106.死んでからは修行できない

彼岸。生きている私たちと、亡くなった先祖のために、功徳を積むために設けた修行の期間です。

 最近、とくに感じることは、亡くなった霊は修行を積むことができないということです。肉体があるから修行に意義があると感じるようになりました。お盆は目連尊者が母の餓鬼道から救うために行われるようになりました。母親は死んで餓鬼の世界に行かされたのです。そこから、抜け出すことができず放浪していたのです。その母の苦しみを救うために、生きている目連尊者が供養され、その功徳により餓鬼道から逃れることができました。お彼岸は私たちの先祖に功徳を送ってあげるときです。

 また、生きている私たちが、日頃、怠っていた仏道修行を積み、生きているときの安穏と、死んでからの浄土への道筋を確保するためなのです。

 私たちの肉体という生命は断絶しても魂は不変に存続します。魂は生き続けているのです。秋に紅葉し落葉しても、また春になると若葉が生じ、花や果実を実らせるように、私たちの魂という生命は過去・現在・未来と永遠に続いていくのです。だからこそ、仏道修行が大事であり、現在、どのように生きていくかが大事なのです。

 法華経の自我偈には、「我れ常にここに住す」とか、「方便して涅槃を現ず」、「実には滅度せず」などと説かれています。これは、釈尊の肉体は滅び死んでも、魂は死んでいないということを説いています。魂とか霊魂などはないと思っている人は再考してください。法華経には人間の永遠の生命を説いています。これが久遠実成ということです。

 親しい人との別れは寂しいことです。現世では二度と姿を見、話ができないと思うからです。しかし、修行を積めばこれが可能になります。亡くなった人にたくさん功徳を積んであげてください。力がつけば、いざというときに私たちの前に現れて助けてくれるものです。法華経は最大の功徳力をもっています。大きな栄養を持っているのです。栄養のないものをたくさん食べても力がつきませんが、法華経は強い功徳を与えることができます。深く強い信仰をされ、日蓮聖人から認められる信仰されますよう願っています。