60「.オツベルと象」の白象と「修羅」

 宮沢賢治は熱心な『法華経』の信仰者です。
 賢治自身がのべているように、賢治の作品は『法華経』を知ってもらうために費やされています。
 賢治が『法華経』を依拠として物語を書いていることを知らずに、作品だけを読んでは本当の理解は得られません。しかし、多くの学者先生は、この賢治の『法華経』信仰を除外して作品を理解しようとしています。このことは『法華経』の学者から多々指摘されてきたところです。

(中略)
 さて、物語に登場している白象・オツベル・百姓・白象集団・月と童子の、誰に視点をあてるかによって様々な考え方ができると思います。ただ、このなかで心境が顕著に変化していくのは白象です。賢治の主張も白象にあると思います。

童話という性格から賢治は何を子供たちに教えようとしたかを探ってみたいと思います。その前に、賢治の仏教観にふれなければ、賢治がほんとうに主張したかったことに近づかないと思います。

賢治は明治29年(1896年)に岩手県に生まれ、昭和8年(1933年)37歳という若さで没しています。大正9年(1920年)10月に、国註会という法華経の教団に入信し、翌年(大正10年)、東京にでて信仰活動をしながら童話を書き始めています。

ところが、夏に妹のトシの病気のため岩手に帰り教師となります。大正11年11月にトシ病死し賢治の苦悶の時期がつづきます。そして、大正13年(1924年)4月、心象スケッチ「春と修羅」を自費出版し、12月にイーハトヴ童を「注文の多い料理店」を刊行します。

ここで注目したいことは、「春と修羅」を発表してから、異色の「宗教詩人」と言われるようになったことです。(『日蓮宗辞典』1082頁)

「春と修羅」 に、妹のトシは「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」というように、賢治にとってトシは、法華経の信仰のよき理解者であり、同信の仲間であったのです。そんなかけがいのないトシが、自分をひとり残して死んでいこうとしている。そのトシを見送る強い心が定まらないことに苦悶します。そして、自分はいまだに修行未熟の修羅の身だからと結論します。

 修羅とは仏教用語で、「闘争してやまない者」「嫉妬心の強いこと」といいます。つまり、賢治の心には強いこれらの葛藤があったというと思います