112.東日教上人のご法話(1)

 二本松市にて豊受教会のご住職をされています斉藤嘉修上人のご著述より、当山の開基である東日教上人のご法話を転載させていただきます。

 東日教上人の法話                   昭和二十六年

この法話は、私が昭和二十六年頃、阿部法尼に連れられて千葉県市川市の正中山法華経寺奥之院に行った時の法話であります。

 大変感動致しまして、忘れない為にすぐ日記に記してあったものです。

 昭和二十年の敗戦後間もなく、米軍のG・H・Qから十五名の軍人、科学者、宗教家、政治家等あらゆる部内の人々を選んで奥之院に来た時のことであります。それは、日本の宗教の真髄を見たい。と云うことで最初は身延山の方に申込みがあったそうです。

 それで、祈祷による修法と申しますか、法力をもっての祈祷、それを如実に出来る上人といえば、中山法華経寺奥之院の東日教上人をおいて他にないであろうということになって、見延山から僧の案内で、もちろん、通訳が付いて来られたのであります。

 東日教上人四十四歳頃と思われます。

 敗戦後間もない占領下にあったとはいえ、日本人として、又、一宗教家としてのプライドを保ち、臆することもなく堂々と相対された姿がご法話の中から感じられて、非常に印象深く又、感動する法話でありました。

 東日教上人は、若い頃七面山に修行の場を持ち、滝修行を七面山麓に、或いは、伊賀流の極意書を伝え持っておられたとか、奥之院に来られた頃は、時折忍術の一端を見せたことがあったと聞いております。

 先日読んだ本の中で、同じく七面山麓の河原に仮の寝ぐらを作って一千日の滝修行をされた上人の自伝の中に、東日教上人と一緒に雄滝に入った記事が載っておりました。その時に、関西の方に忍術の修行に行くと云って別れたことが書いてあった。

 それが伊賀流であったのかもわかりません。髪も鬚も恐らくカミソリを当てた事はなかったのではないか。少し薄くなった髪を無造作に後にかきあげ、鼻の鬚はピンと横に張っており、顎からびんにかけての鬚は白髪が混ってふさふさと伸びていた。体は大きくはないが、がっしりとした体躯は一寸の隙もない身のこなしで、忍者の動きを思わせるものがあった。特に畳の上を歩く時の足の運びは、スーツとすり足する様なところが瞼に残っております。

 法話の時の柔和な顔は童話というか無垢の笑顔をされておりましたが、厳しく人を見る視線は心を射抜く様な鋭い視線が感じられました。どれ程の修行をなされたのでしょうか。かすれた嗄声というか、銀声と言うか、ゆっくりと一語一語が脳裏にきざまれてゆく様な話し方でした。