16.尼さんのインド旅行記(10)

(22日)
 早朝バスにてバルランプールの宿舎を出発してサヘト・マヘトに到着。このサヘトとは(祇園精舎)の事で、マヘトとは(舎衛城、又はサーブァッテイ)。
 釈尊がマカダ国の王舎城と同じほどよく滞在されたのはコーサラ国の首都サーブァッテイ(舎衛城)だった。そこにスダッタ(須達多)という豪商がいて、いつも孤独な者や貧しい者の面倒をよく見るのでアナータビンディカ(給孤独(きっこどく))長者と呼ばれていた。彼は商用で王舎城に来た時釈尊の事を知り、ぜひ舎衛城にもおいで下さいと願って帰国するとすぐに釈尊と弟子達を迎へるための精舎の建設にとりかかろうとした、それにはまず土地の入手が先択問題だった。精舎は町からほど近くてしかも静かな環境の良い所でなければならない。
 彼は都の南郊にあるジェーク(祇陀)王子の林園に目をつけた。ところが買収の交渉をしてみると王子は頑として応じない。土地にくまなく敷きつめるだけの黄金でなら、などと無理難題をいって売るまいとする。
 須達多長者はもう一度あちこちをさがしてみたが、精舎に最適の土地はやはり祇陀王子の林園(祇園)しかないという確信を深めるばかりだった。ある朝、長者の店の大八車が祇園に着き金貨をぶちまけてどんどん地面に敷きつめ始めた。「まだ足りないぞ」、「もっと運んでこい」という長者の叫び声がきこえた。そこへかけつけた王子はしばらく開いた口がふさがらなかったが、やがて長者の熱意に感動し精舎の建設に自分もぜひ参加させてくれ、と申しでた。こうして祇園精舎ができた。
 黄金を敷きつめた話は誇張かも知れないが、似たようないきさつで祇園精舎ができた事は確かだ。当時は新興の都市を中心として王国ができつつあった時代だった。農村に基盤を置き伝統的な権威を傘にきるバラモンの拘束を嫌って新しい王国の指導者や大商人たちは新しい思想家の出現を喜び迎えた。仏教やジャイナ教はこの様な時代背景のもとに興ったと学者は考へている。須達多長者もまた当時の諸王国をまたにかけた国際的な大商人で地主ではなかったが、金はうんと持っていた事が、この話から推察できる。