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このところテレビのニュースを見ていると、どこでも子供を殺した事件が取材されている。それが次から次へと主人公がかわっても続いている。 「母親の愛」というののは風化してしまったように思われるのは、それが全体をしめているように錯覚するからである。 だが、子供が少なくなればなるほど、子供を溺愛してしまいそうだが、はたしてどうなのだろう。育児を拒否する親。育児ができない親。子供が嫌いな親。血がつながっていない子供。子供からすれば、かわいがってもらえない寂しさということになる。戦前戦後の親子にはともに愛情が感じられる。質素な生活と兄弟がかさなるように寝起きする狭い家で育って、親からなにも買ってもらえない子供なのに、親孝行が多い。それはなぜなのでしょう。 親の愛情は形ではない、のかもしれない。 「母さんが夜なべして手袋を編んでくれた」という唄を小学生のときに習ったが、今は教えていないと思われる。 貧しい生活の中でも工夫しておやつをつくった親の時代は、今はない。コンビニやファーストフード、おしゃれなお店で軽くおやつを食べようという時代になってきている。 私じしんもそのようになっている。 美味しい物を食べさせてあげたい。新しいものを買ってあげたい。よろこぶ顔がみたい。だが、これはいい欲ではないのだろう。恥ずかしくないように、おこずかいをたくさんあげる。子供のことを大切に思うのだが、結果的には悪い欲になってしまいそうだ。 だが、こんな大切な子供を殺そうとは夢にも思わないことだ。 他人の子供においても、両親がどれほど可愛がっているかと思うものである。 それが大人ということだろう。 自分にとっも子供にとっても、いい欲をもちたいものである。 それには、「欲を少なくして、足るを知る」という、満足感を自分自身で養うことであろう。釈尊が王子の財産を捨て、無一文の生活に入ったのは、世俗の欲を捨てることにより、大切なものを得たからである。 人を愛し、人の喜ぶ顔をみたいと釈尊は思ったのである。 私達もそうあらねばならない。それが本当の幸せだからである。 |
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