3.法華経を信仰する人の守護神の確信

 信仰する人々の中によく耳にすることの多い守護神。私はお稲荷さんを守護神に頂いた、私は大黒様を、私は妙見さま。はなはだしいのは私は鬼子母神さま、私は日蓮聖人さまと言う人もあります。
 皆様方はこの守護神をどう考えておりますか。このような信仰は信仰ではありません。守護神の信仰は法華経でなくてもよいのです。法華経の信仰神は自分の独占仏ではないのです。
 強い信念に徹して不動の信仰をもち続ける者に対して法華経守護の諸天善神が形をかくして、また、いろいろな変化(へんげ)となって守護してくださるものなのです。ですから、大聖人は弟子が迫害され動揺してついに大聖人のもとを去ったが、また思いなをして帰ってきた。そのときに「十羅刹女が人の身に入りかわりして思いよらせたもうか」とお喜びになられました。(『妙法比丘尼御前御返事』)
 信仰、信仰と一口に信仰している自分の心を見てみることです。はたして自分の信仰をどう見るでしょう。
 大聖人は身・口・意(しんくい)とおっしゃっております。身に行い。口で唱え。意(こころ)に時つこと。
 私たちは身で法華経を行なってましょうか。口で唱えてましょうか。意に時っておりましょうか。大聖人は「昼夜十二時に持ち候」とおっしゃっております。
 私たちはどうでしょう。また、煙のように影うすくなることもあるでしょう。御宝前に行って手を合わすことすらイヤになることもあり、手を合わせ唱えながら他のことを考えていることもあるでしょう。
 このような信仰でも信仰でしょうか。私たちは信仰しているのではなく、信仰に頂いていること、また、手を引かれていること、親が子供の手をひいているように。
 私たちがお祭りで大勢の人々が出ている中を、親に離れては迷子になるので手を離さないようシッカリと握りながら歩くが、お祭りの出店もきれいなので気持がそっちへこちらへとはしる。親は子供の手を迷わないようにしっかりと握っている。このように危ない信仰と思います。
 守護神は身口意が成り立ち、信ずる力が強くなり、仏の力、法の力と合って始めて法華経の守護があり、いかなる大難も小難になり小難は消滅するものではないでしょうか。
 少々信仰して守護神がいただけるものなら、私は守護神にまかせることによって何もせずにいられましょう。守護神が「今後、死するまで貴方を、また貴女を、またはお宅の家族を守護します」というので龍神となり稲荷となり妙見となりして姿をあらわして見せたのですから、一生面倒をみることでしょうが、どうでしょうか。守護神を独占して我が家へ勧請して朝な夕なお祈りして、子供が病死した、主人が何をしたと色々なことがありましょう。なぜでしょうか。信仰が間違っているからです。
 私の言うことはこのような守護神信仰は第一歩から考えを改めることです。
 法華経の四苦八苦もなりたちません。病もなく死もなくなります。大聖人は大難四度、小難数しれずの難がありました。
 私たちは四苦八苦の生死因果があるのです。信仰もし無上道を願い成仏を願うのではありませんか。その身のままの成仏で死んでからの成仏を願うのではないのです。現実が成仏していれば死後も成仏疑いないのですから。                   合掌