93.日蓮聖人教学の形成                         高橋俊隆

○日蓮聖人教学の形成

 日蓮聖人の「遺文」のなかに、比叡在山中の修学の過程について、細かくのべたものはほとんど残されていません。しかし、立教開宗のときには、概ねの教学が完成されていたとみなければなりません。

しかし、立教開宗の当初は天台僧として、最澄の天台宗に帰ることを主張した布教をしていました。それが『立正安国論』奏進を端緒に、自ら法華経の行者と名のるように、幕府から迫害を受けていきます。これとともに、内包していた法華経観が独自の教学として開花していったとみるべきです。佐渡以前の教学は、釈尊の爾前方便の施教と覚知せよという、『三沢抄』に述べた文言から、佐渡流罪以降においては、これまでとは違う教学を窺うことができます。すなわち、

「又法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。此国の国主我をもたもつべくば、真言師等にも召し合わせ給はずらむ。爾の時まことの大事をば申すべし。弟子等にもなひなひ(内々)申すならばひろう(披露)してかれらしり(知)なんず。さらばよもあわ(合)じとをもひて各々にも申さざりしなり。而るに去る文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頸をはねられんとせし時よりのち(後)、ふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわ(言)ざりける、とをも(思)てさど(佐渡)の国より弟子どもに内々申す法門あり」(一四四六頁)

と、「まことの大事」とする秘蔵の法門は、公場において真言師と対決するときまで、弟子にも秘蔵していたとのべています。内々に教示したことが他宗に露見し、反論の方策をする猶予を与えてはいけないという、用意周到に構築された教学が佐前にあったのです。それば真言師を屈服させるために用意されていたのです。

さらに、身延に入山後、再度の公場対決が断たれたときに同様のことを発します。つまり、日蓮聖人の内奥には既に秘蔵していた法門が存在していたということです。また、『法華経』を色読して、自身を『法華経』の現証とする時の経過が必要でした。日蓮聖人は秘蔵した大事な法門の、開陳すべき時と場を待っていたのであって、身延入山後に新たに作られた法門ではないのです。

 比叡山の修学の成果は、「二乗作仏」・「久遠実成」、そして、天台の「理一念三千」という教学において成仏論が確立します。この法華教学は、天台の「五時八教」の教相判釈により、理論的に確信します。しかし、遊学終了のときに、「五義」・「末法正意」・「事一念三千」・「題目」・「本尊」・「受持成仏」などについて、どのように把握していたかという課題が残ります。また、幼少から関心をもっていた、国政と国土の問題について、聖人独自の「本門の戒壇」・「娑婆即寂光」の教えは、どこまで到達していたのかという課題もあります。

しかし、立教開宗をスタートとした、「法華経の行者」の行動は、竜口法難を経て佐渡流罪に処せられます。日蓮聖人は法華経の色読と受けとめ、『開目抄』において仏使上行を明かし、そして、『観心本尊抄』において、三大秘法を説き、始めて曼荼羅本尊を図顕して、ここに日蓮聖人の教学が完成されたといえます。つまり、日蓮聖人は立教開宗をされた時点において、これらの教学が構築されていたとみるのです。視点を換えれば、法華経の行者意識と行動は、立教開宗いらい終生変わりませんでした。果たすべきは、『法華経』の色読であったのです。

 比叡山留学の成果=「本門法華経」の確立

          教義――本門の事一念三千論・三秘(本尊・題目・戒壇)

          信仰――以信代慧・受持成仏

          修行――唱題

          国土――娑婆浄土

さらに、日蓮聖人は鎌倉幕府の得宗支配と、新旧仏教界の興廃という渦中に生きていました。仏教界は日蓮聖人を排斥し、日蓮聖人は迫害を受けながらも教学を展開し、かつ、蒙古襲来の混乱期に教団を形成しなければならなかったのです。日蓮聖人が体験した現実を知ることにより信仰が深まります。