66.位牌をまもる

東北太平洋岸の津波から一年になろうとしている。はたして、復興はどこまでできたのだろうか。政治や官僚がどこまで、被災者を救おうとされたのだろうか。仮設住宅は充足されたのか、衣食住の生活は満足されているのだろうか。東北の人間はガマン強いから、人の親切に涙をながし、国からなにもされなくても、希望をもって耐えて生きている。

 最初の救済者は寺院であった。多くの人が食べて寝ることができたのである。各宗派の青年僧も必死に救助と食料を運んだ。しかし、被害をうけた寺院もある。いま、寺院の将来が問題となっている。再建のめどが立たない場所もある。資金もないところがある。代替えの場所は提供されない。補償もされないのである。すべて、自分でしなければならない、という状況にある。

 犠牲者の霊前にて読経、供養をしようと思っても、それを許さない行政。死者の信仰がわからないからだ。そのまま、土葬や東京で火葬されたのである。

 住んでいた場所にもどって、遺族の思い出の物をさがしている。位牌をさがしている。先祖まで流されたと涙している。若いときから仕えてきた爺さんや婆さんの位牌をいつまでも探している光景が、いつまでも続く。

 仮設住宅のなかに小さいが仏壇が具えられている。位牌と写真がかざってある。先祖と死者とともに仮設住宅に肩をよせあって生きている。信仰のある人の強さをみる。信仰の心が死者をはげまし、自分もはげまされているのである。死者が私たちに何を願っているのか。私たちは位牌をまもり、そして、、それにこたえていくのである。