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昨年、庫裏(住職が住んでいる家)の横でカラスに追われて逃げてきた雛鳥がいた。まだ飛べない様子。さっそく虫とり網で捕獲し、ひとまず籠にいれて鳥の餌を買い与えた。 P.Cで調べるとキジバトのようだ。翌朝、庭を見ると車庫の上を親鳥が塀際の隙間を覗きながら走っている。母鳥だ。雛をさがしている。生きていることを知らせなくては。いそいで二階の窓から玄関の小さな屋根に籠ごと置き「ここにいるよ」とさけぶ。 親は雛のかすかな声に反応した。私の姿も気にせず近くの枝にとまり声をかけている。雛もバサバサと親の方に飛び立とうとする。離そうかと思ったがまだ飛べない。カラスに追われて羽も痛んでいる。親鳥はなんども雛のところにきて餌を与えた。 二日目も同じくしたが三日目、決心して親鳥のいるのを確認して「しっかり連れて行くんだよ」と放した。雛鳥は手前の枝まで飛ぶのがせいいっぱいだった。失敗した。カラスにやられると思った。 すぐ親がきた。 親子で胸とむね。頬とほおを合わして抱き合っているのだ。 感動の場面だ。 長い抱き合いが親子の愛情と離れ離れになった悲しさを訴える。 写真に撮ることも忘れた。 雛は10日ほど庫裏の庭にいた。その間、親が餌を運んだ。5日ほどしたら背中の上に乗せて飛ぶ練習をしていた。雛が落ちそうになるたび親は雛の顔をのぞく。 台風がきた。雛の姿はみえない。ぶじに飛んだと思った。いた。枝の上にいた。雨風をよく忍んだものだ。また台風がきた。毎日、雨のなか雛をさがすがいない。 二度の台風が通り過ぎ、雛は元気に枝に姿をみせた。少したくましくみえる。そしていなくなった。 1年後。庫裏の庭に二羽のキジバトが飛んできた。母鳥は見覚えがある。細く上品な容姿だ。あの親と直感した。もう一羽、なにか不恰好だ。でも、面影がある。 親子でお礼に来たかと思う。 ほのぼのとした、嬉しさを感じた。 ところが、2年後、今年。春からたびたびやって来るようになる。可愛いのと、食べ物に不自由しているのかと餌を与えた。 育った栖に帰るという帰栖の本能なのか。 餌は与えるなと言われたが、つがいで来るようになった。 お盆のある日、ご先祖さまが家族のもとに帰ってくることと、キジバトのことではあるが重なって思えた。帰る意味は違うことではあるが、心情に共感することがあった。 私が帰るとすれば妻子のところである。 キジバトの名前は「ポー」である。 今も、庫裏の前を歩いている。 |
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