98.「日蓮」の名について

日蓮聖人の名前については、蓮長から「日蓮」と改名された時期に諸説があります。「立教開宗」の前、「立教開宗」の直後などとされますが、日蓮聖人が道善師匠の勘当をうけたことにより師弟関係が断たれ、そのころに名を蓮長から「日蓮」に改めたといわれます。

「日蓮」の初見は、建長五年一二月九日の、『富木殿御返事』(『天台肝要文集』裏書)にみられます。このことから、建長五年の一二月には、「日蓮」と名のっていたことがわかります。

しかし、真言宗醍醐寺の『理性院血脈』を相承したときに、「日蓮」と署名していることから、時期は不明ですが、建長三年一一月二四日の『五輪九字明秘密釈』を書写された前後の、比叡山留学の末期には「日蓮」と名のっていたともいえます。

名前のゆらいについては、日蓮聖人自身が『寂日房御書』に、

「日蓮と名のる事自解仏乗とも云つべし。かやうに申せば利口げに聞えたれども、道理のさすところさもやあらん。経に云く、如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇と、此文の心よくよく案じさせ給へ。斯人行世間の五の文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云う事也。日蓮等、此の上行菩薩の御使として、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是也」(一六六九頁)

と、のべていることから、「日蓮」の僧名は自身の考えによって命名されたことが分かります。また『四条金吾女房御書』に、

「明らかなること日月にすぎんや。浄きこと蓮華にまさるべきや」(四八四頁)

と、この根拠は『法華経』の経文に見出していました。「明らかなること日月にすぎんや」は、神力品の「如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇」の文にあり、「浄きこと蓮華にまさるべきや」は、涌出品の「不染世間法如蓮華在水」を依拠としています。

「日月」は末法濁世を照らす「光明」であり、「斯人」は末法の導師を意味します。同じく末法濁世の泥土に清く咲く「蓮華」は、地涌の菩薩の出現をしめすことと解釈できます。つまり、娑婆世界の光明になるという意思を表し、「三大誓願」の日本の柱・眼目・大船は具体例といえます。

この二つの経文の出所をもとに、日蓮聖人が「自解仏乗」されたのは、地涌の菩薩の自覚といえます。つまり、神力品の別付属の文を「自解仏乗」して、「日蓮」と名のったことが分かります。また、「光明」は南無妙法蓮華経であり、この題目を一切衆生に「受持」させることの使命を、「日蓮」の名に表した意義を知ることができます。

なを、このころから建長末年といわれる、『六因四縁事』(断片一紙六行)が、図録一(二二二一頁)に収められています。これは『止観弘決』の第七正修章で十境を明かすところの、第四現業相境で因縁を明かすときの文を書かれたものです。「六因」・「四縁」とは、すべてのものの原因を分類したもので、『大智度論』や『倶舎論』に説かれています。つまり、因縁についての要文を抜書きした資料です。『日蓮聖人御真蹟対照録』中巻三五頁)は、建長末年あるいは正嘉二年としています。備後熊野常国寺に所蔵されています。

また、『戒之事』という断片が、図録二(二二二二頁)に収められています。ここには「不殺生戒」と「不偸盗戒」の五行・五大・五色・五根・五常・五臓などの因果関係を略記しています。『戒法門』(一九三五頁)の「五戒」の説明と類似し、ここには『法華経』の「開会」とは「五戒を開会」することとのべています(一九四六頁)。『日蓮聖人御真蹟対照録』中巻三三頁)は建長末年、正元ころとしています。三島の本覚寺に所蔵されています。