97.下総の富木氏について                      高橋俊隆

◆第三節 清澄寺退出

○下総の富木氏

日蓮聖人は「立教開宗」後、生地である安房地方をはじめ、下総の富木常忍を尋ね信徒を獲得しています。「立教開宗」後の足跡について、伝記には建長五年の八月二六日に、鎌倉の松葉ヶ谷に居をうつしたという説(『霊記』・『註画讃』など)と、五月中旬の風波が強いときに海上安全を祈り、泉沢太郎一家と老母の妙福を教化されて、三浦半島の米ヶ浜に渡ったといいます。この泉沢太郎は、弘安二年に身延山に参り曼荼羅を授与され、後に成就山妙福寺の基礎を作ったといいます。建長五年に老母が日蓮聖人の衣を洗って給仕されたことから、「はだかの祖師」が奉安されています。

あるいは、建長五年の末ころ安房の宮浦の北、南無谷に一泊し、海路で米ヶ浜に渡って三浦街道を通り、鎌倉に向かったという説があります。

従来、どちらも建長五年に鎌倉入りしたとありますが、『日蓮聖人遺文辞典』(歴史篇)の年表のように、翌六年に鎌倉入りしたという説が有力になっています。建長五年は敵対した東条景信の迫害から逃れ、所在をかえながら布教していたと考えられます。また、鎌倉における布教の拠点を探すために、安房と鎌倉を往復していたとすれば、日蓮聖人の行動が清澄寺・鎌倉と、そして、富木氏を介した関係が建長六年まで続いたといえます。

名越に居を定めるまで用意周到な準備をしたはずです。布教や生活の場として利便性が求められ、武力に対抗できる布陣と退路の確保が大切です。鎌倉は日蓮聖人にとって危険な所だったからです。さらに、強固な経済基盤と幕府との連絡網が必要です。これらの中心として日蓮聖人と信徒を結び続けたのが富木氏です。

中尾尭文先生は清澄寺離山ののち、天台宗の寺院を歴訪しながら下総に向かい、富木氏が信徒となったといいます。(『日蓮宗の成立と展開』『日蓮宗の歴史』)。日蓮聖人が鎌倉に居住して、最初に書状を出されたのが富木氏でしたので、鎌倉進出における重要な関係がうかがえます。

鎌倉に居住した日蓮聖人は、法難を受けた状況と自身の心情の逐一を富木氏に報告しています。日蓮聖人は法難と『法華経』の関連を伝え、「法華経の行者」を表明していきます。富木氏は日蓮聖人から伝えられた書状をもとに、門下にたいし法難の説明をし、本門思想による解釈を加えていきます。

また、門下から寄せられた教義の質問などを日蓮聖人に尋ね、これを広く門下に伝える役目を果たしていくのです。このように、富木氏は檀越の中心となって今後の教団の対策をし、門下の統制を行なう大きな役割を果たしていきます。

□『富木殿御返事』(二)

一二月九日に富木常忍に書状を送っています。これより前、比叡山に遊学されていたときに書写した、『五輪九字明秘密義釈』「建長三年十一月廿四日卯時了」二八七五頁を富木氏に送本したといいます。

本書は花押がないことから、真偽についての慎重論を川添昭二先生は指摘しています。『定遺』は真筆とし建長五年の一二月九日とします。「立教開宗」より七ヶ月後のことになります。(建長五年説は中尾尭著『日蓮真蹟遺文と寺院文書』一頁。建長六年説は高木豊著『日蓮攷』一〇三頁)。

この建長五年一二月には、下房の富木氏の邸宅の近くに停留していました。日蓮聖人が檀越に宛てた現存する最初の「遺文」が、この『富木殿御返事』です。

「よろこびて御とのひと(人)給りて候。ひる(昼)は、みぐる(見苦)しう候へば、よる(夜)まいり候はんと存じ候。ゆう(夕)さりとり(酉)のときばかりに給べく候。又御はた(渡)り候て法門をも御だんぎ(談義)あるべく候。十二月九日。日蓮。とき殿」(一五頁)

と、富木氏が日蓮聖人に家人を使わした用件の返事で、通常は口頭ですむ用件を急いで認めたため、かなまじりの文体で走り書きしています。これを折紙といいます。

「ひる(昼)は、みぐる(見苦)し」いとは、富木氏の勤務に支障する迷惑をいうのと、富木氏が日蓮聖人と会っているのを、見られては不都合な状況が想定されます。そのため、昼間の明るいときを警戒し、夕方のうす暗くなった午後六時ころに使いを迎えによこしてほしい、できれば富木氏もこちらに来て法門について談義したいという文面にうけとれます。立教開宗後の日蓮聖人の行動がうかがえます。

このとき富木氏は三八歳で、富木氏が日蓮聖人を迎えた場所は守護所といいます。その理由は本書が『天台肝要文』の紙背文書になっていたことです。つまり、富木氏の使者が、持ち帰ってきた日蓮聖人の返書(折紙)を、富木氏は一読したあと守護所に保管し、のちに不要となった書類にまぎれて反古紙になったと考えるからです。

さらに、反古紙を束ねた冊子本に、日蓮聖人は「天台肝要文」を書き入れたことになります。この肝要文を筆録した時期を山中喜八先生は文永六年とし、中尾先生は蒙古国書がくるいぜんの文永三、四年ころとしています。

この密会のような行動をした理由に、このころ、然阿良忠が下総など関東地方に進出し、浄土宗の勢力が強まっており、東条景信や念仏門徒が日蓮聖人に危害を加える状況が考えられます。つまり、姿を見られたら、何らかの危害が加えられる状況にあったと推察します。それが命に関わるような大きな力をもっていたとすれば、東条の郷から追い出し、日蓮聖人を執拗に付け狙う東条景信の存在です。

日蓮聖人は父母や義浄房などが住む安房地方を教化します。しかし、ここは、東条景信の力が及ぶ安房領内でした。教線を下総地方に巡教してきましたが、世間からは受け入れられない流浪の生活でした。世間から冷遇されていたようすを『単衣鈔』に、

「或は親類を煩はされ」(一一〇六頁)

 また、『中興入道御消息』に、

「はじめは日蓮只一人唱へ候しほどに、見(みる)人、値(あう)人、聞(きく)人、耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、は(歯)をかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんう(善友)もかたき(敵)となる。後には所の地頭・領家かたきとなる。」(一七一四頁)

と、他人知人に関わらず、親敵のように見られたとのべています。つまり、『法華経』を説き、弥陀を批判している日蓮聖人を見た人々のすべてが憤怒し、父母・兄弟・親類も同様なしぐさであり、師匠や善友も法敵となって、日蓮聖人の前に立ちはだかる状態でした。日蓮聖人は孤立し、逆に敵対視されていたのです。

その中で日蓮聖人を生涯の師範と仰ぎ、生活を保護されたのが富木氏でした。富木氏の信順と援助は、大きな活力となっていたのです。日蓮聖人は大切な外護者を護るため、千葉氏の被官である富木氏に配慮した様子が本書にうかがえます。

 富木氏は『沙弥常忍訴状』(『日蓮宗宗学全書』上聖部)によれば、因幡国(鳥取県)の富木氏郷司の流れ、父蓮忍と同じく国府に関わりをもち、のちに千葉氏の被官になったといいます。つまり、富木氏は千葉氏八代当主の千葉介頼胤に仕えた家臣で、主君の頼胤は守護職として幕府に仕えていました。

頼胤の母は北条時房の娘で、父時胤は仁治二(一二四一)年、早くに死去しています。頼胤が家督を継いだのは亀若丸という幼名の三歳のときでした。建長五年のこの年には一六歳でしたので、ほとんどの政務は家臣が行なってきました。

千葉一族の権力者である上総の秀胤は、寛元元(一二四三)年七月に評定衆になっています。「宝治合戦」(一二四七年)のときに、この千葉秀胤が滅ぼされますが、頼胤が幼かったので叔父の千葉泰胤が任を代行しています。建長三(一二四九)年に香取神宮の遷宮にあたり、正神殿・一の鳥居を造営し功績をあげています。頼胤は千葉泰胤の娘を妻に娶ります。泰胤の叔母(姉妹)千田尼は、時頼の後室となり、これにより千葉氏が優遇されたといいます。また、頼胤の「頼」は時頼の偏諱と推測されます。

元寇にあたって異国警護番役のため九州に出陣し、戦乱に負傷し健治元(一二七五)年八月一六日に三七歳にて死去し、千葉宗胤が九代当主となります。

富木氏は下総守護の事務吏僚で、千葉氏の財産関係や訴訟・家政関係などを取り扱っていたといいます。(川添昭二「御遺文から見る日本中世史」『中央教学研修会講義録』第一四号)。日常の事務を処理する事務官のような立場で、下総守護職の守護所(役所)は八幡庄、市川市にあったといいます。あるいは、国府のあった国府台あたりといいます。(中尾尭文『日蓮』六〇頁)。これ以前は国分寺にありました。この八幡庄の守護所に被官として出仕していたのが富木氏であり、問注所の役人として出仕していたのが、太田乗明だったのです。

そして、毎日、守護所に出勤していたことが、聖教殿に格護されていた日蓮聖人の自筆要文紙背文書の発見によってわかっています。千葉氏一族の武士は、供の者を従えて在地から守護所に赴任し、周辺に居住して守護所の警備や実務をしたと思われます。鎌倉の千葉氏の出先機関に勤務する者や、連絡業務をおこなう家臣がいました。富木氏は、このような家臣の一人であったといいます。

富木氏の性格について、『可延定業御書』に、

「きわめて、まけじたまし(不負魂)人にて、我かたの事をは大事と申す人なり」(八六三頁)

と、責任観の強い実直な人物像が浮かびます。また、富木氏の後妻は貫名家と縁戚にあるといわれており、熱心な信徒として日蓮聖人を支えています。その妻の富木尼に富木氏を介して、病気平癒のため姓名・年齢を自分で書いて送るように伝言しています。

このころの富木氏との主な会談は、本書に「法門をも御だんぎ(談義)」とあるように、日蓮聖人独自の「本門法華経の解説」と、修行の行規である唱題の意義を説いたと思われます。その延長として鎌倉(名越)に進出して小庵をむすび、布教の拠点を検討したと思います。

富木氏が入道したのは、この建長五年のことで、『天台肝要文』の紙背文書第二三紙の、書状受け取りを口頭よりも念のため受取を書くという、略式の手紙の折紙により判明しました。この『天台肝要文』の紙背文書は、始は「長専書状」が原本でした。この不要となった「長専書状」の裏に、日蓮聖人が『天台三大部』の肝文を書き写したのです。

長専という人物が、鎌倉の出先にいた建長五年一二月一九日には、「とき殿」と宛名書きをしていましたが、同年一二月二七日に出され、三〇日に富木氏へ届いた書状の宛名には、「ときの入道殿」と書かれていたことによります。

一二月九日に富木氏は日蓮聖人と会談し、このあと富木氏は入道します。富木常忍の入道した時期と場所を知る、貴重な資料といえます。日蓮聖人と行動をともにした富木氏の決意がうかがえます。富木氏との親交は幼少のころから存したと言いますが、日蓮聖人に師事し入信したのは秋頃とされ、授戒され「常忍」と名のったのは、一二月の一九日から二四日の間といいます。

これは、日蓮聖人が本格的に入鎌を発動し、富木氏も同意して、「不惜身命」の使命を表白した時でした。ここに、「立教開宗」後の、日蓮聖人の行動の範囲と、「法華経の行者」として鎌倉に向かうために、用意周到に基礎固めをしていた経過を知ることができます。

日蓮聖人が布教活動を始めた初期は、富木氏が勤める守護所あたり(市川)が重要な地とされ、活動範囲を鎌倉に限定しないで下総などに拡大したといいます。(中尾尭文『日蓮聖人のご真跡』二五六頁)。邸宅は若宮の奥之院のある場所といわれ、ここに富木氏の墓所があります。法華経寺は太田乗明氏の邸宅地に建てたといいます。

このころ、太田乗明・曽谷教信・金原法橋など、千葉氏に仕える武士たちと縁をもち檀越となっています。太田乗明は富木氏の近くの中山に住んでおり、富山市の東南部にあたる越中国太田保に、地頭職をもつ太田氏の一族でした。下総に移って千葉介の家臣として仕え、そのあとも、越中を往来していたことが『曽谷入道殿御返事』(文永一二年)にみえます。

曽谷教信は、下総の八幡荘曽谷郷の在地領主といいます。金原法橋も下総の千田庄金原郷の在地領主といわれ、鎌倉初期に千葉介が千田庄を支配下にいれる段階で、その一族となり配下になったといいます。八木胤家の名前は、日蓮聖人の「遺文」には見えませんが、千葉氏の支族にあたる相馬氏で、幼少の千葉介頼胤の後見として重要な役割をはたしていたといいます。

従来、「立教開宗」後に清澄寺を追い払われ、ただちに鎌倉名越に草庵を結び、しだいに下総の信徒が入信したと伝えますが、これらの文献からしますと、鎌倉に入る前に富木氏と相談のため下総に滞在し、このときに、これら有力な下総の信徒を獲得したといえます。

また、日蓮聖人が上総街道から鎌倉に向かうまでの間に、笹森の観音堂に一夜を過ごしたといわれます。茂原城主の斉藤兼綱がこれを聞き、日蓮聖人の教化を受け一族が入信したといいます。斉藤氏は建治二年一一月一二日に、縁者である日向上人を開創として招き、常楽山妙光寺を建立しています。日向上人は身延山第二世になり、身延・茂原(妙光寺)の両寺は東身延と呼ばれるようになります。妙光寺が正式の寺名ですが、明治初年に藻原が茂原となったことにより、地名を用い茂原寺と公称されるようになりました。

茂原寺には日蓮聖人が、身延から池上に向かわれたときに乗馬された馬の鞍があります。日蓮聖人は波木井公に、栗鹿毛の名馬と舎人を藻原殿に預けると遺言しました。それに従い名馬は池上から茂原寺まで移され、「馬つなぎの杉」の名残があるように大事にされました。