―

「聞仏説寿命劫数長遠如是無量無辺阿僧祇衆生得大饒益」『開結』四三二)「授法身記」「本利益妙」

一念信解所得功徳無有限量。若有善男子善女人為阿耨多羅三藐三菩提故於八十万億那由佗劫行五波羅蜜」(『開結』四三九頁)「現在四信」「一念信解」

「又復如来滅後若聞是経而不毀訾起随喜心。当知已為深信解相」『開結』四四四「滅後五品」「初隋喜」

◇ 随喜功徳品第十八

 弥勒は『法華経』を聞いて随喜した者が、どのような功徳を得るかを問います。本品はこの「初随喜」の功徳についてのべています。釈尊は「滅後の五品」の、最初に『法華経』を聞いて一念でも随喜した者の功徳について、「五十展転」の譬を説きます。

これは、如来の滅後に『法華経』を聞いて信受し、この『法華経』を父母や友人など、他人のために説き、聞いた者も随喜して他人に説き、次第に転教して五十人目の人は、ただ随喜するのみであっても、功徳が大きいことを説きます。これを「一念随喜の功徳」といい、「初随喜五十展転の功徳」ともいいます。

 日蓮聖人は『四信五品抄』に、

「一向令称南無妙法蓮華経為 一念信解初随喜之気分也。是則此経本意也」(1296頁)

と、本品を依拠として、末法の修行は唱題一行にあるとし、これが『法華経』の本意であるとのべています。

―主要経文―

「仏告弥勒我今分明語汝。是人以一切楽具施於四百万億阿僧祇世界六趣衆生又令得阿羅漢果所得功徳不如是第五十人聞法華経一偈随喜功徳百分千分百千万億分不及其一乃至算数譬諭所不能知。阿逸多如是第五十人展転聞法華経随喜功徳尚無量無辺阿僧祇何況最初於会中聞而随喜者其福復勝無量無辺阿僧祇不可得比」(『開結』四五五頁)「五十展転随喜の功徳」

「若故詣僧坊欲聴法華経須臾聞歓喜今当説其福」(『開結』四六一頁)「分座聞法」「須臾聴法」

 釈尊は常精進菩薩に「五種法師行」を成就した功徳を説いて、『法華経』の流通を勧めます。具体的には「六根清浄」を示します。「五種法師行」とは、『法華経』を受持・読・誦・解説・書写することです。「六根清浄」は眼耳鼻舌身意の八百・千二百が、清浄になる功徳をいいます。

 分別功徳品(「四信五品」)・隋喜功徳品(「五十展転」)の功徳は、受持する者の「因の功徳」を説きます。本品は受持者が修行を完うして得益した「果の功徳」を説きます。これが「六根清浄」です。

―主要経文―

「八百眼功徳千二百耳功徳八百鼻功徳千二百舌功徳八百身功徳千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄」(『開結』四六三頁)

諸所説法随其義趣皆与実相不相違背。若説俗間経書治世語言資生業等皆順正法」(『開結』四八三頁)

◇ 常不軽菩薩品第二十

 不軽菩薩の故事を示して、『法華経』の行者を守る者の福徳と、逆に毀謗する者の罪業について説いています。過去世、大成国の威音王仏の滅後像法のときに、仏教を誤って理解し慢心をおこしている比丘がいました。不軽菩薩は、これら増上慢の四衆を礼拝し、「まさに仏となるべし」と、説いため、反感を抱いた比丘たちから悪口罵倒され、杖木瓦石の迫害を受けたが、これに屈せずに礼拝行を成し遂げたことを説きます。

 不軽菩薩は命終のとき空中に『法華経』の偈を聞き、これを受持し六根清浄の果徳を成就し、さらに寿命を増し多くの人々に『法華経』を説きます。

のちに、これを聞いた上慢の比丘たちも、『法華経』に信伏します。しかし、不軽菩薩を軽毀した大罪により無間地獄の苦報を受けます。この罪を滅しおわって、後に再び不軽菩薩の教化を受け、成仏することが決定したことを説きます。

 釈尊は、この時の不軽菩薩は自身のことであり、増上慢の比丘とは、今日の会座にいる跋陀婆羅等の五百の菩薩、師子月等の五百の比丘、尼思仏等の五百の優婆塞であると告げます。この逆縁による成仏を説き終えて釈尊は菩薩に向かって、滅後の『法華経』の受持と、不軽菩薩における「忍難弘経」「不惜身命」のあり方を説きます。

 不軽菩薩の弘教を「但行礼拝」といい、随う者がいなくても敢えて強引に弘教することを「折伏逆化」といいます。これを「毒鼓の縁」といい、逆縁の者にたいする布教の在り方を説いたものです。また、「逆縁下種」といい、日蓮聖人は『崇峻天王御書』に「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」(一三九七頁)とのべ、不軽菩薩の折伏を継承するもので、ここに「末法下種」の教えを推進していきます。

―主要経文―

「我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏而是比丘不専読誦経典但行礼拝」『開結』四八九)「但行礼拝」「仏性礼拝」

「杖木瓦石而打擲之」『開結』四九〇「色読受難」

彼時四衆比丘比丘尼優婆塞優婆夷以瞋恚意軽賎我故二百億劫常不値仏不聞法不見僧千劫於阿鼻地獄受大苦悩。畢是罪已復遇常不軽菩薩教化阿耨多羅三藐三菩提」『開結』四九三)「千劫堕獄」

「不軽菩薩能忍受之其罪畢已臨命終時得聞此経六根清浄神通力故増益寿命」『開結』四九五)「其罪畢已得益」