99.『不動愛染感見記』について

・三三 建長(一二五四

 一月一三日に後嵯峨上皇が、六勝寺のひとつ岡崎の法勝寺に行幸しています。二月に親鸞は『唯心鈔』を写しています。四月に幕府は宋船の入泊を五艘に制限します。六月に時頼は泰時の十三回忌法要に、京都から僧侶を招き青船の塔婆を供養しています。また、同月に入宋僧の無本覚心が、普化禅師の系統を継ぐ張参に吹禅を得て、護国寺から帰国し紀州由良に興国寺を建て普化宗を開きます。八月上旬に然阿良忠は、鏑木入道在阿の屈請により『選択伝弘決疑鈔』を撰述します。九月九日に永平寺の弧雲は、『仏祖正伝菩薩戒作法』を義尹に授けます。一〇月に朝廷は武士の狼藉や人身売買を禁止し、これにより幕府は薪炭などの制限を撤廃します。同月、然阿良忠は江の禅のために『三心私記』を著述しています。一二月に親鸞は『浄土和讃』を写しています。

□『不動愛染感見記』(三)

六月二五日に『不動愛染感見記』が書かれています。眼前に見た不動明王と愛染明王について記載しています。愛染明王の紙幅は縦五〇センチ、横三一センチ、不動明王の紙幅は縦三一.三センチ、横五〇センチと、ほぼ同寸です。保田の妙本寺に所蔵されています。

愛染明王の図示に、

「生身愛染明王拝見。正月一日日蝕之時。大日如来より日蓮にいたる二十三代嫡々相承」(一六頁)

と、愛染明王を正月一日の日蝕のときに感見し、大日如来から密教を伝授されて、二三代目にあたるという相承を示しています。

描画は三重の円相の外に太陽のシンボルを描いて日輪であることを示し、円相の内部には、疾駆する馬上に誇る愛染明王が描かれています。愛染明王は太陽の光背と五股鉤の宝冠を被り、一面八臂の姿を現しています。右の第一手には五鈷杵、二手に剣、三手に金剛箭(矢)、四手に蓮華を執っています。左の第一手には金鈴、二手に索、三手に金剛弓、四手は拳印を現わしています。

 また、円相内の愛染明王のまわりには、火炎の出る宝瓶、日を象徴する黒い鳥、獅子が描かれ、馬の頭尾には火炎宝珠が載せられています。円相の内下ともに日輪を現わしたものです。円相の右下に梵字に読み仮名をつけて、「吽悉底弱吽鑁穀、ウムシツチシャクウムハムコク」とあります。

つぎの不動明王の図は宝剣を所持した不動明王を素描したものです。

「生身不動明王拝見。十五日より十七日にいたる。大日如来より日蓮にいたる二十三代嫡々相承」(一六頁)

と、一五日から一七日にいたる三日間にわたり感見したとのべています。『吾妻鏡』によれば、この年の六月一六日に月食の祈祷が修法されたとあります。本書の著述が六月であることから、不動明王を感見したのは、六月の一五日から一七日のことと思われます。

本図の一重円相の外郭に描画はなく、その内部に不動明王と被冠の唐装の人物、月兎、月桂樹、そして、虚空に瑞雲が描かれています。唐装の人物は星曼荼羅に描かれた北斗七星や九曜などからして、月の擬人図と思われます。

不動明王の姿は一面四臂に炎髪、蔵王権現のように右足を踏み上げて立っています。六臂のうち、右手第一手に剣、二手に蓮華を持ち、左手第一手は索、二手は背甲の印を現わしています。通例の愛染・不動明王より二臂ずつ多く描かれ、互いの二手に剣と索が描かれているのが特徴です。円相の右下に同じく梵字に仮名をつけて、「ナマクサマムタホタナムカム」とあります。

 京都三室戸寺に室町時代の「摩尼宝珠曼荼羅」所蔵されています。この紙幅上部に描かれた三体の円相は

三光天子といわれています。この日天愛染・月天不動の円相内部の図相は、日蓮聖人の不動愛染と共通しています。

さて、本書の記述から天台密教の受容がうかがえます。愛染・不動は真言密教の明王部の最尊であり、金剛部に愛染、胎蔵部に不動明王が存しています。通常、愛染は煩悩即菩提、不動は生死即涅槃を表しています。

天台座主慈円(一一五五〜一二二五年)の『四帖秘訣』に、「日愛染月不動事」という口伝があります。清澄寺が虚空蔵菩薩を本尊とし、天台の明星信仰の霊場であることから、日蓮聖人の不動愛染感得は、この影響にあると指摘されています。『清澄寺大衆中』のなかに、

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給りし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思食けん。明星の如なる大宝珠を給て右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗是を知りぬ」(一一三三頁)

と、生身の虚空蔵菩薩から「明星の如くなる大宝珠」を感得したことをのべています。ここに、明星・日天・月天の三光天子の守護を見ることができます。

そして、初期の楊枝本尊にも見られるように、題目の左右に不動・愛染の二尊の種子(しゅじ)を梵字で書き添えていきます。「立教開宗」の翌年に感見した不動・愛染二尊の存在は、日蓮聖人においては特殊な存在となり、守護神的な存在となっていたといえましょう。

これを、「日蓮授新仏」、つまり、日蓮聖人が新しい弟子に授けたと書かれています。この新仏とは清澄寺の肥前公日吽(にちうん)といわれており、同年九月三日に日吽に日蓮聖人が所持されていた、『五輪九字明秘密釈』を書写させています。

また、このことから、日蓮聖人は建長六年九月三日には清澄寺に在したとする根拠になります。つまり、日蓮聖人が所持した『五輪九字明秘密釈』の転写本が他にあったとは思われず、また、貴重な写本や所持本を清澄寺に置いたまま退出したとは考えられないからです。