108.妙覚寺のふしめ

早いもので、日延大法尼の二三回忌から一年を経過しました。来年は還暦をむかえ、師僧の報恩のために著している『日蓮聖人の教えと歩み』の第三巻を、二月に皆様のお手元に届けたいと思っています。

 私に学問を勧めて下さったのは師僧です。もともと本を読むのが好きだったことと、なにか一つの分野にしぼって勉強をしたいと思っていたときでした。それから、十年ほどたって、「勉強をしていても感応はでるんだよ」と、私に教えて下さいました。そのときは、感応は厳しい修行によって得られるもので、ただ座って勉強しているだけでは、感応を身につけることはできないと思っていました。今、やっと、師僧が言っていたのは、そういうことなのか、とわかるようになりました。

しかし、それも一つの入り口であって、水行や唱題を重ねることが修行です。そして、もう一つ、師僧が教えた大事なことは、毎日の生活を仏道とすることでした。お祖師さまは常に見ていて下さると教えて下さいました。行住坐臥にその人の信心が現れるものです。

たとえば、お医者さんが診察室のデスクを汚くしていたり、料理をつくっている人が髪や髭を汚くのばしていると、私たちは不安になりますね。僧侶はとくに内心が外に現れると教えられます。その心を説くのが僧侶ですので、仏心は仏身なのです。三十二相八十種好という姿は、その人の心を現したものなのです。清浄を説く者が外見を汚くしていてはダメなんです。どの職業も同じ、あたりまえのことです。

住職になり、やっと妙覚寺は安定してきたと思っています。魔というものは正法を弘めようとする者にたいして、邪魔をします。悪鬼がそれぞれの人に入り込み迫害するのです。勧持品の「悪鬼入其身」です。いままでは、妙覚寺に魔が入るのかと思っていましたが、いくら考えても、失礼な言い方ですが、妙覚寺は古くもなく、由緒もなく、檀家も少なく、財産もない貧乏な寺です。東京のある寺は檀家が五十軒でも、月に五億円の収入がある、それに似た寺ではないのです。だまっていても食べていける、うらやむ寺ではないのです。

昨年、師僧の年忌のおりに、師僧は「有り難うございます」と言って下さいました。師僧から、丁寧に言われたことに、自分は弟子であるのに、その丁寧な言葉に困惑していました。すると、「ごくろうさまでした」と言って下さいました。

それから、一ヶ月ほど考えまして、檀家さんも自分の足で歩くように指導していく時期になったと思いました。私のなかにあった、住職を継ぎ僧侶の信頼だけを、伝えなくてはいけないという責務を、師僧は解放して下さったのです。これからが、私の本来の指導をしていく時節になったと思っています。