40.庭師の言葉

 畳の和室が消えてきたように庭も少なくなってきました。
 本山というのは奥深い山中にあるので、それ自体が自然の姿です。その深山の自然を各お寺で求めて庭園を造っています。美術的に仏の世界を表現したりしています。
 はじめて比叡山に登詣し、名僧といわれる方がこの山で勉強し修行されたのかと感激し、根本中堂から横川というところまで歩いたのですが、足がマイッテしまいました。
 本山が山奥にあるのは体を鍛えるためだと思いました。また、へとへとになるので若い肉体には必要なことかとも思いました。歩く時間が長ければ頭の中で思索が充分にできます。「昔の坊さんは考えが深くて勉強したものなんですね」と先輩に話したら、交通機関が今のようになかったので、歩きながら、馬に乗りながらで考える時間があったというのです。現代は情報が入り過ぎて急がしいのでしょう。
 花を植えるのは花畑で寺の庭には花を植えない方がいいといいます。本山などで若い修行僧には花の色香が邪魔をするらしいのです。きれいな色姿や香りが俗世間に戻そうとするのでしょうか。女人禁制なのは、坊さんからすれば自分達の為であると理解していました。たいていのお寺に花が植えていない理由の一つでしょうし、参詣に来られる人は枯山水というような庭を欲するものです。
 庭のなかに何を求めるかはそれぞれですし、庭師の意図もそれぞれです。大日如来の金剛・胎蔵界、阿弥陀三尊仏、釈迦仏の世界などを庭石に見立てていることが多いようです。庭園の配置に仏の世界を見るのか、そこから私達自身を見るのか。木は成長しますし石も苔がはえて成長します。数百年前の庭と、数百年後の庭は変化しています。
 私は庭が私達を見ていると思っています。ですから、庭は裏から見てはじめて配置の良さがわかると思っています。京都の有名な石庭は後ろから見たほうが何かわかりやすいと自分勝手に思っています。私達の存在が小さなものに見える気がします。
 さて、本山にいたとき植木市で松を買い勝手に裏庭に植えたのですが、枯れてきたので植木職人さんにどうしたらいいかと尋ねたときのことです。「スルメと酒の一升でも木の元に植えてやるといい」といい、職人さんたちが笑っていました。その教えを護ってお酒をときどきあげます。スルメは植えたことはありませんが酒は本当にいいようです。世の中の機微を庭師さんに教えてもらったのです。