19.キジバトの本能なのか

 昨年、庫裏(住職が住んでいる家)の横でカラスに追われて逃げてきた雛鳥がいた。まだ飛べない様子。さっそく虫とり網で捕獲し、ひとまず籠にいれて鳥の餌を買い与えた。
 P.Cで調べるとキジバトのようだ。翌朝、庭を見ると車庫の上を親鳥が塀際の隙間を覗きながら走っている。母鳥だ。雛をさがしている。生きていることを知らせなくては。いそいで二階の窓から玄関の小さな屋根に籠ごと置き「ここにいるよ」とさけぶ。
 親は雛のかすかな声に反応した。私の姿も気にせず近くの枝にとまり声をかけている。雛もバサバサと親の方に飛び立とうとする。離そうかと思ったがまだ飛べない。カラスに追われて羽も痛んでいる。親鳥はなんども雛のところにきて餌を与えた。
 二日目も同じくしたが三日目、決心して親鳥のいるのを確認して「しっかり連れて行くんだよ」と放した。雛鳥は手前の枝まで飛ぶのがせいいっぱいだった。失敗した。カラスにやられると思った。
 すぐ親がきた。
 親子で胸とむね。頬とほおを合わして抱き合っているのだ。
 感動の場面だ。
 長い抱き合いが親子の愛情と離れ離れになった悲しさを訴える。
 写真に撮ることも忘れた。

 雛は10日ほど庫裏の庭にいた。その間、親が餌を運んだ。5日ほどしたら背中の上に乗せて飛ぶ練習をしていた。雛が落ちそうになるたび親は雛の顔をのぞく。
 台風がきた。雛の姿はみえない。ぶじに飛んだと思った。いた。枝の上にいた。雨風をよく忍んだものだ。また台風がきた。毎日、雨のなか雛をさがすがいない。
 二度の台風が通り過ぎ、雛は元気に枝に姿をみせた。少したくましくみえる。そしていなくなった。

 1年後。庫裏の庭に二羽のキジバトが飛んできた。母鳥は見覚えがある。細く上品な容姿だ。あの親と直感した。もう一羽、なにか不恰好だ。でも、面影がある。
 親子でお礼に来たかと思う。
 ほのぼのとした、嬉しさを感じた。

 ところが、2年後、今年。春からたびたびやって来るようになる。可愛いのと、食べ物に不自由しているのかと餌を与えた。
 育った栖に帰るという帰栖の本能なのか。
 餌は与えるなと言われたが、つがいで来るようになった。

 お盆のある日、ご先祖さまが家族のもとに帰ってくることと、キジバトのことではあるが重なって思えた。帰る意味は違うことではあるが、心情に共感することがあった。
 私が帰るとすれば妻子のところである。
 キジバトの名前は「ポー」である。
 今も、庫裏の前を歩いている。