96.東条景信について                                 高橋俊隆

○東条景信

さて、東条景信は「立教開宗」の場にいたのでしょうか。『本化別頭仏祖統紀』に、東条景信は念仏の行者であり、清澄寺を念仏の道場として支配を企てた人物とあります。日蓮聖人が念仏を批判したことは、如来の遺誡を破ることであるとし、外護者の身分として狂乱した日蓮聖人を、断罪に処分すべきと道善房を責めたとあります。道善房は日蓮聖人を擯出するのみで、東条景信はその処分のあまさに歯軋りをし、罵りながら清澄寺を去ったと伝えています。

日蓮聖人の「立教開宗」の発言は東条景信を刺激し、日蓮聖人を断罪する言動にでました。日蓮聖人は身に危険を感じ、その場から逃げなければならない緊迫した状態がおきたのです。兄弟子の浄顕房と義城房は、東条景信が帰路を遮ることを心配して、間道を通って花房の蓮華寺へ日蓮聖人をかくまったと伝えます。

しかし、『元祖化導記』・『元祖蓮公薩埵畧伝』・『蓮公行状』には、東条景信は来座しておらず、のちの報告により憤慨し、日蓮聖人を排撃したと伝えています。『元祖化導記』には、念仏無間を説いたとき、「師匠は座を立ち、大衆も驚き去る。このこと国中に風聞のあいだ、地頭、強盛の念仏者なるがゆえに忽ちに清澄寺を擯出しおわんぬ」と、あります。

日蓮聖人の「立教開宗」の顛末は、円智房たちから地頭の東条景信に伝わり、これを聞いた東条景信は、熱心な念仏信者であったことから、日蓮聖人を念仏信仰の敵ということで、排斥する行動にでたことになります。道善房は清澄寺内の混乱を避けるため、日蓮聖人を諭して退出させたのです。

東条氏と幕府の関係は深く、源頼朝が石橋山の合戦で安房に敗走したおりに、東条秋則が庇護した経緯があります。東条氏は御家人であり、また、地頭として権力をもつようになり、東条景信はこのような北条重時(奥州禅門)の家臣として、幕府とのつながりをもっていました。

また、東条景信は東条を制圧する方法として、念仏信仰を利用した宗教政策の一面があったと指摘されており、同じ念仏信仰をもつ北条重時は、東条景信に加担したといいます。そのなかで、日蓮聖人の念仏批判は、とうぜん東条景信の政策上から危険視され、あわせて、このころにおきた、領家との所領の問題が、日蓮聖人を排斥する原因になっていたといいます。

日蓮聖人と東条景信との間にある確執とは、『清澄寺大衆中』に東条景信について、

「悪人として清澄のかいしし(飼鹿)等をかり(狩)とり、房々の法師等を、念仏者の所従にしなんとせしに」(一一三五頁)

と、のべているように、建長四年ころから東条景信は清澄寺で飼っている鹿を狩りとり、清澄寺の山内に住む僧を念仏者の所従にして、支配下に置こうとしていました。これらの情報はすでに浄顕房や義浄房から伝えられていたことでしょう。さらに、同じ東条にある二間寺をも管理下にする動きがあり、この所領を侵犯した問題により、領家と闘争していました。

鎌倉幕府が起動したことにより、新たな領主制の形成が行なわれました。これは、その過程におこった地頭東条景信の非法ですが、この一二五〇年代は、地頭が荘園侵略を全国的に起こしたときだったのです。これらの係争は頻繁に続いており、当時の社会治安などが不整備であった現われでした。東条景信による東条支配も、同じように領家の尼の領地を脅かしていたのです。

領家の尼は東条景信との間に起きた、清澄寺・二間寺の支配権の解決を、日蓮聖人に依頼しました。これは、日蓮聖人が訴訟問題に精通していたからであり、父親の出自が荘官クラスの身分である証拠ともいいます。このような訴訟を沙汰雑掌(さたざっしょう)といい、この役目をするのが荘園を管理している荘官の仕事だったからです。事実、日蓮聖人は領家側の代表として、この訴訟に関わったのです。

これにたいし、比叡山において訴訟などの勉強をする機関があったので、専門的な知識を持っていたという説があります。たしかに、比叡山は京に近く訴訟に関しての法律や、判例に詳しかったといいます。当時の法廷は当事者主義を採用しており、寺社が俗人の裁判代行をする一面を持っていたといいます。一方、関東御家人はこの情報に弱かったといいます。

領家の尼は日蓮聖人にとって重恩の人でしたので、この恩返しのため「たびたびの問注」をこなして領家の力になっています。これは、比叡山にて訴訟の判例を学んでいた証拠となります。

日蓮聖人は、『清澄寺大衆中』に、

「清澄、二間の二ヶ寺が東条方につくならば、日蓮、法華経をすて(捨)んと、せいじょう(誓状)の起請をかいて、日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけて、いの(祈)りて」(一一三五頁)

と、もし敗訴したならば、『法華経』の信仰を捨てるとまで覚悟したのです。相手が念仏信徒であるから、尋常な必勝祈願ではなかったのです。

さて、日蓮聖人は勝利祈願をこめて、「日蓮が御本尊の手にゆい(結)つけて」とのべている「本尊」とは、どの像をさすのかという問題があります。この「本尊」を伊豆の海中出現の立像釈尊とする説がありますが(船口万寿氏)、「立教開宗」の後であるので、「仏像本尊」がなかったとは考えられないとして、清澄寺にその仏像が存在したと高木豊先生はのべています。(『日蓮攷』九八頁)。

因みに、行者が祈願をするとき、自分の指に祈願文を巻きつけ、糸のような紐を結びつけるという願掛け方がありました。これは四六時中、忘れずに祈願を続けることと、山中や市中を長期にわたって移動する場合に用います。また、二寸ほどの厨子に収まる持仏を納置し、守り本尊として持ち歩いた事例が多くみられます。

この清澄寺をめぐる係争が、表面に現れたのは、「立教開宗」の建長五年といわれています。日蓮聖人が領家側の勝訴のために行動されたのは、地頭の非法を訴えたびたび行なわれた問注のことや、仏に祈願をしたということからして、清澄寺にいた「立教開宗」のころか、あるいは、「立教開宗」の後に清澄寺を退出して、花房や安房の近隣を布教していたときといわれています。

さきにのべたように、清澄寺の問題は領家と東条景信だけの係争ではなく、この東条景信の背後には、北条重時がいたことに紛争の深さがあります。『妙法比丘尼御返事』に、

「地頭東条左衛門尉景信と申せしもの、極楽寺殿、藤次左衛門入道、一切の念仏者にかたらはれて度々の問注ありて、結句は合戦起りて候上、極楽寺殿の御方、理をまげられしかば、東條の郷ふせがれて入る事なし」(一五六二頁)

と、のべているように、御家人の東条景信は、北条重時の庇護を受けていました。重時は重臣と思われる藤次左衛門入道泰継に命じて、東条景信に加担していたことがわかります。領家と東条景信の荘園の係争は、鎌倉幕府に持ち込まれ問注沙汰となり、度々の問注は合戦に至るほどの武力的対立を生じました。景信は武力による制圧で解決を図ったのですが、領家側も武力をもち強く抵抗したと思われます。裁判の行方も勝ち負けが判明できない事態であり、日蓮聖人が東条郷に立ち入ることを阻止されるほど敵対していました。

幸いに東条景信と領家の係争は、建長六年の春ころに領家の勝訴となりました。一年以内に清澄寺・二間寺は領家にもどることになり、概ね東条景信の敗訴となったのです。この裁判が正しく行なわれたことは、幕府が道理を重視して政治を行なった法治体制の現われでした。

つまり、幕府の政策は武力による支配を禁じ、公正に裁定することを重視したのが『貞永式目』であり、幕府はこの条項に則り裁決したという、当時の情勢を知ることができるのです。

同時に、日蓮聖人は常に『貞観政要』を携帯していたことからも分かるように、貞永元(一三二三)年に泰時によって制定された『貞永式目』(『御成敗式目』)を重視していたので、この規則をもとに問注において正論を主張し、その結果における勝訴といえます。

この『貞永式目』に、所領係争に関してどのような規則があるかというと、まず、第三条には、諸国の守護人の職務について規定されています。

「一、  諸国守護人奉行の事

 右、右大将家の御時定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人(付、夜討・強盗・山賊・海賊)等の事なり。而るに近年に至りて代官を郡郷に分補し、公事を庄保に充て課(おお)せ、国司に非ずして国務を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る。所行の企て甚だ以て無道なり。抑、重代の御家人たりと雖も、当時の所帯無くば駆催(かけもよほす)こと能はず。兼てまた所々の下司庄官以下、その名を御家人に仮りて、国司・領家の下知を対捍(たいかん)すと云々。然るが如きの輩、守護役を勤むべきの由、縦ひ望み申すと雖も、一切催を加ふべからず。早く右大将家御時の例に任せて、大番役ならびに謀叛・殺害の外、守護の沙汰を停止せしむべし。もしこの式目に背き自余の事に相交る者、或は国司領家の訴訟により、或は地頭土民の愁鬱につき、非法の至り顕然たる者は、所帯の職を改められ穏便の輩を補すべきなり。また代官に至つては一人を定むべきなり」(原漢文)

(大番=京都の警備。分補(=任命)。公事=年貢以外の雑税や労役。庄保=荘園と国衙領。御家人=在地領主。所帯=所有している財産や所領地。駆催=大番役。下司=荘園の管理人、多くは武士である。領所・領家が上司。国司領家=荘園領主。対捍=対抗。守護役=大番役。一切催=採用。愁鬱=愁訴)

第五条には地頭の年貢について、つぎのように規定しています。

「一、諸国地頭、年貢所当を抑留せしむる事
 右、年貢を拘留するの由、本所の訴訟有らば、則ち結解(けちげ)を遂げ勘定を請くべし。犯用の条、若し遁るる所無くば、員数に任せてこれを弁償すべし。但し、少分に於いては早速沙汰を致すべし。過分に至っては三カ年中に弁済すべきなり。猶、此の旨に背き難渋せしめば、所職を改易せらるべきなり。」

(所当=荘園領主に納めるべき雑税・年貢。拘留=横領。本所=荘園領主。結解=精算。勘定=本所が調査結果を記載した上申書。犯用=盗用。員数=所定の数量どおり。所職=地頭の職)

第六条にはつぎのように定めています。

「一、国司領家の成敗は、関東御口入(くにふ)に及ばざる事
 右、国衙庄園神社仏寺、本所の進止として沙汰し来るに於ては、今更御口入に及ばず。もし申す旨ありと雖も敢て敘用するあたはず。次に、本所の挙状を帯びず越訴致す事、諸国庄園ならびに神社仏寺領は本所の挙状を以て訴訟を経べきのところ、その状を帯びざる者は、既に道理に背く歟。自今以後成敗に及ばず。

(国司領家=ここでは本所。御口入=口出し、介入。本所=荘園の名義人。進止=命令。

申す旨=幕府に提訴。挙状=推薦状、裁判権の幕府への委嘱。越訴=幕府による裁判を不当に要求すること)

 そして、第八条には所領について規定しています。

「一、御下文を帯ぶると雖も知行せしめず、年序を経る所領の事
 右、当知行の後、廿ヶ年を過ぐれば、大将家の例に任せて理非を論ぜず改替に能はず。而るに知行の由を申して御下文を掠(かす)め給はるの輩、彼の状を帯ぶると雖も叙用に及ばず。」

(御下文=幕府が出す本領安堵・新恩給与の下文・権利証書。年序=相当期間の年数。当知行=現在の実効支配。その土地の所有権を主張する者が現実にその権利を行使していること。改替=交代させること。由を申し=嘘をついて。掠め給はる=ごまかしてもらいうける。叙用=意見を採用すること)

以上に見られるように、幕府には「承久の乱」いらい、所領などの訴訟が現実の問題として山積していました。そのため問注所を設置し、合議制による適正な裁判を目指していたのはこのためでした。

しかし、東条景信の非行が明らかになったとはいえ、この裁定は日蓮聖人にたいして、鬱積として残りました。『新尼御前御返事』に、

「日蓮一閻浮提の内、日本国、安房国東條郡に、始て此の正法を弘通し始たり。随て地頭敵(かたき)となる」(八六八頁)

と、のべているように、日蓮聖人にたいして、弥陀の敵という感情とかさなり、私怨として深く残ることになります。

さて、「立教開宗」のあとの所在については異論があります。建長六年の春ころに領家の土地問題が解決していたといいます。さきにのべたように、『清澄寺大衆中』に、

「一年が内に、両寺(清澄寺・二間寺)は、東条(景信)が手をはな(離)れ候しなり」(一一三五頁)

と、のべていますので、「立教開宗」後に起きた係争の開始から、「一年が内」としますと、

日蓮聖人も、この建長六年までは安房を本拠としていたと思われます。高木豊先生は清澄寺退出の時期を、東条景信と領家の係争と、日蓮聖人が所持されていた『五輪九字明秘密釈』を日吽に書写させていた資料により「建長六年九月三日以降」であるという説を立てています。(『日蓮攷』一〇二頁)。清澄寺に居住しながら、領家や鎌倉に奔走していたことになります。

この時期になると、清澄寺山内においても、東条景信との関係が大きな要因となりますが、念仏批判など教義的に背反する日蓮聖人を、清澄寺から追放する気運が強まりました。また、清澄寺を中心とした近隣に、念仏以外に密教を主とした僧侶がいました。『種々御振舞御書』には、

「安房国の東西の人々は此事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房・清澄の西尭房・道義房、かたうみの実智房等はたうと(尊)かりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋べし。これらはさてをきぬ。円智房は清澄の大堂にして三箇年が間、一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと[云云]。日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底にをつべしと申たりしが、此人々の御臨終はよく候けるかいかに。日蓮なくば此人々をば仏になりぬらんとこそをぼすべけれ。これをもつてしろしめせ。弘法・慈覚等はあさましき事どもはあれども、弟子ども隠せしかば、公家もしらせ給はず。末の代はいよいよあをぐ(仰)なり。あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし」(九八三頁)

と、のべており、この書状は光日房に与えたことからして、これらの僧侶も日蓮聖人を追放したと思われます。そして、地頭の東条景信は、念仏信仰の伴侶である円智房や実城房のふたりを扇動して、上と下から道善房を責めて、日蓮聖人を勘当に追い込みました。日蓮聖人はこのときの道善房の心境を『本尊問答抄』に、

「故道善房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭におそ(恐)れ給て、心中には不便(ふびん)とおぼ(思)しつらめども、外にはかたき(敵)のやうに、にく(憎)み給ぬ」(一五八五頁)

と、のべています。道善房から勘当されたのはいつ頃なのかは不明です。清澄寺の別当であったともいう円智房と、住僧実城房が、同じ念仏者である東条景信を策動して、道善房に攻めより勘当させたことも考えられます。

「立教開宗」の説法後、すぐに兄弟子にまもられて蓮華寺に身を隠されたのか、また、東条景信との係争の経過からして、勘当までにはしばらくの日数があって、その間、清澄寺周辺に滞在して弘通していたという説があります。

いづれにしても、道善房を含めた清澄寺との縁は断絶したことになり、日蓮聖人は孤立して、東条を逃避しなければならない状況になったのです。この騒動は、幼少のときの師匠的存在であった兄弟子も、清澄寺から退出するほどの出来事であったのです。