95.虚空蔵菩薩のご恩

○虚空蔵菩薩の御恩

 日蓮聖人は得度をした清澄寺にて「立教開宗」の準備をします。この年は末法に入って(永承七年1052年)二〇一年にあたります。法然の寂後四一年、栄西の寂後三八年、道元の寂年にあたり、親鸞は八二歳、一遍は一五歳のときでした。

さきに確認したように、日蓮聖人自身の心境は進退に苦悩しますが、知教者として、「三類の強敵」があっても、釈尊に忠実である自覚と、謗法救治の覚悟がありました。 

『本門宗要抄』などによると、清澄寺に帰った日蓮聖人は、一七日の間、草堂に篭り禅定に入ったといいます。「立教開宗」にあたり、禅定に入られ覚悟を決定したことは充分に領解できることです。これから身に起こるであろう多難の行き先を、「身軽法重」の金言を守り、命にかえても進むべき決意であったからです。

日蓮聖人は四月二八日、暁天の朝日にむかって合掌し、南無妙法蓮華経と題目を十辺唱えます。(『本門宗要抄』に三月二八日とあるのは二二を三と読んだ誤記)。昔日、伊勢の廟裡に詣で天照大神を感見した、その成満の日が二八日といいます。日蓮宗においては、旭ヶ森にて題目を十遍唱えたのを「始唱の題目」とします。

日蓮聖人が建長五年の「立教開宗」より、宗旨として唱題されていたことは『松野殿御消息』に、

「或は法華経を読人は有しかども、南無妙法蓮華経と唱る人は日本国に一人も無し。日蓮始て建長五年夏の始より二十余年が間唯一人、当時の人の念仏を申すやうに唱れば、人ごとに是を笑ひ、結句はのり、うち、切り、流し、頚をはねんとせらるること、一日二日一月二月一年二年ならざれば、こらふ(堪)べしともをぼえ候はねども、此経の文を見候へば、檀王と申せし王は千歳が間阿私仙人に責つかはれ、身を牀となし給ふ。不軽菩薩と申せし僧は多年が間悪口罵詈せられ、刀杖瓦礫を蒙り、薬王菩薩と申せし菩薩は千二百年が間身をやき、七万二千歳ひぢ(臂)を焼給ふ。此を見はんべるに、何なる責有りとも、いかでかさてせき(塞)留むべきと思ふ心に、今まで退転候はず」(一一四〇頁)

同じように、『松野殿後家尼御前御返事』にも、

「但日蓮一人ばかり日本国に始て是を唱へまいらする事、去ぬる建長五年夏のころより今に二十余年の間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経とこれを唱ふる事は一人也」(一六三一頁)

と、のべていることから、「立教開宗」より、題目を唱えていたことがうかがえます。

唱題という修行は、日蓮聖人が始ではなく、平安時代から持経者といわれる行者に見られる行為といいます。(高木豊『平安時代法華仏教史研究』)。同じく、天台本覚思想の『修善寺決』にも、法華唱題が説かれており、天台宗の伝統になっていた可能性が指摘されています。(花野充昭『東洋学術研究』)。

ここに、日蓮聖人の唱題の修行法は天台宗の影響をうけ、さらに、それを南無阿弥陀仏と称名する念仏に、対抗した易行としてできたという指摘があります。つまり、題目を唱えることは平安時代から存し、日蓮聖人が唱題一行を立てたのは、浄土教の念仏易行を真似たものであるというのです。これについては後述します。

さて、この題目始唱のところを旭ヶ森といいます。清澄寺から西の方にあたり、突き出るようになっている山をいいます。房総の山並みをはるかに越し、太平洋に最初に姿をあらわす旭日に向かって、『法華経』の題目である南無妙法蓮華経を唱えたのです。この旭ヶ森は朝日の森ともいい、それ以前には、日の森とか経塚山ともいっていました。

『報恩抄送状』に、この朝日森と思われる、「嵩(かさ)かもり()の頂」(一二五一頁)という、清澄山に在る場所の地名が書かれています。日蓮聖人の頃は、「ヶ森」と言っていたことがわかります。日蓮聖人は道善房が死去のおりに、弟子に『報恩抄』を、まずこの嵩か森の山頂で二、三遍、読み上げるように指示していますので、立教開宗の宣言をした所といえましょう。

また、虚空蔵菩薩の御恩を報ずるために、「立教開宗」をされたのは周知のことで、このことから、日蓮聖人が虚空蔵菩薩より宝珠をさずかったのも、四月二八日と考えられます。このように、清澄寺にて「立教開宗」された理由としては、まず虚空蔵菩薩の御恩が挙げられます。幼少より仏教に関心をもち、清澄寺にて本格的に修学を始め、二〇年の研鑽を経て、その真実を極めさせていただいたことの御恩がありました。

そのつぎに、出家得度の寺として、幼少より仏道修行を導き、鎌倉・比叡山の遊学を許していただいた、道善房にたいしての報恩がありました。ゆえに、始めて『法華経』の説法をされたのは、道善房の持仏堂でありました。日蓮聖人はここで道善房や、兄弟子に教えを受けられたのでしょう。つまり、清澄寺には、日本第一の智者」として、「法華最勝」を知り、仏子の自覚をもたせ、そして、「立教開宗」に導いてくれた、清澄寺全山の恩義がありました。すなわち、『善無畏三蔵鈔』に、

「此諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師道善御房の御恩なるべし。亀魚(かめ)すら恩を報ずる事あり、何に況や人倫をや。此恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す」(四七三頁)

と、のべているように、清澄寺での「立教開宗」は虚空蔵菩薩の御恩と、道善房への報恩という二つの恩義があったのです。また、清澄寺へ導いた両親への報恩も考えられましょう。(高橋智遍『日蓮聖人小伝』一四七頁)。

後述しますが、道善房の御恩について、具体的にのべているのが『報恩抄』です。智者とさせてくれた虚空蔵菩薩、そして、沙門の道を開き進めてくれたのが道善房です。その道善恩師に成仏の直道である『法華経』を、弟子として教示する責務があったのです。

さて、日蓮聖人がはじめて、「立教開宗」となる宣言をしたのは、『清澄寺大衆中』に、

「此を申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩のご恩を報ぜんが為に、建長五年四月二十八日、安房の国、東條郷清澄寺、道善の房の持仏堂の南面にして浄円房と申す者、並びに少々の大衆にこれを申しはじめ」(一一三四頁)

また、その時刻を『聖人御難事』に、

「清澄寺と申す寺の、諸仏房の持仏堂の南面にして、午の時に此法門申しはじめ」(一六七二頁)

と、のべていることから、場所は「道善の房の持仏堂の南面」を選ばれました。この持仏堂は日蓮聖人が入山のときより、学問に励まれた神聖な場所であったのでしょう。本尊虚空蔵菩薩を安置する御宝前ではなく、持仏堂を選ばれたのは、虚空蔵菩薩の御宝前は説法をする場ではなく、修行重視の結界的な清浄な場であったといいます。つまり、講堂ではなかったということです。

あるいは、高木豊先生がのべるように、法華至上主義を人々に伝えていく弘法者としての第一歩は、教主釈尊の御前であったのかもしれません。(『日蓮―その行動と思想―』増補改訂四〇頁)。しかし、道善房は念仏の信仰をしていたことからすると、阿弥陀仏が安置されていたと思われ、あえて、弥陀の前にて念仏無間を主張されたのかもしれません。

 時刻は諸天善神の食事午の刻にあたります。つまり、正午一二時に道善房の住房である持仏堂の南面にて、『法華経』を説かれました。午の刻とは、ちょうど太陽が中天にさしかかったころです。南に面したということは、「大王は常に南面する」という故事に習い、『法華経』は一切経の中の大王という王座を示したのです。

当時の天台宗寺院に住む僧侶は、仏教を学ぶ大衆(学生)と、寺内の雑事をおこなう堂衆とからなっており、清澄寺においても大衆がいたと思われます。浄円房は清澄寺の近くの西条花房の蓮華寺の住僧で、日蓮聖人は清澄寺山内に住む兄弟子をはじめ、それら数人の大衆の前で、『法華経』こそが成仏の教えであることを説きました。

日蓮聖人において、正法である『法華経』を弘通した第一歩でした。しかし、通途の『法華経』を説くことは、天台宗の基本にすぎません。この場において、主に浄土教の批判をしたことに意義があったのです。

『本化別頭仏祖統紀』によると、日蓮聖人はおだやかな顔をされ、大衆をうやまい合掌をし、釈尊の一代の教えは「五時八教」におさまり、釈尊の遺言にあたる『涅槃経』には「依法不依人」と説かれ、仏教は五綱を規範にして説くべきとのべます。

一二歳より二〇年にわたり修学し、ついに感得した無上の経はなにか。末法の今はまさに『法華経』を信奉するとき、なぜなら、釈尊は霊山において、多宝仏より『法華経』は真実であるという証明をうけ、虚空会の説法のなかで、寿量品に説かれた「久遠実成」の釈尊こそが、末法の私たちを救う仏であって、大日如来・阿弥陀如来・薬師如来は、釈尊によって説かれた、新成の仏にすぎないという理由から、私たちは「久遠実成」の釈尊を本尊とすべきであり、その本仏釈尊から付属された教えは、『法華経』であると説いたとあります。

日蓮聖人において『法華経』を説くことは、結果的に他宗を邪教として排撃することになり、謗法の原因を作った各宗の開祖の邪義を排撃することでした。

つまり、浄土宗の開祖は、他土の教主である阿弥陀仏を崇め、「主師親の三徳」をそなえる釈尊を捨てることは、親の意思に反逆するようなものであり、『法華経』の経文には、そのような者は謗法堕獄の業により無間地獄に堕ちると責めます。『法華経』には、釈尊は後に真実を説くとあり、それ以前の教えは方便であるから正直にその教えを捨てて、無上の『法華経』を信心すべきとのべます。

また、律宗の開祖の誤りは、大乗の教えが広まっている日本に、あえて小乗の戒律の教えを説く必要はなく、逆に平穏な国家をおびやかす賊をいれるようなもので、仏教の教えを逆行させ人心を混乱させるとのべます。

禅宗の開祖は、教外別伝を立てるが、それは自分勝手な解釈をしていることであり、それこそが釈尊がいう天魔波旬の者であるとのべます。

真言宗の開祖である空海は、大日と釈尊の二仏をたて顕密の二教を争わせているが、一つの国に二人の王がいれば国の争いがおきるように、二仏をたてることは仏教を滅ぼすことになり、また、「承久の乱」の三上皇が敗退した事実から、真言宗は日本を亡国にするとのべます。

いわゆる、「四箇格言」に添った他宗の誤りをのべ、日蓮聖人は成仏を願うなら爾前経を捨てて『法華経』に帰せよ、南無妙法蓮華経の題目を唱えよ、と威風堂々とした高らかな声が持仏堂の内外に響いたと伝えます。この「四箇格言」はこの時期には完成されていませんが、法華最勝を説いた強烈な印象は、聴衆の中に残ったと思われます。

さて、持仏堂には浄円房をはじめとした、重鎮の僧俗が聴聞していたと思われます。『善無畏三蔵鈔』に、

「此人の兄、道義房義尚、此人に向て無間地獄に堕つべき人と申して有しが、臨終思う様にも、ましまさざりけるやらん」(四七四頁)

と、道善房の兄である道義房に向かって、法然浄土教の誤りを指摘したとのべています。持仏堂での説法の内容は、主に清澄寺で行われていた、天台浄土教の批判が中心であったと思います。浄土教批判は、日蓮聖人の両親や師匠が現在も信仰しているので、その誤りを正し浄土の念仏では成仏できないことを説くのが優先されます。ただし、前述したように、『戒体即身成仏義』は浄土批判の書であったことは事実です。

つぎに禅宗の誤りを正したと思いますが、虚空蔵菩薩の御恩からしますと、智者として八宗の正邪には及んだとみるべきでしょう。また、「此の法門」を説くことは「「四十余年未顕真実」を依拠として論証しますので、教学的には必然的にこれら八宗を含むことになります。

このように、日蓮聖人は清澄寺において、最澄の教えである専持法華に回帰すべきであると主張され、『法華経』こそが釈尊の真意であり、成仏の道であることを説きました。このときを、日蓮聖人がはじめて、法華経を弘通した「立教開宗」の日としています。

持仏堂での説法は長い時間ではなかったと思います。しかし、専持法華・念仏無間の言葉は、天台密教と浄土信仰をしている、清澄寺のあり方を否定したので、日蓮聖人の説法を聴いた、山内の僧俗すべての耳目を驚惑させたのです。

日蓮聖人が正当とする論理は、邪教を排除する過激な言葉に映されたのです。日蓮聖人が予想していたように、堂内の混乱は異常なものでした。それは、やがて怒声となり暴力となって日蓮聖人を襲ったのです。『法華経』に予言された行者の色読が、如実に始まったのです。