124. 僧侶に求められるもの                       高橋俊隆

古代より人間は健康と富を求めて生きてきました。人間の最大の欲は生命だと思います。ですから、釈尊は命を法に捧げることを教えました。法華経には「不惜身命」(身命を惜しまない)と説き、法華経を弘通することに命がけで行うように教えました。一番大事な命を信仰のために捧げることができるならば、多少の財産なども喜捨できることになります。

日蓮聖人は「不惜身命」の心がけを持つ者は少ないと見ます。ゆえに、成仏できる者もいないとのべます。命ほど大事なものはないという視点からのべたのです。

信仰を貫くことはなかなかできないのです。これは、鎌倉時代の日蓮聖人のとうじの状況を知らなければわかりません。家庭の仏壇に曼荼羅本尊を祀ることや、お題目を唱えても逮捕される状況だったのです。日蓮聖人が住んでいる草庵に行くだけでも、反逆者のように扱われたのです。まさに、命がけで信仰をしたのです。

私は10代のころに読んだ本の内容が忘れられません。僧侶に対する批判であり願望の文章です。それは、人間の霊魂があるのかどうか分からずに葬式をしていることです。そのような僧侶は霊魂の存在を信じられないであろうと言います。もう一つは、神仏の存在が分からない僧侶が祈祷をしているという言葉です。神仏を信じない僧侶が形だけ祈祷をして効験があるはずはないと言うのです。

私がずっと求めているのは、霊を見ることであり、神仏を拝見することです。そして、東日教上人や日延大法尼のように祈祷の力を身に着けることです。学んだことは、欲を捨てることでした。感応を得て行力を得ようとする凡僧は、何かの欲を捨てることです。釈尊が身分や財産などの全てを離れて出家されたことが原点であるといえます。綺麗な着物を身に着けたいとか、美味しいものを食べないという禁欲が要求される、凡人にあっては、そこが入り口なのかと思っています。

皆さんが求めている僧侶とは、清浄潔斎して日々、仏道に励んでいる姿だと思います。かつての日本の僧侶はそのように精進していたのです。ですから今でも僧侶がそれなりに尊敬されているのです。このことを踏まえて精進していきたいと思っています。