44.鎮護仏教と立正安国

 日本の仏教は国家の安泰を祈ることから始まったといえます。
 国分寺や国分尼寺を各要地に配置したのも鎮護国家を意図したものでした。東大寺の毘盧遮那仏も平和な仏国土を希求する目的で造像され、天平の甍で有名になった鑑真和尚は、鎮護国家のために招聘されたといえます。戒律を受けた僧侶が存在する国土を諸仏は守護するという思想があったからです。
 平安時代に入り比叡山を開いた最澄・伝教大師も戒壇を設けて鎮護国家を目指しました。最澄が求めた戒壇は鑑真和尚が授けた小乗の戒律ではなく大乗の経典による授戒を説きました。ここが奈良仏教と平安仏教の違うところです。比叡山に12年間の篭山を課して大乗の授戒僧を増やそうとしました。この戒律を受けた僧侶が20人以上になることを理想とし、多いほど国は守られると考えられたからです。
 同じ時代に真言宗を開いた空海・弘法大師がいます。空海も密教による鎮護国家を祈りました。京都というを象徴している東寺は教王護国寺といい、仏教による鎮護国家を目的として建立されました。
 鎌倉時代になりますと末法思想が流行しました。日本では1052年が末法の始まりとされています。鎌倉仏教のなかでも法華経が元来、鎮護国家を祈る経典とされていたので日蓮聖人は鎮護国家の思想を強く持っています。浄土系や禅系は主に自身の成仏を願うものでしたが、法華経はこの娑婆を浄土と変えていく思想が説かれているので、仏国土を理想とする菩薩行が示されています。
 日蓮聖人は末法には法華経の題目である南無妙法蓮華経と唱えることが戒律を保つことであるとしました。この唱題は釈尊が私達のために秘し示した教えであると開悟したのでした。
 吾妻鏡に記録されているように正嘉年代には関東大震災のような大地震や疫病・飢饉が続出しました。日蓮聖人はこの有様を眼前にして、人間がいかに救われるかを仏教に求めました。そこに結論としてだされたのfが法華経の信仰でした。これを幕府に進言したのが『立正安国論』の呈上でした。
 法華経の信仰をするならば仏国が顕現されると説き、迫害にあいながらも法華経を広めて生涯をつくされました。法華経は今なを国家の平和を祈る使命をもっているのです。