94.清澄寺帰山 |
比叡山一二年の修学に結論を得た日蓮聖人は、いったん清澄寺に帰山します。日蓮聖人が清澄寺に帰られた時期について、建長四年の末に安房に帰途したという説があります(岡元錬城著『日蓮聖人』六四八頁)、しかし、一般的には『日蓮辞典』(一一頁)にあるように、三二歳の春というのが定説となっています。 比叡山における修学を終了し、春ころ(三月~四月)に俊範の許可を得て下山の手続きをすませ、先輩諸賢などと別れて山麓の坂本に降りられたことでしょう。ここよりは故郷の安房を目差して東海道を東に進みます。近江路を琵琶湖の東岸にそって北上し、関ケ原・熱田・三河・駿河・三島・箱根・鎌倉という東海道の道筋にそって、天台宗の寺院に宿泊しながら進まれたといいます。鎌倉から安房には、三浦半島を通る従来の衣笠道と、新しく仁治二(一二四一)年に幕府によって開かれた、鎌倉と東京湾岸を結ぶ六浦道(金沢区)がありました。日蓮聖人は新しくできた、六浦港から海をわたって房州に上陸したと思われます。そして、清澄寺に帰ったのは四月といいます。 清澄寺に戻られた日蓮聖人は、虚空蔵菩薩の御宝前に詣で修学の報告をし、諸仏房の主である師匠の道善房に、帰山の報告をされました。比叡山において修学した天台僧としての地位は、大きな名誉であるので、清澄寺の学生や近隣の学生は、比叡山での修学の成果に期待されました。 しかし、日蓮聖人の胸中には「立教開宗」という大きな覚悟を披瀝するときだったのです。当初の課題としたのは、「本朝沙門」「根本大師門人」という自覚にみられるように、最澄の法華教学をいかに復帰するかということでした。同時に他宗を謗法として排他しなければなりません。 日蓮聖人にとって清澄寺帰山は、「立教開宗」をできるかどうか、という最後の葛藤のときでした。この心境を『三沢抄』に、 「而るに日蓮は聖人にあらざれども、日本国の今の代にあたりて此国亡亡たるべき事をかねて知りて候しに、此こそ仏のとかせ給て候、況滅度後の経文に当(あたりて)候へ。此を申しいだすならば、仏の指させ給て候未来の法華経の行者なり。知りて而も申さずば世々生々の間、をうし(瘖)ことどもり(瘂)生まれん上、教主釈尊の大怨敵、其国の国主の大讎敵他人にあらず、後世は又無間大城の人此れなり、とかんがえみて、或は衣食にせめられ、或は父母兄弟師匠同行にもいさめられ、或は国主万民にをどされしに、すこしもひるむ心あるならば一度に申し出ださじと、としごろ(年来)ひごろ(日来)心をいましめ候しが、抑も過去遠々劫より定めて法華経にも値い奉り菩提心もをこしけん。なれども設い一難二難には忍びけれども、大難次第につづき来りければ退しけるにや。今度いかなる大難にも退せぬ心ならば申し出だすべしとて申し出して候しかば」(一四四六頁) と、いうのが、比叡山留学の終わりころの自戒であり、「立教開宗」後に起こるであろうことへの最後の難詰でした。事実、「立教開宗」後の困難は、『法蓮鈔』に、 「然に今日蓮は外見の如ば日本第一の僻人也。我朝六十六箇国・二の島の百千万億の四衆上下万人に怨まる。仏法日本国に渡て七百余年、いまだ是程に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし。月氏・漢土にもありともきこえず。又あるべしともおぼへず。されば一閻浮提第一の僻人ぞかし。かゝるものなれば、上には一朝の威を恐れ、下には万民の嘲を顧て、親類もとぶらはず、外人は申に及ばず。出世の恩のみならず、世間の恩を蒙し人も、諸人の眼を恐て口をふさがんためにや、心に思はねどもそしるよしをなす。数度事にあひ、両度御勘気を蒙りしかば、我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも、或は御勘気、或は所領をめされ、或は御内を出され、或は父母兄弟に捨らる。されば付し人も捨はてぬ。今又付人もなし」(九五二頁) と、のべているように、知人や親類、父母兄弟に捨てられたと表現されるように、孤独な人生を享受しなければならなかったのです。 そして、『三沢抄』に「としごろ(年来)ひごろ(日来)心をいましめ候しが」と、のべたように、父母・兄弟・師匠・同行の出家や国主・万民に脅されたときに、少しでも怯む心があるならば「立教開宗」をしないと心を戒めていたのです。日蓮聖人は「立教開宗」を決意するまで、数年の年数をかけて行者意識を高めていたのです。 伝記に、諸国を遊行したのが三〇歳ころというのは、この「年来日来」に自問自答した時期にあたります。「立教開宗」の決意については、『報恩抄』に、 「日蓮此れを知りながら人々を恐れて申さずば、寧喪身命不匿教者の仏陀の諫暁を用いぬ者となりぬ。いかんがせん。いは(言)んとすれば世間おそろし。止(やめん)とすれば仏の諫暁のがれがたし。進退此に谷(きわまれ)り。むべなるかなや、法華経の文に云く、而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後。又云く、一切世間多怨難信等云々。(中略)況滅度後と申して未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと説かれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり」(一一九八頁) と、釈尊の諫暁を無視することができないが、はたして、迫り来るであろう大難を忍受できるかの、進退に悩まれています。そして、その決意を『開目抄』に、 「日本国に此れを知れるもの但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば、父母、兄弟、師匠に国主の王難必ず来るべし。いはずば慈悲なきに似たりと思惟するに、法華経、涅槃経等に、此二辺を合せ見るに、いはずは今生は事無なくとも、後生は必ず無間地獄に堕べし。いふならば三障四魔必ず競い起るべしと知ぬ。二辺の中にはいうべし」(五五六頁) と、のべているように、これまで日本において、『法華経』を釈尊の真実の教えとし、本門の『法華経』を広めた者は誰もいないときに、「三障四魔」・「三類の強敵」を忍ぶことができるかという自己葛藤がありました。そして、年数をかけてなんども反復して決意を固めたのです。この決意は「法華最勝」を説くだけではなく、謗法者を改心させ『法華経』に帰参させることが目的なのです。それが仏子に命じた釈尊の付属であり、そのために値うであろう「三障四魔」という予言でした。必然的に「在世より大なる大難」に、対抗できる行者意識を確立しなければならないのです。 この行者意識は「三大誓願」として表れます。行者意識を形成したのは、さきにのべた比叡山遊学の成果である「本門法華経」を広めることにあります。ゆえに、同じく、『開目抄』に、 「既に二十余年が間、此の法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり」(五五七頁) と、この『開目抄』を書かれている二〇年前とは、「立教開宗」の年にあたります。つまり、日蓮聖人は「立教開宗」の三二歳の当初より、かわらずに「此の法門を申す」という法門とは「本門法華経」であり、この「本門法華経」を広める決意が「三大誓願」を立願した真意でした。 どうように、不惜身命の信念をもって二〇数年弘通したことを『頼基陳状』にのべています。 「経文にまかせて立て給し程に、此事申さば大なるあだあるべし、不申者(もうさずんば)仏のせめのがれがたし。いはゆる涅槃経に若善比丘見壊法者当知是人仏法中怨等云々。世に恐れて不申者、我身悪道に可堕(おつべき)と御覧じて、身命をすてて去建長年中より今年建治三年に至るまで二十余年が間、あえてをこたる事なし。(中略)仏法の中の怨(あだ)なるべしと、仏の御いましめのがれがたき上、聴聞の上下皆悪道にをち給はん事不便(ふびん)に覚え候へば如是(かくのごとく)申し候也」(一三五〇頁) また、遊学において「法華最勝」を覚知できたのは、虚空蔵菩薩の加被力による「御恩」をのべています。後述するように、「虚空蔵菩薩の恩に報じる」とのべ、「立教開宗」の場を清澄寺としたのは虚空蔵菩薩への報恩でした。清澄寺帰山は重要な意味をもっていたのです。 左図のように虚空蔵菩薩に誓願した知者は、『法華経』を最勝と知る知教者になりました。また、『法華経』を知るということは、仏使を自覚して法華色読の行者となることでした。 智者の誓願―――知教者の自覚――――地涌付属 ―― 本化上行自覚 || || || || 虚空蔵菩薩―――法華本門最勝――― 立教開宗 ―― 法華経の行者 日蓮聖人が幼少より「日本第一の智者」となる誓願を立て、比叡山の修学を終えて修得したのは、『法華経』の本門思想にありました。そして、「末法正意」の『法華経』の使命は、「謗法堕獄」を阻止し成仏の直道を覚醒することでした。この弘教は釈尊の在世よりも険難が多く、勧持品に説かれた「三類の強敵」が迫害を加えるものでした。しかし、経文を色読して『法華経』の真実(法)が証明され、末法の導師(人)の証明となります。 日蓮聖人の清澄寺帰山にうかがえることは、末法弘通の使命を受けた本化上行菩薩の先陣として、『法華経』を弘通する仏子の道を選ばれたということです。 |
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