39.病院で乾杯

 肺気腫で16年ガンバッタ人がいました。私の父親と同じ年代の方です。若い頃には力があって頼もしい人でしたが、病気には勝てず自宅療養を長い間していました。
 体力が落ち入院となりましたが、やはり自宅に帰りたいのは誰しも同じです。大正の生まれですので奥さんにはほとんど優しい言葉というのはなかったようです。
 死期が近づくと不安な夜となります。奥さんが帰ろうとすると手を握るようになりました。次の日からベッドの横で泊ることにし、そばにいると安心したようでした。なにかを話そうとしているのですが大きな声をだせなかったそうです。
 そんななか、二人の55年目の結婚記念日を迎えました。そばにあった飲料水で乾杯したそうです。旦那さんははずかしそうに横をむいていたそうです。
 筆記具を用意してなんでも書きなさいと渡したら、家に帰りたいと書き、そして、つづけて「おまえと二人でいたい」と書いたそうです。
 奥さんの長年の苦労が、その一言でいっぺんにふっとんでしまったと話してくれました。
 無口な職人さんだった方でした。孫とひ孫に恵まれました。
 葬儀のときにお孫さんたちが泣き崩れるのをみて、外出できなくなって10年以上をベッドで過ごしても、お孫さんに慕われていたのは正直おどろきました。口ではうるさく聞こえるようでも愛情があったのだと思いました。
 私の師匠が怒るときは感情で怒ってはダメ、相手を思って言わなければ念が残るといったことを思い出しました。
 最後に長い間、言えなかった愛情の言葉を残して逝きました。二人の人生がふたたび続く気がします。