120.御前様、尼さんに感謝申し上げます           高橋俊隆

今年は東日教上人の43回忌を迎えます。17回忌まで尼さんは弁天堂の大祭に出仕していました。東日教上人が死去されて年数がたつにつれ、古い人はいなくなり奥之院の体制もかわりました。語弊があるかも知れませんが、尼さんが弁天堂に行くことは好まれていませんでした。何かと悪く風評する人はいるもので、それを鵜呑みにする人もいます。それでも17回忌まではということで、お参りしていました。

私は尼さんから、御祈祷している雰囲気は御前様と同じだといわれました。御前さまが居られると思いビックリすると言っていました。最近になって思い当たることは、信仰心の姿勢かと思うようになりました。東日教上人は、行者は常に行を積まなければならないと教えています。お腹がすけば力がなくなるように、行の力も使えばなくなるものだと言います。夜中に安閑として寝ていれるのは、ニセモノの証拠と言うのです。霊や魔というものは、そこを見抜くから本当の行者には障害が多くできて、身心を弱らせようとするものだ、とくに「獅子身中の虫」に気をつけるようにと教えて下さいました。

私が過ごした中山法華経寺は鬼子母尊神さまを祀り、御祈祷の本家ですので、毎日、朝から夕方まで御祈祷の声を聞いて育ったことになります。門前の小僧のように、知らぬ間に行者の体質になっていました。尼さんは前世からの行者だから、その道を歩まずにはおられないものだと、私に笑っていいました。

はじめて尼さんにお会いしたとき、黒の衣のなかから僅かに見える白衣から、光りが放射されて輝き、その中から尼さんの笑顔が眩しく見えました。その話を尼さんが亡くなる数年目にお話ししましたら、お寺に来る前から、そういう力が備わっていたんだねと非常に驚かれました。

御前さまの力を受け継いだのは尼さんお一人と思います。これからの時代に御前さまや尼さんのような力のある人は、はたして生まれるのかと考えます。なぜなら、命をかけて信仰できる者がいるのかと思うからです。日蓮聖人は弟子や檀越に教えたことは、そのことです。1日24時間の法華経の行者であり、一生、そして、来世も途切れずに法華経の行者であることです。真に正しいか否か、力があるかないかは、いずれ霊山浄土においてわかることです。私はそれを戒めとして、尼さんが遺言された、「お祖師さまならどうされるか」を、日蓮聖人の御遺文を拝読して実行していきたいと思っています。それが、御前さま、尼さんへの報恩と思っています。博学な宗学者が、生きているうちに一度でもいいから、お祖師さまの姿を見たかったと言ったそうです。私にとってお祖師さまの姿を拝見できたことは、何事も怖くない信仰の確信を得たことです。