86.慈しみの心                    高橋俊隆

寝ている時間が長いのか、行動することに手間取っているためか、一日一日が早く感じる。それは束縛された生活ではなく、自分の好きなように生きていける立場になったのかとも思う。師匠が生きていれば、その目を気にして行動も制限してしまう。また、注意をしてくれる存在がなくなったので放逸に生きてしまう、それが原因と思う。自分で自分に制約と規律を守らせることが大事になる。 

これが末法と思うことはたくさんある。マナーを守らないことが一番である。自然を大事にする。親を大事にする。他人を大事にすることができない人が多くなるのが、単純に末法ということだと思う。

 仏門の者として思うのは、先祖を大事に思っているのか、どうとも思っていないのかということ。お寺に来て誰も言わないのに手を合わせる子供もいる。親や祖母が教えても足を投げ出している子供もいる。お盆でも先祖に会わない人もいれば、毎月、命日にお花と故人の好物を供える人もいる。

 儒教の教えである忠や孝ということを座右の銘にしている者はいるのだろうか。また、自分の成長のため若いときは苦労をしたいと思う人はいるのだろうか。毎日、楽しく過ごして将来に備えるための努力はできているのかと思ってしまう。

 しかし、一流となった人たちをみれば、やはり、目的を持って日夜努力していることがわかった。なるほど、これだけの努力をしたから、今日、これだけの人になれたんだなと思うとき、私も微弱ながら積み重ねてきたお陰で今日があると思うのである。

 日蓮聖人は「心の師とはなれど、心を師とせざれ」という釈尊の教えを私たちに伝えた。法華経の信仰者は、慈悲の心を持ち続けることが大事。慈しみの心、それが菩薩である。怒りを静める、欲をおさえる、愚かなことはしない、争うことはしない。このことに注意していくことが菩薩の道であり、それに気づくことが悟りなのである。