17.尼さんのインド仏跡巡拝の旅(17)

 釈尊はこの祇園精舎で多くの重要な説法をされたことが経文でわかる。釈尊入滅後も精舎はますます拡大され五世紀初は法顕が訪れた時は98の伽藍があったという。その200年後に玄奘が訪れた時は既に見るかげもなく荒廃しアショカ王石柱と煉瓦の御堂一つ位しか満足に残っていなかった。この遺跡は、1832年に考古学者カニンガムによって発見され、その後発掘調査が続けられて現在に至っている。最古の建築プランは一世紀のクシャーナ朝まで遡ることができ、現存する基礎に使われている。煉瓦は大体5世紀のクブタ朝から12世紀頃まで及ぶという。玄奘が荒廃の様を見た後また再興されたらしく、812C(世紀)にわたる彫刻が出土している祇園精舎の遺跡は現在サヘトと呼ばれ、バルランプールの町から21キロ、バルランプールへはルンビニの入口にあたるノウガールから鉄道で約三時間です。
 祇園精舎で皆さんと煉瓦を一つ頂いて、舎衛城では釈尊が汲まれた水の井戸と、舎利弗尊者の石塔がありました。

 祇園精舎の遺跡はやはり広い公園の様になっており、建物の基礎があちこちにある。中央の原っぱの様な所は蓮地の跡という奥に、ひと際高い基礎が見えるのがガンダクティと呼ばれ、釈尊が常住された跡として釈尊生前の姿を写した白檀の像を安置する七重塔があって、この寺城の中心となっていたという。その周囲には多くの堂塔や僧房の基礎が残っている。ここにある大きな菩提樹はスダッタ長者が植えたものと伝えへられる。舎衛城の遺跡はマヘトと呼ばれ、サヘトのすぐ北方にある。その昔繁栄をきわめたコーサラ国の都を囲んでいた城壁は今なを草木の茂る高い土台となってはっきり残り、その切目は昔の城門の跡という。

 コーサラ国のプラセーナジット(波期)王は心から釈尊に帰依し、たびたび出向いて何くれとなく教えを乞うたという。その王宮もまた王が釈尊のために建てた精舎も玄奘がここを訪れた時にはその跡がはっきり残っていたというが、今や城内は一面に草木が茫々と茂り、野猿が走りまわっている。王の死後、ヴィルーダカ王がカビラ城を襲って釈迦族を皆殺しにし、釈迦族の乙女五百人が連れてこられて非業の最後をとげたのも又此の城内のどこかであったと思う。城内を反対側に抜ける手前にスダッタ長者と指曼(しまん)外道に関係があるという、二つの煉瓦造りの塔の遺跡がある指曼外道は強盗殺人をしては人の指を糸で連ねて首飾りにし正人を恐怖のどん底におとし入れた極悪人だったが、釈尊にあって改心し弟子になったという人物です。このサヘトマヘトで釈尊に直接関係のある所はすべて巡拝がおわるので名残りを惜しむように最後の仏跡をゆっくりお参りしましたので高橋先生のお話をききぞこないました。バスにてラクノウの宿舎に着いてやれやれつかれたといいながらも頭の中には今日の巡拝コースがつぎつぎと頭にうかぶ。ラクノウの宿舎は、いままでの宿舎にくらべるとベットもよく、食事も良いが肉ばかりで野菜少々、早く帰ってお茶づけがたべたい。