103.古老の智慧

 昔は古老の智慧が必要であった。今は科学の発展やネットに智慧を借りるようになった。老人の存在は感謝と愛情をこめ、長生きをしてもらいたいと願うこととなりつつある。昔からの言い伝えというのも無視されてきてしまった。

 赤ん坊の育児のしかたも変った。背中におぶっていたのが、前抱きになり、靴下をはかせていたのが、健康のため裸足にするようになった。産休もあるし、父親も出産に立ち会い育児休暇をもらうようになった。論理的にとてもよいことと思われる。これは、社会生活がかわったための現証と思われる。背中におぶらなければ仕事ができなかった昔、家の中が寒かった昔とは変わったからだ。人間の適合性の範疇だ。

 社会生活は常に変化している。信仰はどうだろう。先祖を大事にしているだろうか。お寺にお参りしているだろうか。お供物などを奉納して生かされていることに感謝しているだろうか。これも、ネットでお参りとなってはいないだろうか。

 お寺の檀家で地方にいる方は妙覚寺のホームページを見てお参りしているという。私も寺にいるが必ずホームページを開いてお祖師さまにご挨拶する。簡易に写真を掲載していることに申し訳なさを感じているからだ。

 名刹の秘仏も簡単に写真に公開されるようになり驚いた。寺の本堂でコンサートをすることよりも驚いた。秘法書というのも出版され、寺の財産も公開されるようになったが、個人情報のつごうにより犯罪者の名前は公開されないことがある。

 東日本の津波は過去にも再三あり、先人は柵を設けて家を建てないようにと言い伝えてきた。一軒の家が建つと次から次に建つ。一人が花を取れば次から次にと花をもっていく。危険なことを忘れ、悪いいことも見逃してしまうのが人間である。そうならないようにするのが智慧である。古老はその苦い経験を積み重ねてきた。そこに反省があったから謙虚に対応できたのである。敬われる先祖がいたのである。私たちはどうなのだろう。